八
記憶に残ったのは心の痛みと苦しみと、無念の中、人の心までなくし散っていった「母」と呼び慕うはずだった者の哀れな最期の姿。
常に孤独だった幼少期。助けを求めても、誰にも声は届かない。いつしか、声を上げることさえ忘れてしまった。
しかし今は違う。
月を仰ぎ立ち尽くしたままの背中を守り包み込むよう、二藍は麹塵を抱きしめた。
「一人にしてすまなかった」
背後から伸びてきた腕に縋るよう彼の胸に背中を預け、「いいえ」と麹塵は小さく答える。
「あなたが無事で良かった」
目を閉じ呟く言葉は、彼女の心からの安堵。
二人が見つめる視線の先には、まだ満開には程遠い遅咲きの桜が⋯⋯。
眺めるその景色に、二藍は茅との在りし日々を思い返し、麹塵に語りかけた。
「昨年のちょうど今頃⋯⋯お前が嫁いで来た頃だったか⋯⋯茅と宮中に出向いたことがあった」────と。
去年の桜は今年よりもまだ咲くのが遅かった気がすると、あの時は蕾のままだった桜の枝をただ無表情に眺めていた。
────⋯⋯⋯⋯
一点を見つめたまま身動きもしない美しい二藍の姿に、宮中の女官たちの熱い視線が注がれていた。
「俺には理解不能だ」と呟く茅を鼻で笑ったことを、今も覚えていると。
「こんな愛想のねぇ野郎の、一体どこが良いっていうんだか⋯⋯」
若干、僻みに聞こえなくもないその台詞に、二藍はその場でえらく寛ぐ側近の姿を睨むよう見遣る。やっと目が合ったと揶揄する彼に向けた眼差しには軽い怒りが見てとれたが、睨まれた本人は何でもないというように鼻で笑いそっぽを向いた。
「何でお前がここにいる?」
「青藍様に頼まれたんだよ、『二藍に付いて行け』ってな。ちなみに、彼女のことなら心配いらねぇ。俺がいなくても、いつも彼女に張り付いてる野郎もいるし」
「一応伝えとくわ」と横目でその姿を盗み見ながら微笑む彼に、二藍は「興味ない」と冷たく簡潔に返していた。
「お前なぁ、仮にも自分の嫁だろ?」
「俺が求めたわけじゃない。あっちから勝手に嫁いできたんだ」
「まぁな。その顔なら女は選び放題だろうよ。嫌でもよってくるわな⋯⋯彼女たちみたいに」
目の前に集う女官たちに向け、二藍の代わりに手を振り答える友人に「煽るな」と苦言を呈す。
「だがまぁ⋯⋯、いい女だと思うけどな⋯⋯俺は」
「ならお前にくれてやる」
「おい、彼女は物じゃないぞ」
怒り半分、呆れ半分でため息を吐く茅は、再び桜の枝に目を向けた二藍の横顔を見つめていたのだった────。
⋯⋯⋯⋯────
「母上様のこと⋯⋯聞きました」
「そうか⋯⋯」
「大丈夫ですか? なんて、愚問だけど⋯⋯私は、あなたが心配です」
自分を抱きしめる彼の腕を労わるよう、そこにそっと手を添えれば、「案ずるな」と言う言葉がそっと降りてくる。
「俺は大丈夫だ。⋯⋯お前がいてくれるから」
そう続く言葉で充分だと、麹塵は胸を撫で下ろす。それが単なる強がりではないと、その声色で分かったからだった。
「まだここにいたいか?」
「⋯⋯お屋敷に戻りとうございます」
「ならば帰ろう」
妓楼に長居は無用だと、その身体を解放する。
「行こう。屋敷で茅が待っている────」
そっと告げ、二人は夜の傾城町を後にした。
願わくは残る桜の散る前に──歌唄いの御伽草子─ 染井与詩乃 @kocyou38
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。願わくは残る桜の散る前に──歌唄いの御伽草子─の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます