第26話:うちのラーメンは世界一おいしいねん!

 新橋の路地裏に佇む立ち呑み「半蔵」。まだ開店時間の17時前、店の前に立つ一人の女性がいた。


 エレガントな黒のワンピースに身を包み、首元にはさりげなくパールのネックレスを光らせる紹子。普段とは違う装いで、何か特別な予定でもあるのだろうか。彼女は少し躊躇いながらも、ドアをそっと開けた。


「あら、紹子はん。今日は早いなぁ」


 かすみさんの声が響く。店内には、まだ準備中の雰囲気が漂っている。


「すみません、かすみさん。ちょっと早く着いちゃって……」


 紹子が言葉を濁していると、かすみさんの手元に目が留まった。


「あれ? かすみさん、何か食べてるんですか?」


 かすみさんの前には、見慣れない麺料理が置かれていた。


「ああ、これか。実はな、うちの賄いなんよ。高井田ラーメンっちゅうねん」


 かすみさんは少し照れくさそうに笑う。


「高井田ラーメン? 初めて聞きました」


「そらそうやろ。うちの故郷のソウルフードやからな。今でもつい食べたくなってしもてな」


 かすみさんは懐かしそうな表情を浮かべる。


「へぇ~、気になります! ぜひ食べてみたいです!」


 紹子の目が輝く。


「そうか? ほんなら今日は特別や。締めにみんなで食べよか」


「本当ですか!? ありがとうございます!」


 紹子の顔がパッと明るくなる。


「ほな、開店の準備せなあかんから、紹子はんはもうちょっと外で待っててくれるか?」


「はい、わかりました。楽しみにしてます!」


 紹子は軽やかな足取りで外に出て行った。


 かすみさんは微笑みながら、準備に取り掛かる。今夜は特別な夜になりそうだ。



 17時、「半蔵」の営業が始まった。


 最初に入ってきたのは、もちろんいつもの紹子。


「いらっしゃい。今日はなんか特別な日か?」


 かすみさんが尋ねる。


「ええ、これから同期の結婚式の二次会なんです。でも、その前に絶対ここに寄りたくて」


 紹子は笑顔で答える。


「そうか。ほな、まずは紹子はんの定番や」


 かすみさんは手際よく赤ホッピーを作り始める。


 次に入ってきたのは、スーツをだらしなく着崩した中年男性。疲れた表情を浮かべながらも、店に入るなり少し表情が和らぐ。


「おう、来たで。今日も大変やったんか、安谷くん?」


 かすみさんが声をかける。


「ああ、かすみさん。今日は訓練がきつくてさ。体がバキバキですよ」


 安谷くんは首を回しながら答える。


「ほな、今日は疲れに効くやつ出すわ」


 かすみさんは棚から珍しそうな瓶を取り出す。


「これ、沖縄の泡盛やねんけど、ヘビの骨が入ってんねん。強精剤みたいな効果があるらしいで」


「へえ、そんなのあるんですね。じゃあ、それください」


 安谷くんは興味深そうに眺める。


 そこへ、派手な柄のシャツを着た小柄な女性が入ってくる。


「こんばんは~。今日も元気に飲むぞ~!」


 明るい声が響く。


「おう、万秋ちゃん。今日もテンション高いなぁ」


 かすみさんが笑顔で迎える。


「だって今日、すっごい良いことがあったんだよ。何か特別なお酒ない?」


「ほな、これはどうや? フランスの珍しいリキュールやねん。バラの香りがすると評判やで」


 かすみさんは美しいピンク色の液体が入ったボトルを取り出す。


「わぁ、素敵! それください!」


 万秋ちゃんは目を輝かせる。


 そこへ、黒縁メガネをかけた中年の男性が入ってくる。髪の毛は後ろで一つに束ねられ、なんとなく文化人の雰囲気を漂わせている。


「やぁ、こんばんは」


「おお、高梨さん。今日はちょっと雰囲気違うな」


 かすみさんが声をかける。


「ええ、今日は講演会があってね。少し気合を入れてみたんだ」


「ほな、今日は特別なウイスキーを出すわ。スコットランドの小さな蒸留所のもんやけど、めっちゃ香り豊かでおいしいで」


 かすみさんは棚から古びた瓶を取り出す。


「おや、それは楽しみだ」


 高梨さんは期待に満ちた表情を浮かべる。


 最後に、ゆったりとしたワンピースを着た女性が入ってくる。髪はくるくるとパーマがかかっており、優しい雰囲気を醸し出している。


「こんばんは~。今日も一杯だけいただこかな~」


「おう、杏奈さん。相変わらず忙しそうやな」


 かすみさんが声をかける。


「ええ、今日はこれからお店だから。でも、ここで一杯飲まないと一日が始まらないのよ」


「わかるで。ほな、今日はこれや」


 かすみさんは小さな徳利を取り出す。


「これ、長野の珍しい日本酒やねん。花の香りがするって評判やで」


「まあ、それ頂戴」


 杏奈さんは嬉しそうに徳利を受け取る。


 こうして、「半蔵」の夜が始まった。



 店内が賑わいを増す中、かすみさんは常連たちに次々と料理を振る舞っていく。


「紹子はん、これ食べてみ? 新しく仕入れた岩手のウニやで」


 かすみさんは小さな皿に乗せたウニを紹子の前に置く。


「わぁ、美味しそう! いただきます」


 紹子が一口食べると、その表情が輝く。


「うわぁ、濃厚! でも、なんだか懐かしい味がするような……」


「そうやろ? とれたちぴちぴちやからな~」


 かすみさんは嬉しそうに話を続ける。


「このあと紹子ちゃんの提案でちょっと変わった締めを用意してるんよ。締めに高井田ラーメン欲しい人は言うてな~」


「高井田ラーメン? それってかすみさんの故郷の料理でしたっけ?」


 安谷くんが興味深そうに尋ねる。


「そうそう。大阪の東大阪市にある高井田っていう地域の名物なんや」


 かすみさんの目が遠くを見つめるようになる。


「へぇ、どんなラーメンなんですか?」


 万秋ちゃんが目を輝かせながら聞く。


「うちのラーメンは世界一おいしいねん!」


 かすみさんの声が弾む。


「まず、スープがすごいんや。鶏ガラと豚骨をじっくり煮込んで、そこに魚介のダシを合わせるねん。それだけやないで。隠し味に高井田特製の醤油を使うんよ」


「へぇ、複雑な味わいなんですね」


 高梨さんが感心したように言う。


「そうなんや。でも、そのスープがめっちゃバランスええねん。コクがあるのに、口当たりがええから、どんどん食べられるんや」


 かすみさんは熱く語り続ける。


「麺もな、中太麺で、もっちりとした食感がええねん。スープによく絡むんよ」


「具は何が入るんですか?」


 杏奈さんが興味深そうに尋ねる。


「定番はチャーシューと味付け玉子、メンマ、ネギ。でも、うちの店の隣のおっちゃんとこは、揚げたニンニクチップをトッピングしてはったわ」


「美味しそう! 早く食べたいです」


 紹子が期待に胸を膨らませる。


「ほんま、うちのラーメンは特別なんや。小さい頃から食べてて、今でも帰省したら必ず食べに行くんよ」


 かすみさんの目に、懐かしさと誇りが混ざったような感情が浮かぶ。


「でも、なんでそんなに美味しいラーメンが、あまり知られてないんですか?」


 安谷くんが不思議そうに尋ねる。


「それがな……」


 かすみさんは少し寂しそうな表情を浮かべる。


「高井田のラーメン屋さん、みんな家族経営の小さな店ばっかりやねん。大々的に宣伝したりせえへんし、店主さんらも「うちのラーメンが一番」って自信満々やから、わざわざ外に売り込もうとせえへんのや」


「でも、それって素敵なことじゃないですか? 自分たちの味に誇りを持って、地元の人たちに愛されているんですもの」


 万秋ちゃんが明るく言う。


「せやな。確かにそう思うわ」


 かすみさんは微笑む。


「ほな、もうすぐ閉店時間やけど、約束の高井田ラーメン、作らせてもらうわ」


「やったー!」


 常連たちから歓声が上がる。


 かすみさんは満面の笑みを浮かべながら、厨房へと向かっていった。



 かすみさんが厨房から出てくると、店内に香ばしい匂いが広がる。


「お待たせ! 高井田ラーメンの出来上がりや!」


 かすみさんは大きな鍋を持って現れた。


「わぁ、いい匂い!」


 紹子が目を輝かせる。


「ほな、みんなで食べよか。ラーメンは分けにくいから、大きな鍋に作ってきたで」


 かすみさんは常連たちにそれぞれ小さな丼を配り、鍋からラーメンをよそっていく。


「いただきま~す!」


 全員で声を合わせ、一斉に箸を取る。


「うわぁ、これはすごい!」


 安谷くんが驚きの声を上げる。


「スープがめちゃくちゃ深くて、コクと旨味がある! こんなの初めて食べた」


「ねぇ、この麺の食感もたまらないわ」


 万秋ちゃんが頬を緩める。


「歯ごたえがあるのに、すごくしなやか。スープとの相性も抜群」


「チャーシューも絶品ですね。柔らかくて、でも肉の旨みがしっかりある」


 高梨さんが感心したように言う。


「ネギの香りと食感が、全体を引き締めてるわ」


 杏奈さんもうなずきながら言う。


「かすみさん、これホンマに美味しいです!」


 紹子が興奮した様子で叫ぶ。


「せから、うちのラーメンは世界一おいしいねん! って言うたやろ?」


 かすみさんは誇らしげに胸を張る。


「確かに世界一かもしれません」


 紹子が満面の笑みで答える。


「でも、かすみさん。どうしてこんなに美味しいラーメンを、普段出さないの?」


 安谷くんが不思議そうに尋ねる。


 かすみさんは少し考え込むような表情を見せた。


「それはな……」


 彼女は言葉を選ぶように話し始めた。


「このラーメン、うちの故郷の味なんや。たくさんの人に食べてもらいたい気持ちもあるけど、同時に大切にしたい思い出でもあるんよ」


 常連たちは静かに聞き入る。


「それに、ここは立ち飲み屋やからな。ラーメンを出すんは、厨房的にちょっと難しいんよ」


 かすみさんは苦笑いを浮かべる。


「でも、こうしてたまに作って、大切な常連さんに振る舞うのは、すごく幸せなことやと思うんや」


 その言葉に、常連たちの顔がほころぶ。


「かすみさん……」


 紹子が感動したように呟く。


「私たちこそ、幸せです。こんな素敵な味を、こんな素敵な場所で、みんなで一緒に味わえて」


 他の常連たちもうなずく。


「ほんま、ありがとう。みんなのおかげで、うちの故郷の味がもっと特別なもんになったわ」


 かすみさんの目に、小さな涙が光る。


 その瞬間、店内に温かな空気が満ちた。それは単なるラーメンの味だけでなく、思い出や絆、そして「半蔵」という特別な場所が作り出す、かけがえのない瞬間だった。


「さあ、もう一杯いこか!」


 かすみさんが明るく言う。


「はい!」


 全員で声を合わせ、再び箸を手に取る。


 その夜、「半蔵」に集まった人々は、一つの鍋を囲みながら、それぞれの人生や思い出を語り合った。高井田ラーメンは、彼らの心と心を繋ぐ架け橋となり、新たな思い出を作り出していった。


 閉店時間が近づき、常連たちが次々と帰っていく中、最後に残った紹子がかすみさんに声をかけた。


「かすみさん、今日は本当にありがとうございました。素敵な思い出になりました」


「こちらこそ、ありがとう。紹子はんら常連さんがおるから、うちも頑張れるんや」


 二人は笑顔で見つめ合う。


「それじゃ、お先に失礼します。おやすみなさい」


「おやすみ。気をつけて帰ってな」


 紹子が店を出ていくと、かすみさんは満足そうにため息をついた。そして、ゆっくりと厨房に向かい、最後の片付けを始めた。


 今夜の「半蔵」は、いつも以上に特別な夜となった。高井田ラーメンの香りと、温かな思い出が、小さな立ち飲み屋に深く染み込んでいった。

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