第9話:そこまでしてうちに呑みに来はるなんて……
初夏の風が心地よく吹き抜ける夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんは、淡い青色の浴衣姿で、髪に小さな紫陽花の髪飾りをつけ、涼しげな雰囲気を醸し出している。彼女の表情には、いつもの優しさと共に、何か物思いに沈んでいるような影が見えた。
この夜、カウンターには五人の常連客の姿があった。
まず、赤いブラウスに白のパンツスーツという凛々しい姿の貴船紹子が立っている。今日は少し疲れた表情を浮かべていた。
その隣には、シンプルなワンピースのかおるさんが立っていた。医療従事者らしい鋭い観察眼で、周りの様子を窺っている。
向かい側には、いつもの背広姿の林川先生が立っていた。開業医らしい落ち着いた雰囲気を漂わせている。
その隣には、派手な柄のアロハシャツを着たくまさんが立っていた。かすみさんと同じく居酒屋を経営している彼は、なぜかハワイアンな雰囲気を漂わせている。
そして、端の方には真っ白なワイシャツにネクタイという、いかにも仕事帰りといった姿の金田さんが立っていた。いつもの紳士的な雰囲気を漂わせている。
かすみさんは、五人の前で軽快に動きながら、新しいお酒の説明を始めようとしたその時、店の入り口が開いた。
「おかえり~」
かすみさんが振り返ると、そこには初めて見る男性の姿があった。
「あら、初めてのお客さん? いらっしゃいませ」
かすみさんは笑顔で男性を迎え入れた。
男性は静かにカウンターに座り、ビールを注文した。かすみさんは丁寧にビールを注ぎ、男性の前に置いた。
その後、男性は黙々とビールを飲み、簡単な肴をつまむと30分ほどで店を出て行った。
「いってらっしゃい」
かすみさんが見送ると、店内に静寂が流れた。
しばらくして、かおるさんがぽつりと口を開いた。
「今帰ったお客さん、癌ですね」
その言葉に、店内の空気が一瞬凍りついたように感じた。
「そうだね、飲んでた薬見てたらわかるね」
林川先生も静かに同意した。
「えっ? そんな……」
紹子が動揺した様子で声を上げる。
かすみさんは、少し考え込むような表情を見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「人生いろいろですねえ」
その言葉に、店内の空気が少しずつ和らいでいく。
「林川先生、その薬からどんなことがわかるんですか?」
くまさんが静かに尋ねた。
林川先生は少し考え込むような表情を見せた後、ゆっくりと説明を始めた。
「あの方が飲んでいたのは、オキシコドンという強オピオイド鎮痛薬だね。これは通常、中等度から高度の痛みを伴う癌性疼痛の緩和に使用される。それに加えて、制吐剤のメトクロプラミドも見かけた。これらの組み合わせから、おそらく進行性の消化器系の癌、具体的には膵臓癌や胃癌の可能性が高いと推測できる」
林川先生の言葉に、店内が静まり返った。
「そうか……進行性の癌か」
金田さんが静かに呟いた。
「でも、そんな状態でお酒を飲んでも大丈夫なんでしょうか?」
紹子が心配そうに尋ねる。
「厳密に言えば推奨はされないけれど、末期の患者さんの場合、QOL(生活の質)を重視することも多いんだ。もしかしたら、主治医の許可を得ての楽しみのひとつかもしれない」
林川先生が優しく説明した。
かすみさんは、みんなの会話を聞きながら、静かに呟いた。
「そこまでしてうちに呑みに来はるなんて、相当なことがあったんでしょうね……」
その言葉に、全員が沈黙した。店内に重い空気が漂う。
しばらくして、かすみさんが静かに話し始めた。
「でも、そんな状況でも一杯の酒を楽しめるっていうのは、ある意味幸せなことかもしれませんね。生きてる限り、楽しむことを忘れちゃいけない。そう思いませんか?」
かすみさんの言葉に、みんなが静かに頷いた。
「そうだな……。生きてるって、そういうことなんだろうな」
くまさんが感慨深げに言う。
かすみさんは、みんなの様子を見ながら、新しいお酒を用意し始めた。
「みなさん、こんな話の後には特別なお酒が必要ですね。これは、ブルターニュ地方の『エドゥ・ヴィ』という蒸留所の『ヴィ・ド・ヴィ』という珍しいブランデーです」
かすみさんは、深い琥珀色の液体を、それぞれのグラスに注いでいく。
「このブランデーは、リンゴのシードルを蒸留して作られるんです。通常のブランデーとは違い、フルーティーな香りと、まろやかな口当たりが特徴なんですよ。まるで人生の甘さと苦さを一緒に味わえるような、そんな味わいです」
五人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「わぁ、本当に不思議な味わい……」
紹子が感嘆の声を上げる。
「ほんまやな。なんか、人生の味がするわ」
くまさんも満足そうに頷く。
かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。そして、新しい肴を用意し始めた。
「このブランデーに合わせて、特別な一品を用意しました」
彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。
「これは、『人生の味わい 前菜盛り合わせ』です。甘味、酸味、苦味、塩味、旨味の五味を全て含んだ五種類の前菜を盛り合わせてみました」
皿の上には、リンゴとカマンベールチーズのカナッペ、スモークサーモンのレモン風味、ルッコラのサラダ、生ハムのメロン巻き、そして干し椎茸の佃煮が美しく並べられていた。
「わぁ、美しい……」
かおるさんが思わず声を漏らす。
「いただきます」
五人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
「うん! これはうまい! 人生の味がするわ」
くまさんの声が弾んだ。
「そうそう、人生って結局こんな感じよな。いろんな味が混ざり合って、それでもなんとかやっていくんや」
金田さんが感慨深げに言う。
その言葉に、全員が静かに頷いた。
その夜の「半蔵」は、人生の喜びや悲しみ、そして予期せぬ出会いの話で満ちていった。かすみさんは、黙って耳を傾けながら、時折優しい笑顔を浮かべていた。彼女にとっても、この「半蔵」での日々が、かけがえのない出会いの連続なのだと感じていた。
店内には、人生の機微を感じさせるような温かな空気が流れていた。
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