第10話:みんなで先生のお世話するのも、半蔵の楽しみよね
梅雨明けの蒸し暑い夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんは、涼しげな浴衣姿で、髪に小さな朝顔の髪飾りをつけ、夏の訪れを感じさせる雰囲気を醸し出している。
この夜、カウンターには五人の常連客の姿があった。
まず、淡いブラウスに濃紺のパンツスーツという凛々しい姿の貴船紹子が立っている。今日は少しリラックスした表情を浮かべていた。
その隣には、派手な柄のアロハシャツを着たくまさんが立っていた。かすみさんと同じく居酒屋を経営している彼は、なぜかハワイアンな雰囲気を漂わせている。
向かい側には、シンプルなワンピースのかおるさんが立っていた。医療従事者らしい鋭い観察眼で、周りの様子を窺っている。
その隣には、恰幅の良い体型の茨木ちゃんが立っていた。歴史に詳しい彼女は、今日も何か面白い話を期待しているようだ。今日は服を黒でまとめているのでぱっと見マツコ・デラックスに見える。
そして、端の方には真っ白なワイシャツにネクタイという、いかにも仕事帰りといった姿の金田さんが立っていた。いつもの紳士的な雰囲気を漂わせている。
かすみさんは、五人の前で軽快に動きながら、新しいお酒の説明を始めようとしたその時、店の入り口が開いた。
「おかえり~」
かすみさんが振り返ると、そこには車いすに乗った「先生」の姿があった。
「あら、先生! お久しぶりです」
かすみさんは笑顔で先生を迎え入れた。
常連たちも一斉に先生に気づき、歓迎の声を上げる。
「先生、お久しぶりです!」
「元気にしてました?」
先生は笑顔で頷いた。先生は車いすなのでいつも外呑みなのだ。
ちなみに、先生はみんなから先生と呼ばれているが、何の先生なのかは誰も知らない。
「みなさん、お久しぶりです。相変わらず賑やかで良いですねえ」
先生の声は少し掠れていたが、目は輝いていた。
好々爺の表情だ。
くまさんが素早く動いて、外の樽テーブルを整え始めた。
「先生、こっちのテーブル準備しましたよ。ゆっくりどうぞ」
かおるさんも静かに先生の車いすを押し、テーブルまで案内した。
「ありがとう、みなさん。本当に親切だねえ」
先生が感謝の言葉を述べると、紹子が先生の前に座った。
「先生、今日は何を飲みます? 私がお給仕しますよ」
「そうだねえ、久しぶりだから日本酒かな」
かすみさんはすかさず、特別な日本酒を用意し始めた。
「先生、これは福島の『会津娘』という酒蔵の『純米大吟醸 弥生』という珍しいお酒です。口当たりが柔らかく、フルーティーな香りが特徴なんですよ」
先生は嬉しそうに日本酒を口に運んだ。
「おお、これは美味しい。さすがかすみさん、目利きだ」
その言葉に、かすみさんは照れくさそうに微笑んだ。
茨木ちゃんが先生の隣に座り、おつまみを勧め始めた。
「先生、これ食べてみてください。かすみさん特製の枝豆の燻製なんです」
先生は枝豆を口に入れると、満足げな表情を浮かべた。
「うん、これは珍しい。燻製の香りが枝豆の味を引き立てているねえ」
金田さんも静かに先生に近づき、耳元で優しく話しかけた。
「先生、お料理の説明、もう少し大きな声でしましょうか?」
先生は感謝の笑みを浮かべながら頷いた。
そんな中、先生が突然口を開いた。
「そういえば、かすみさん知っとるか、あの事件? まったく最近の若い者は……」
その言葉に、かすみさんが静かに注意を促した。
「先生、そういう話はやめましょう。みんなで楽しく飲みましょうね」
先生は少し恥ずかしそうに笑った。
「そうだね、すまない。ついついそういうこと行ってしまうのは老人な嫌な癖じゃ……」
紹子が話題を変えようと、明るく声をかけた。
「先生、最近何か面白い本読みました? 私、編集の仕事してるんですけど、先生のおすすめがあったら教えてください」
先生の目が輝いた。
先生は目を細め、懐かしそうな表情を浮かべながら話し始めた。
「最近読んだ中では、村上春樹の『海辺のカフカ』がね、本当に心に残ったんだよ」
紹子が身を乗り出すように聞き入る。
「へえ、村上春樹ですか。私も好きな作家なんです」
先生は嬉しそうに頷き、続けた。
「そうかい。あの本はね、現実と幻想が交錯する不思議な物語なんだが、人間の孤独や成長について深く考えさせられるんだ」
くまさんが首をかしげる。
「村上春樹か……難しそうだけど、面白いの?」
先生は優しく微笑んだ。
「難しいところもあるけどね、読んでいると不思議と引き込まれるんだよ。まるで夢を見ているような……」
かおるさんが静かに口を開いた。
「私も読んだことがあります。確かに、現実逃避のような感覚がありましたね」
先生は嬉しそうに頷いた。
「そう、その通りだ。でもね、その中にも人生の真理が隠れている。例えば……」
先生が熱心に語り始めると、茨木ちゃんまでもが興味深そうに耳を傾けた。普段は歴史にしか興味がないように見える彼女だが、先生の話術に引き込まれているようだった。
金田さんは静かにメモを取りながら聞いている。時折、鋭い質問を投げかけ、先生との対話を深めていく。
かすみさんは、カウンターの向こう側からこの光景を見守っていた。先生を中心に、年齢も職業も異なる常連たちが一つの輪になって、文学について語り合っている。その姿に、彼女は心温まる思いを感じていた。
かすみさんは、静かに新しいおつまみを用意しながら、先生の話に耳を傾ける常連たちの表情を観察した。真剣な眼差し、時折浮かぶ笑顔、そして深い考えに沈んだ表情。それぞれが、先生の言葉から何かを感じ取っているようだった。
「みんなで先生のお世話するのも、半蔵の楽しみよね」
かすみさんはしみじみそう言った。
かすみさんのつぶやきに、常連たちは深く頷いた。
その夜の「半蔵」は、先生を囲んでの温かな雰囲気に包まれていた。それぞれが先生を気遣い、時には冗談を交えながら、楽しい時間が過ぎていった。
閉店時間が近づくと、くまさんと金田さんが協力して先生を車いすに乗せ、店の外まで見送った。
「先生、また来てくださいね」
「次は私が先生の好きな焼き鳥を用意しておきます」
先生は満面の笑みを浮かべながら、みんなに手を振った。
「ありがとう、みんな。本当に楽しかったよ。また来るよ」
かすみさんは店の前に立ち、先生が曲がり角を曲がるまで見送った。そして、静かにつぶやいた。
「こういう温かい関係が作れるのも、半蔵の魅力なんやろうなあ」
その言葉に、残った常連たちも静かに頷いた。半蔵には、お酒や料理以上の何かが存在していることを、みんなが感じていた。
店内に戻ったかすみさんは、しみじみとした表情で話し始めた。
「みなさん、今日は本当にありがとうございました。先生、すっごく喜んでたみたいやね」
くまさんが笑顔で答えた。
「いやいや、俺たちこそ楽しかったよ。先生のおかげで、みんなで協力する機会が増えたしね」
紹子も頷きながら言った。
「そうそう。普段はみんな自分の飲み方で楽しんでるけど、先生が来ると一つにまとまる感じがするよね」
かおるさんが静かに付け加えた。
「医療者の立場から見ても、先生にとってこういう社会との繋がりはとても大切だと思います。半蔵に来ることが、先生の健康にも良い影響を与えているんじゃないでしょうか」
茨木ちゃんは目を輝かせながら言った。
「それに、先生の話す昔話がめっちゃ面白いんだよね。歴史好きの私としては、生きた歴史を聞いてるみたいで最高なんだ」
金田さんも紳士的な口調で話した。
「私も先生との会話を楽しみにしています。人生の先輩として、多くのことを学ばせていただいています」
かすみさんは、みんなの言葉を聞きながら、新しいお酒を用意し始めた。
「みなさん、こんな素敵な話の後には特別なお酒が必要ですね。これは、スコットランドの『グレンモーレンジ』という蒸留所の『ネクタードール』という珍しいウイスキーです」
かすみさんは、深い琥珀色の液体を、それぞれのグラスに注いでいく。
「このウイスキーは、サウテルヌワインの樽で後熟させているんです。そのため、通常のウイスキーよりも甘みがあり、フルーティーな香りが特徴なんですよ。まるで人と人との繋がりのように、複雑で深みのある味わいです」
五人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「わぁ、本当に不思議な味わい……」
紹子が感嘆の声を上げる。
「ほんまやな。甘いのにスモーキーな感じもする。なんか人間関係みたいやわ」
くまさんも満足そうに頷く。
かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。そして、新しい肴を用意し始めた。
「このウイスキーに合わせて、特別な一品を用意しました」
彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。
「これは、『絆の味 前菜盛り合わせ』です。五種類の食材を使って、それぞれが調和しながらも個性を活かした一品に仕上げてみました」
皿の上には、スモークサーモンのカナッペ、ハニーナッツ、ドライフルーツの甘露煮、ブルーチーズ、そして柚子胡椒を効かせた鶏の燻製が美しく並べられていた。
「わぁ、美しい……」
かおるさんが思わず声を漏らす。
「いただきます」
五人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
「うん! これはうまい! それぞれの味が引き立て合ってる」
茨木ちゃんの声が弾んだ。
「そうそう、まるで私たちみたいだね。みんな違うけど、半蔵に来ると不思議と調和するんだ」
金田さんが感慨深げに言う。
その言葉に、全員が静かに頷いた。
かすみさんは、みんなの様子を見ながら、静かに言った。
「半蔵はね、お酒や料理を提供する場所やけど、それ以上に人と人とが繋がる場所なんです。先生もそうやし、みなさんもそう。ここに来ると、なんだか家族みたいな気がするんです」
その言葉に、常連たちは温かな気持ちに包まれた。
その夜の「半蔵」は、普段以上に温かな空気に包まれていた。先生との思い出を語り合いながら、それぞれが「半蔵」という特別な場所への思いを新たにしていった。
閉店時間が近づき、常連たちが帰り支度を始める中、かすみさんは静かにつぶやいた。
「こんな素敵な常連さんたちと、こんな時間を過ごせるなんて、私って本当に幸せ者やなぁ」
その言葉に、誰もが心の中で同意していた。半蔵は、単なる立ち呑み屋ではなく、人々の心が通い合う特別な場所なのだと。
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