第15話:おっちゃん、これ、バクチク食うてんの?

 梅雨明けの蒸し暑い夜、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんは、涼しげな浅葱色の浴衣姿で、髪に小さな朝顔の髪飾りをつけ、夏の訪れを感じさせる雰囲気を醸し出している。


 この夜、カウンターには五人の常連客の姿があった。


 まず、黒のタンクトップにカーキのカーゴパンツという爽やかな装いの貴船紹子が立っている。今日は少し疲れた表情を浮かべていた。


 その隣には、派手な花柄のシャツにベージュのチノパンという、いかにも夏らしい姿のきりんさんが立っていた。首の長さが際立つ彼は、こてこての大阪弁で周りを和ませている。


 向かい側には、白のポロシャツに紺のショートパンツという涼しげな姿の万秋ちゃんが立っていた。小さくて美人の彼女は、周りを見渡しながら楽しそうに微笑んでいる。


 その隣には、グレーのTシャツに黒のジーンズという、シンプルな装いの霧ちゃんが立っていた。すっぴんにサングラスという、ちょっと変わった格好だ。


 そして、端の方には、白のワイシャツに黒のスラックスという、いかにも仕事帰りといった姿の無帽さんが立っていた。彼の名前とは裏腹に、今日も帽子をかぶっている。


 かすみさんは、五人の前で軽快に動きながら、新しいメニューの説明を始めた。


「みなさん、今日は新メニューの試食をお願いしたいんです。夏にぴったりの珍しいお酒と、それに合わせた肴を用意したんですが、どうでしょう?」


 五人の目が一斉に輝いた。


「おお! それは楽しみやなあ」


 きりんさんが大阪弁で答える。


「どんなお酒なんですか?」


 紹子が興味深そうに尋ねる。


 かすみさんは、にっこりと笑いながら答えた。


「実はね、スペインの『カヴァ・デ・ナダ』という珍しいノンアルコールスパークリングワインなんです。通常のカヴァと同じ製法で作られているんですが、最後にアルコールを抜いているんです」


「へえ、面白そうですね」


 万秋ちゃんが目を輝かせる。


「でも、なんでノンアルコールなんですか?」


 霧ちゃんが首をかしげる。


「実はね、最近お客さんの中にも健康志向の人が増えてきて。でも、お酒の雰囲気は味わいたいという声があったんです」


 かすみさんは説明しながら、美しい泡立ちのスパークリングワインを五人のグラスに注いでいく。


「さあ、どうぞ召し上がってください」


 五人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。


「わあ、本当にお酒みたい!」


 紹子が感嘆の声を上げる。


「ほんまやな。泡の口当たりもええし、香りも本物そっくりや」


 きりんさんも満足げに頷く。


「これなら、お酒が飲めない人でも楽しめそうですね」


 万秋ちゃんが笑顔で言う。


 かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。そして、新しい肴を用意し始めた。


「このお酒に合わせて、特別な一品を用意しました」


 彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。


「これは、『夏の風物詩 バクチク寿司』です。バクチクって知ってます?」


「バクチク? 聞いたことないなあ」


 無帽さんが首をかしげる。


「実はバクチクっていうのは、『莱草(らいそう)』っていう中国原産のハーブなんです。ミントに似た爽やかな香りと、ほんのりとした辛みが特徴なんですよ」


 かすみさんは説明しながら、皿を五人の前に置いた。


 皿の上には、小さな握り寿司が美しく並べられていた。通常の寿司ネタの上に、鮮やかな緑色の葉っぱが乗せられている。


「このバクチクを、寿司ネタの上にのせてみました。夏らしい爽やかさと、寿司の旨味が絶妙にマッチするんですよ」


「へえ、面白そうですね」


 霧ちゃんが興味深そうに寿司を手に取る。


 五人が一斉に口に運ぶと、驚きの声が上がった。


「うわ! なんやこれ! めっちゃ爽やかやけど、寿司の味もしっかりある!」


 きりんさんが目を見開いて叫ぶ。


「本当だ。これ、すごくいいですね。夏バテしそうな時にぴったりかも」


 紹子も感心したように頷く。


「かすみさん、このバクチクってどこで手に入るんですか?」


 万秋ちゃんが興味深そうに尋ねる。


「実はね、中華街の薬膳料理の店で見つけたんです。最初は何かわからなくて、店主さんに聞いたら教えてくれて。それで、これは面白いなと思って」


 かすみさんは嬉しそうに説明する。


 その時、無帽さんが突然声を上げた。


「おっちゃん、これ、バクチクうてんの?」


 その突飛な言葉に、全員が笑い出した。


「無帽さん、相変わらずやな。でも、そのツッコミ、ええと思うで」


 きりんさんが笑いながら言う。


 かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。


「みなさん、いかがでしたか? このバクチク寿司、メニューに加えてもいいと思いますか?」


 かすみさんが五人に尋ねると、全員が 大きく頷いた。


「絶対に加えるべきですよ! これ、めちゃくちゃ美味しいです」


 紹子が目を輝かせながら言う。


「ほんまやな。ウチの店にもメニューとして取り入れたいくらいや」


 きりんさんも満足げに頷く。


 その言葉を聞いて、かすみさんは少し困ったような表情を浮かべた。


「あの、きりんさん。このバクチク寿司、うちの半蔵オリジナルメニューにしたいんです。他の店では出さないでもらえますか?」


 きりんさんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに大きく笑った。


「冗談や、冗談! かすみはんの大事なメニューを勝手に使うわけないやろ。半蔵の名物にしたらええがな」


 その言葉に、かすみさんはほっとしたような表情を見せた。


「ありがとうございます。きりんさんのお店には、また別の新メニューを考えますね」


 霧ちゃんは、じっと皿の上の寿司を見つめていた。


「かすみさん、これって、お酒が飲めない人でも楽しめますよね。私、友達に妊娠中の人がいるんですけど、こういうの喜びそう」


「そうそう! それいいわ!」


 万秋ちゃんが賛同の声を上げる。


「私も、海外からのお客様をよくご案内するんですけど、お酒が飲めない方も多いんです。でも日本の居酒屋文化を体験したいって言われて。こういうメニューがあると助かります」


 かすみさんは、みんなの意見を聞きながら、嬉しそうに頷いていた。


「みなさん、ありがとうございます。こういう風に意見をもらえるのが、試食会の醍醐味ですね」


 無帽さんは、ずっと黙って聞いていたが、ここで口を開いた。


「かすみはん、ほんまにええもん作ったで。これ、うちの現場の若い子らにも勧めたいわ。夏場の熱中症対策にもなりそうやし」


 その言葉に、かすみさんは少し驚いたような顔をした。


「無帽さん、現場って……もしかして、建設現場のことですか?」


 無帽さんは、少し慌てたような様子で帽子を被り直した。


「あ、いや、そういうんじゃなくて……」


 その反応に、他の常連たちは興味深そうな顔を見せた。そう、今日の常連さんの中で無帽さんは特に正体不明のお兄さんなのだ。無帽さんの正体について、みんなそれぞれの推測を始めているようだった。


 かすみさんは、さりげなく話題を変えた。


「さて、バクチク寿司の次は、もう一品試してもらいたいものがあるんです」


 彼女は、厨房に向かって新しい料理を取りに行った。


 その間、常連たちは、バクチク寿司の感想や、無帽さんの謎めいた発言について、楽しそうにおしゃべりを始めた。半蔵の常連たちの絆が、また一つ深まったような瞬間だった。

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