第14話:霧ちゃん、お店番上手やね!

 梅雨明けの蒸し暑い夜、立ち呑み「半蔵」の店内は、いつもの温かな雰囲気に包まれていた。かすみさんは、淡いグリーンの浴衣姿で、髪に小さな朝顔の髪飾りをつけ、夏の訪れを感じさせる雰囲気を醸し出している。


 この夜、カウンターには五人の常連客の姿があった。


 まず、ライトブルーのシャツにベージュのチノパンという爽やかな装いの貴船紹子が立っている。今日は少しうっとりした表情を浮かべていた。


 その隣には、グレーのスーツ姿の徳栄さんが立っていた。いつもの通り、酎ハイのボトルを前に置いている。


 向かい側には、ネイビーのジャケットにグレーのスラックスという落ち着いた装いの高梨さんが立っていた。ウイスキーのグラスを手に、静かに自分の世界に没頭している。


 その隣には、スーツ姿の林川先生が立っていた。仕事帰りらしく、少し疲れた様子だが、目は輝いている。


 そして、端の方には、シンプルな白のTシャツに濃紺のジーンズという、いかにも女子大生らしい装いの霧ちゃんが立っていた。


 かすみさんは、五人の前で軽快に動きながら、新しいお酒の説明を始めようとしたその時、突然立ち止まった。


「あ! あかん! 卵と牛乳と氷切らしてるやん! ごめん、ちょっとスーパーまで買いに行くんで、その間留守番しといて! ほんまごめんやで!」


 かすみさんは慌てた様子で、エプロンを外しながら言った。


「えっ? 大丈夫ですか?」


 紹子が心配そうに尋ねる。


「大丈夫、大丈夫! すぐ戻るから。みんな、よろしゅう!」


 かすみさんは笑顔で答えると、急いで店を出て行った。


 残された常連たちは、しばらく呆然としていたが、やがて笑い出した。


「まあ、かすみさんらしいよね」


 紹子が苦笑いしながら言う。


「そうですね。いつも一生懸命だから」


 高梨さんも静かに頷いた。


「でも、誰がお店番するんですかね?」


 林川先生が首をかしげる。


 その時、霧ちゃんが静かに立ち上がった。


「私、やってみます! バイトの経験あるし」


 みんなが驚いた顔で霧ちゃんを見つめる中、彼女はかすみさんのエプロンを身につけ、カウンターの中に入った。


「えっと、みなさん何か飲み物はいりますか?」


 霧ちゃんの声は少し緊張気味だったが、表情は明るかった。


「じゃあ、私はいつもの赤ホッピーをお願いします」


 紹子が笑顔で注文した。


「はい、かしこまりました!」


 霧ちゃんは慣れた手つきで赤ホッピーを作り始めた。


 その時、店の入り口が開き、見知らぬ客が入ってきた。


「おかえり……あ、いらっしゃいませ!」


 霧ちゃんは慌てて挨拶をした。


「ここって立ち飲み屋さん? 初めてなんだけど」


 新しい客が尋ねる。


「はい、そうです。ゆっくりしていってください」


 霧ちゃんは笑顔で答えた。


 常連たちは、霧ちゃんの対応を見守りながら、静かに微笑んでいた。


「霧ちゃん、お店番上手やね!」


 徳栄さんが感心したように言った。


「ありがとうございます。でも、かすみさんみたいにはいかないです」


 霧ちゃんは、かすみさんのエプロンを身につけ、カウンターの中で慣れない手つきながらも懸命に働いていた。彼女の額には小さな汗が浮かび、時折迷いながらも、常連たちの助言を得ながら次々と注文をこなしていく。


「えっと、徳栄さんの酎ハイボトルはどこにあるんでしたっけ?」


「右の棚の一番下だよ。頑張ってるね、霧ちゃん」


 徳栄さんが優しく教えると、霧ちゃんは安堵の表情を浮かべた。


 一方、林川先生は新しく来た客の隣に座り、医療の話で盛り上がっていた。


「実はね、最近の研究では、適度な飲酒には健康上のメリットもあるんですよ」


 林川先生の話に、新しい客は目を輝かせて聞き入っている。


「へえ、そうなんですか? 具体的にはどんな効果があるんでしょう?」


「例えば、赤ワインに含まれるポリフェノールには抗酸化作用があって……」


 林川先生の説明は専門的でありながら、わかりやすく、新しい客を引き込んでいく。


 その隣では、高梨さんが自身の経験談を語り始めていた。


「若い頃はね、仕事一筋で毎晩遅くまで働いていたんだ。でもある日、ふと気づいたんだよ。人生には仕事以外にも大切なものがあるって」


 高梨さんの落ち着いた声音に、周りの客たちも耳を傾けている。


「それで、どうされたんですか?」


 紹子が興味深そうに尋ねた。


「休暇を取って、初めて一人旅に出たんだ。それが人生の転機になってね……」


 高梨さんの話に、常連たちも新しい客も、時折頷きながら聞き入っていった。


 霧ちゃんは忙しなく動きながらも、こうした会話に耳を傾け、時折微笑んでいる。彼女の緊張は徐々に解けていき、次第に自然な笑顔でお客さんたちと接するようになっていった。


「霧ちゃん、この肴はどんな味?」


 新しい客が尋ねると、霧ちゃんは少し考えてから答えた。


「えっと、これはかすみさん特製の枝豆の塩麹漬けです。さっぱりしていて、でも深みのある味わいですよ」


 彼女の説明に、新しい客は満足そうに頷いた。


 こうして、かすみさんがいない間も、「半蔵」は常連たちと霧ちゃんの協力によって、温かな雰囲気を保ち続けていた。それは、単なる飲み屋ではなく、人々が集い、語らい、互いを支え合う特別な場所であることを、改めて証明しているかのようだった。


 かすみさんが戻ってきたとき、店内はとても和やかな雰囲気に包まれていた。


「ただいま~! みんな、ありがとう!」


 かすみさんは笑顔で言うと、すぐに仕事に取り掛かった。


「霧ちゃん、ほんまにありがとう。助かったわ」


「いえいえ、勉強になりました」


 霧ちゃんは嬉しそうに答えた。


 その夜の「半蔵」は、思わぬハプニングから生まれた温かな交流で、いつも以上に賑わっていた。常連たちは、この経験を通じて、より深い絆で結ばれていくのを感じていた。

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