第13話:あかん、こんなん置いたら常連さんみんな酔っ払いますやん!
梅雨の晴れ間に恵まれた夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内は、いつもの温かな雰囲気に包まれていた。かすみさんは、淡い青色の浴衣姿で、髪に小さな紫陽花の髪飾りをつけ、初夏の訪れを感じさせる雰囲気を醸し出している。
この夜、カウンターには三人の常連客の姿があった。
まず、ピンクのブラウスにホワイトデニムという爽やかな装いの貴船紹子が立っている。今日は少しリラックスした表情を浮かべていた。
その隣には、派手な柄のアロハシャツを着たくまさんが立っていた。かすみさんと同じく居酒屋を経営している彼は、なぜかハワイアンな雰囲気を漂わせている。
そして、端の方には真っ白なワイシャツにネクタイを緩めた姿の金田さんが立っていた。いつもの紳士的な雰囲気を漂わせつつ、少し疲れた表情を見せている。
その時、店の入り口が勢いよく開いた。
「おかえり~」
かすみさんが振り返ると、そこには見慣れない男性の姿があった。
「やあ、かすみちゃん! 久しぶり!」
男性は大きな声で言うと、一気にカウンターまで歩み寄ってきた。
「あら、清水はん! ほんまに久しぶりやね」
かすみさんは少し困ったような、でも懐かしそうな表情を浮かべた。
「みなさん、こちらは清水さんって言って、昔からのお付き合いのある酒造メーカーの営業さんなんです」
かすみさんが紹介すると、清水さんは満面の笑みを浮かべながら、大きな紙袋を取り出した。
「今日はね、うちの新しい商品を持ってきたんだ! かすみちゃん、試飲して!」
「えっ、今?」
かすみさんが困惑の表情を見せる。
「そうそう、今! あとお客さん皆様にも飲んでもらおう!」
清水さんは意気揚々と紙袋から次々とボトルを取り出し始めた。
「これはね、『月光の雫』っていう新しい純米大吟醸。香りが絶品なんだ!」
清水さんは早速ボトルを開け、グラスに注ぎ始めた。
「あかん、こんなん置いたら常連さんみんな酔っ払いますやん!」
かすみさんが慌てて制止しようとするが、清水さんの勢いは止まらない。
「大丈夫、大丈夫! みんな、飲んでみて!」
紹子、くまさん、金田さんは、突然の出来事に戸惑いながらも、差し出されたグラスを受け取った。
「わあ、本当に香りがいいですね」
紹子が感嘆の声を上げる。
「うん、これは確かに旨いぞ」
くまさんも満足げに頷く。
「清水さん、これは素晴らしい日本酒ですね」
金田さんも紳士的に褒めた。
清水さんは得意げに次のボトルを取り出した。
「次はこれ! 『朝露の恋』っていう特別純米酒。さっぱりした味わいが特徴なんだ」
かすみさんは、あきらめたような表情で小さなため息をつきながら、おつまみを用意し始めた。
「みなさん、こんな急に飲むんやったら、何か食べんとあかんで。これ、『清水はん対策特製おつまみプレート』や」
彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。
「枝豆の塩麹漬け、クリームチーズの味噌漬け、それから鰹のたたきのカルパッチョ。全部お酒に合うようにしてるから、ゆっくり味わってな」
常連たちは、突然の試飲会に戸惑いながらも、次第に楽しみ始めていた。
「かすみさん、この枝豆めっちゃおいしいです!」
紹子が目を輝かせる。
「本当だな。この鰹のたたきも絶品だ」
くまさんも満足げに頷く。
清水さんは、次々と新しい酒を紹介し、常連たちに試飲させていく。
「これは『春風の囁き』、これは『夏の宴』、そしてこれが『秋の調べ』……」
かすみさんは、半ば呆れながらも、清水さんの熱意に負けたような表情で、次々と注文を承諾していった。
「わかったわ、清水はん。『月光の雫』と『朝露の恋』は旨かったから置くわ。でも、他はもう勘弁な」
「やったー! さすがかすみちゃん、わかってるね!」
清水さんは大喜びで、かすみさんの手を握りしめた。
その夜の「半蔵」は、思わぬ試飲会で賑わっていた。常連たちは、新しいお酒を楽しみながら、清水さんの熱烈なトークに耳を傾けていた。
閉店時間が近づき、清水さんが帰り支度を始める中、かすみさんは静かにつぶやいた。
「清水はん、また来てな。でも次は予約してから来てや」
清水さんは大きく笑いながら答えた。
「もちろん! かすみちゃんの店が繁盛するよう、これからもいい酒を持ってくるからね!」
店内に残った常連たちは、この突然の出来事に驚きながらも、楽しそうな表情を浮かべていた。
「かすみさん、今日は思わぬ収穫がありましたね」
紹子が笑顔で言った。
「そうやな。たまにはこういうこともあるもんや」
かすみさんも、少し照れくさそうに微笑んだ。
その夜の「半蔵」は、思わぬ試飲会で、いつもとは違う活気に包まれていた。
「かすみさん、あの清水さんって昔からの知り合いなんですか?」
くまさんが興味深そうに尋ねた。
「そうなんや。昔、わたしがホテルで働いてた頃からの付き合いでね。あの人、いつも押しが強いんやけど、お酒への情熱は本物なんよ」
かすみさんは懐かしそうに答えた。
「確かに、あの熱意には圧倒されましたね」
金田さんが感心したように言う。
「でも、かすみさんが上手くコントロールしてたから、楽しい試飲会になりましたよ」
紹子が微笑みながら付け加えた。
かすみさんは少し照れくさそうに頭をかいた。
「まあ、ああいう営業さんとのつきあい方も、商売のうちやからね」
その時、かすみさんはふと思いついたように厨房に向かった。
「そういえば、清水はんが置いていった『秋の調べ』をちょっと試してみよか」
彼女は、美しい琥珀色の液体を三つのグラスに注いだ。
「これは、熟成された山廃仕込みの純米酒らしいわ。秋の味覚に合うんやって」
三人が口をつけると、驚きの表情が広がった。
「わぁ、なんて深みのある味わい……」
紹子が感嘆の声を上げる。
「本当だ。これは料理の可能性が広がりそうだな」
くまさんも満足げに頷く。
「かすみさん、これは素晴らしい発見ですね」
金田さんも紳士的に褒めた。
かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。
「やっぱり、いいお酒は人を笑顔にするんやな」
彼女は、新しい肴を用意しながら言った。
「これに合わせて、『秋の味覚プレート』を作ってみたわ」
彼女は、小さな器を持って戻ってきた。
「栗の渋皮煮、さんまの柚子風味焼き、そして松茸の土瓶蒸し。全部このお酒に合うように工夫してみたんよ」
三人は、目を輝かせながらその一品を見つめた。
「わぁ、まるで秋の宴会みたい……」
紹子が思わず声を漏らす。
「いただきます」
三人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
その夜の「半蔵」は、思わぬ出会いから生まれた新しい味わいを楽しむ、特別な時間に包まれていた。清水さんの押しの強さに辟易しながらも、結果として素晴らしいお酒との出会いをもたらしたこの経験は、常連たちの心に深く刻まれることになった。
「今度、清水はんが来たら、みんなで歓迎しようか」
かすみさんの言葉に、三人は笑顔で頷いた。
閉店時間が近づき、常連たちが帰り支度を始める中、かすみさんは静かにつぶやいた。
「清水はんのおかげで、また新しい味に出会えたわ。こんな出会いがあるから、この商売は面白いんやな」
その言葉に、誰もが心の中で同意していた。半蔵は、単なる立ち呑み屋ではなく、新しい発見と出会いの場でもあるのだと。
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