第12話:アリエッティみたいやなあ

 梅雨の晴れ間に恵まれた夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内は、いつもより静かな空気に包まれていた。かすみさんは、淡い紫色の浴衣姿で、髪に小さな紫陽花の髪飾りをつけ、初夏の訪れを感じさせる雰囲気を醸し出している。


 この夜、カウンターには一人の常連客の姿があった。


 真っ白なブラウスにグレーのプリーツスカートという清楚な姿の貴船紹子が立っている。今日は少し疲れた表情を浮かべていたが、かすみさんと二人きりになれたことに喜びを感じているようだった。


「かすみさんと二人きりになるなんてコロナ禍の時以来ですね」


 紹子が静かに口を開いた。


「そうやなあ、あのときも時短営業で大変やったからなあ……今はほんまにありがたいわ」


 かすみさんは懐かしそうに答えた。

 最近、かすみさんはいつでも関西弁で喋るようになっていた。

 東京弁を喋るのにちょっと疲れたのかもしれない。

 それとも今日はあたしと二人きりだから特別?

 そう思うと紹子は思わずニヤけてしまうのだった。


「あの頃は本当に大変でしたよね。でも、かすみさんのおかげで私たち常連は心の支えを失わずに済みました」


 紹子の言葉に、かすみさんは少し照れくさそうに微笑んだ。


「そんなことないよ。逆にみんなが来てくれはったから、うちも頑張れたんや」


 かすみさんは、新しいお酒を取り出した。


「今日はね、紹子さんのために特別なお酒を用意したんよ。これは長野の『楯の川酒造』の『楯野川 純米大吟醸 雫酒』っていう珍しいお酒なんや」


 かすみさんは、透明感のある美しい液体を、紹子のグラスに静かに注いでいく。


「このお酒はね、搾らずに自然に滴り落ちた雫だけを集めて造られたんや。だから『しずく酒』って呼ばれてる。香りが華やかで、口当たりがとてもなめらか。まるでアリエッティみたいやなあ」


「アリエッティ? あの、借りぐらしのアリエッティですか?」


 紹子が興味深そうに尋ねる。


「そうそう。小さくて、でも力強い。このお酒を飲むと、小さな幸せを大切にする気持ちになるんよ」


 紹子は、静かにグラスを口元に運んだ。


「わあ、本当に……なんて繊細な味わいなんでしょう」


 紹子の目が輝いた。


「でしょ? このお酒にぴったりの肴も用意してるんよ」


 かすみさんは、小さな皿を持って戻ってきた。


「これは『小人のごちそうプレート』や。全部小さく盛り付けてあるんやけど、それぞれに旨味がぎゅっと詰まってるんよ」


 皿の上には、ミニチュアのように小さく盛り付けられた料理が並んでいた。豆粒ほどの大きさのイクラ、小指の爪ほどの大きさの刺身、そして米粒ほどの大きさのチーズなどが、まるで小人の世界から持ってきたかのように美しく並べられていた。


「まあ、なんて可愛らしい!」


 紹子が目を輝かせる。


「いただきます」


 紹子が口を揃えて言うと、箸を伸ばした。


「うん! これ、小さいのに味が濃くて……まるで小人の世界の贅沢な一品みたい」


 紹子の声が弾んだ。


「そうやろ? 小さくても、一つ一つに想いを込めて作ったんや」


 かすみさんの言葉に、紹子は静かに頷いた。


「かすみさん、この『小さな幸せ』って考え方、素敵ですね。最近、仕事に追われて大切なものを見失いそうになっていたかも」


「そうやなあ。大きな幸せを求めるのもええけど、日々の小さな幸せを積み重ねていくのも大切やと思うんや」


 紹子はしみじみとグラスを見つめた。


「本当にそうですね。これからは、もっと身近な幸せに目を向けていきたいです」


 かすみさんは優しく微笑んだ。


「そやな。例えば、こうして二人で静かに呑める時間とか、美味しいお酒の一口とか……そういう小さな幸せを大切にしていけば、きっと人生はもっと豊かになるで」


 紹子は深く頷いた。


「かすみさん、ありがとうございます。今日は特別な夜になりました」


 かすみさんは、新しい肴を用意しながら言った。


「こんな素敵な話の後には、もう一品いくで! これは『アリエッティの秘密の庭』や」


 彼女は、小さな器を持って戻ってきた。


「これは、ミニチュア野菜を使ったガーデンサラダや。ドレッシングは、蜂蜜とレモンの自家製のんを使ってるんやけど、まるで朝露みたいに軽やかな味わいになってるんよ」


 紹子は、目を輝かせながらその一品を見つめた。


「わぁ、まるで本当の小さな庭みたい……」


 紹子が思わず声を漏らす。


「いただきます」


 紹子が箸を伸ばすと、かすみさんも一緒に小さなフォークを手に取った。


 その夜の「半蔵」は、二人の静かな会話と笑い声に包まれていた。小さな幸せについて語り合いながら、紹子とかすみさんは、より深い絆で結ばれていくのを感じていた。


 閉店時間が近づき、紹子が帰り支度を始める中、かすみさんは静かにつぶやいた。


「紹子さん、またいつでも来てな。こうして二人で呑めるのんも、ええもんやで」


 紹子は心から笑顔を浮かべながら答えた。


「はい、必ず来ます。今日は本当にありがとうございました、かすみさん」


 かすみさんは紹子を店の入り口まで見送った。


「いってらっしゃい。気をつけて帰ってな」


 紹子は深々と頭を下げ、軽やかな足取りで夜の街へと消えていった。


 店内に戻ったかすみさんは、静かに片付けを始めながら、今夜のことを思い返していた。


「アリエッティみたいやなあ……」


 かすみさんは自分の言葉を口の中で反芻しながら、ふと思いついたように厨房に向かった。そして、小さな空き瓶を取り出すと、今夜紹子に出した「楯野川 純米大吟醸 雫酒」を少量注いだ。


「これを、うちの秘密の宝物にしよう」


 かすみさんは瓶にラベルを貼り、「紹子との小さな幸せの夜」と書き込んだ。そして、カウンターの下の小さな引き出しに大切にしまった。


 この小さな儀式が、今夜の思い出を永遠に留めておくための、かすみさんなりの方法だった。


 店内の明かりを消し、かすみさんは最後にもう一度カウンターを見渡した。そこには、二人で過ごした温かな時間の余韻が、まだかすかに漂っているように感じられた。


「明日も、誰かの小さな幸せになれますように」


 そう呟きながら、かすみさんは「半蔵」の扉に鍵をかけた。夜風が優しく彼女の頬をなで、まるで今夜の出来事を祝福するかのようだった。

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