第28話:その瓶だけはどうしても捨てられないんです

 初秋の夜風が立ち呑み「半蔵」の前を吹き抜けていく。店内では、いつもの温かな雰囲気が漂っている。


 カウンターに寄りかかるように、スマートフォンを覗き込む女性がいた。艶やかな栗色の髪をゆるく後ろで束ね、淡いブルーのブラウスにグレーのスラックスという知的な装いの紹子。彼女の前には、空になった赤ホッピーのグラスが置かれている。


「紹子さん、次は何にしますか?」


 かすみさんが、カウンターを拭きながら声をかける。


「そうですね……」


 紹子は顔を上げ、棚に並ぶお酒を眺める。ふと、見慣れないボトルが目に入った。


「かぼちゃ……焼酎? めずらしい! かすみさん、このかぼちゃ焼酎っていただけますか?」


 紹子が指さしたのは、オレンジ色のラベルが貼られた細長いボトルだった。


「ごめんなさい、紹子さん。その瓶は空なんです」


 かすみさんの表情が一瞬曇る。


「え?  そうなんですか?  じゃあ、なんで……」


 紹子が不思議そうに尋ねると、店内の空気が変わる。

 かすみさんは深呼吸をして、静かに語り始めた。


「実は、その宿儺すくなかぼちゃ焼酎には特別な思い出があるんです。この半蔵ができた時、初めて常連さんになってくれた大貫さんという方がいらっしゃって。その方が大好きだったお酒なんです。でも3年前に亡くなられて……。それでも、その瓶だけはどうしても捨てられないんです」


「そうだったんですか……」


 紹子は驚きと共感の表情を浮かべる。


「大貫さんは、とてもいい人で、オープン仕立てで右も左もわからない私にいろんなことを教えてくれました。そして知り合いの方にも半蔵を紹介してくれて……それで常連になった方もたくさんいらっしゃるんです」


 その時、店の戸が開く音がした。


 真っ白なシェフコートに黒のパンツ、首には赤いバンダナを巻いたクールな出で立ちで入ってきたのは、やまさんだった。


「みんな。やってるね。さて俺も一杯もらうかな」


 やまさんは、いつもの軽快な足取りでいつもの立ち位置につく。


「おかえりなさい、やまさん。今日はお店、早く閉められたんですか?」


 かすみさんが優しく尋ねる。


「ああ、今日は新メニューの試作で頭を使ったからね。ちょっと気分転換に来たんだ」


 やまさんは少し疲れた表情を見せる。


「そうですか。では、さっぱりしたものはいかがですか?」


 かすみさんは棚から透明な瓶を取り出す。


「これ、長野の『星空の雫』という日本酒なんです。すっきりとした味わいで、疲れた体に染み渡りますよ」


「それはうまそうだ。じゃあ、それをもらおうかな」


 やまさんの表情が明るくなる。


 そして、静かに戸が開く。


 エメラルドグリーンのワンピースに白のカーディガンを羽織り、首元には小さなパールのネックレスを光らせた優雅な姿で、杏奈さんが入ってきた。


「こんばんは、みなさん」


 杏奈さんの柔らかな声が響く。


「おかえりなさい、杏奈さん。今日も一杯だけですか?」


 かすみさんが声をかける。


「ええ、今日はちょっと早めに来られたわ。少しだけゆっくりできそう」


 杏奈さんは優雅に席に着く。


「杏奈さん、さっきね、大貫さんの話をしていたんです」


 紹子が杏奈さんに話しかける。


「まあ、大貫さんですか?  私も覚えていますよ。あの方、本当に素敵な人でしたね」


 杏奈さんの目が懐かしそうに潤む。


「杏奈さんも大貫さんのこと、知っていたんですか?」


 紹子が驚いて尋ねる。


「ええ、私が半蔵に初めて来た時、温かく迎えてくれたのが大貫さんだったんです。『ここはね、みんな家族みたいなもんだよ』って」


 杏奈さんの言葉に、かすみさんも深く頷く。


「そうなんです。大貫さんは、半蔵の心臓だったんです」


 かすみさんの言葉に、店内が静まり返る。


「心臓……ですか?」


 やまさんが興味深そうに尋ねる。


「はい。お客さん同士を繋いでくれたり、私にアドバイスをくれたり。大貫さんがいたから、今の半蔵があるんです」


 かすみさんは、棚の上の空き瓶を見つめながら語る。


「そういえば、俺が初めて来た時も、大貫さんが話しかけてくれた。嬉しかったな」


 やまさんが思い出したように言う。


「大貫さんは、本当に人と人を繋ぐのが上手な方でした」


 かすみさんが懐かしそうに微笑む。


「ああ、思い出した。大貫さんが、初めて私の店に来てくれた時のことを」


 やまさんが目を細める。


「その日はうちの店の調子が悪くて、落ち込んでいたんだ。そしたら大貫さんが、『やまさん、美味しいものを作る人は、きっと幸せを作る人なんだよ』って言ってくれてね。その言葉で、もう一度頑張ろうって思えたんだ」


「素敵な言葉ですね」


 紹子が感動したように呟く。


「私も忘れられない思い出があります」


 杏奈さんが静かに語り始める。


「私がバーを始めたばかりの頃、お客さんとの距離感に悩んでいたんです。そんな時、大貫さんが『杏奈さん、お酒を注ぐってことは、心を注ぐことなんだよ』って教えてくれて。その言葉で、私の接客が変わりました」


 かすみさんも、静かに思い出を語る。


「大貫さんは、私が失敗した時にいつも励ましてくれました。『かすみさん、失敗は成功の母だよ。でも、お客さんの笑顔は、あなたの成功の証だよ』って」


 みんなの話を聞きながら、紹子は胸が熱くなるのを感じていた。


「大貫さんって、本当に素晴らしい方だったんですね。みなさんの人生に、こんなに大きな影響を与えていたなんて」


「そうなんです」


 かすみさんが静かに頷く。


「大貫さんは、人それぞれの良いところを見つけるのが本当に上手でした。そして、その良さを引き出してくれる。だから、半蔵に来る人みんなが、自分の居場所を見つけられたんです」


 やまさんが思い出したように付け加える。


「そういえば、大貫さんはいつも『人生は、人と人との出会いで作られるんだ』って言っていたな」


「本当にその通りですね」


 杏奈さんが静かに同意する。


「大貫さんとの出会いがあるから今があるのね」


 店内は、大貫さんへの思いと感謝で満ちていた。


「かすみさん」


 紹子が静かに声をかける。


「大貫さんのためにも、これからもずっと半蔵を続けていってください。きっと大貫さんも、天国で喜んでくれると思います」


 かすみさんの目に、小さな涙が光る。


「ありがとうございます。みなさんがいてくれるから、私も頑張れるんです。もちろん大貫さんの思いを引き継いで、これからも半蔵を守っていきますよ」


 その言葉に、全員が深く頷く。


 外は夜更けに差し掛かっていたが、「半蔵」の中は、温かな光に包まれていた。それは、大貫さんの思い出と、今ここにいる人々の絆が混ざり合った、特別な光だった。


 この夜、「半蔵」は単なる飲み屋ではなく、人々の心が通い合う特別な場所であることを、改めて証明したのだった。

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立ち呑み『半蔵』の癒し ~かすみさんが注ぐ、人生という名の美酒~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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