私はいつも書きすぎてしまう……。
【短編小説】光と影の禅堂 ―ある尼僧の死―(約8,800字)
https://kakuyomu.jp/my/works/16818093088913944081 ということでこちらから削ったシーンをまたこちらでこっそり公開させていただきます。本編と併せてお楽しみいただけますと幸いです。
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午前三時。
まだ闇に包まれた昂源院に、小さな鐘の音が響く。
咲夜は、その音と共に目を開けた。隣の部屋からは、詠子の静かな物音が聞こえてくる。二人の起床の時間は、いつも数秒とずれない。
蝋燭の灯りをつけ、咲夜は手早く身支度を整える。白い法衣に着替え、黒い袈裟を丁寧にたたむ。
「咲夜さん、おはようございます」
廊下で出会った詠子が、いつものように穏やかな笑顔を向ける。
「おはようございます、詠子さん」
二人は無言で、本堂へと向かう。長い付き合いの中で、言葉なしの理解が深まっていた。
本堂では既に、住職が端然と座していた。他の修行僧たちも、次々と集まってくる。
午前三時半、朝課が始まる。
木魚を打つのは、今朝は詠子の番だった。整然としたリズムが、本堂に響き渡る。
「摩訶般若波羅蜜多心経……」
読経の声が、夜明け前の闇を震わせる。
「咲夜さん」
朝課を終えた後、詠子が小声で呼びかけた。
「今朝の木魚、リズムが少しおかしかったでしょうか?」
「いいえ、完璧でしたよ」
咲夜は微笑む。詠子のそんな几帳面な性格を、彼女はよく知っていた。
午前五時、掃除の時間。
二人は長い箒を手に、境内の落ち葉を掃く。
「咲夜さん、今朝は随分早かったですね」
詠子が柔らかな微笑みを浮かべる。彼女の丸みを帯びた目元は、いつも暖かな光を湛えていた。
「ええ。なんだか、心が落ち着かなくて」
咲夜は正直に答えた。昨夜見た不思議な夢のことを話そうとしたが、ふと躊躇う。明け方近くに見た夢は、どこか不吉な予感を残していた。
咲夜は言葉を飲み込んだ。
それはわずかな微睡みの中で見た夢。
そこには、池の畔に立つ詠子の姿があった。
いつもの白い法衣ではなく、灰色の着物を纏っていた。
詠子は池の水面を見つめたまま、こちらを振り向こうとしない。
「詠子さん?」
夢の中の咲夜が声をかけても、返事はない。
ただ、詠子の周りに、透明な糸のようなものが、ゆっくりと絡まっていくのが見えた。
それはまるで、蜘蛛の巣のように。
あるいは、運命の糸のように。
風もないのに、水面が不規則に波打ち始める。
詠子の姿が、少しずつ透明になっていく。
「待って!」
咲夜が駆け寄ろうとした時、詠子がついに振り向いた。
その表情には、深い哀しみと、諦めと、そして言いようのない懐かしさが混ざっていた。
「咲夜さん、ごめんなさい。もう、時間なの」
詠子の声は、遠く、かすれていた。
そして――。
「咲夜さん? どうかしましたか?」
現実の詠子の声に、咲夜は我に返った。
目の前には、いつもの詠子がいる。
温かな笑顔を浮かべ、心配そうに咲夜を見つめている。
「ああ、いいえ。ただの疲れでしょう」
咲夜は微笑もうとしたが、どこか無理のある表情になってしまう。
喉まで出かかった夢の話を、無理やり飲み込んだ。
話すことで、その不吉な予感が現実味を帯びてしまうような気がした。
代わりに、なるべく自然な声で言った。
「やはり今朝は少し早めに起きすぎたみたいです」
詠子は、やさしく頷いた。
その仕草は、いつもと変わらない。
けれども咲夜には、その姿が儚く見えてしかたなかった。
朝日が障子を通して差し込み、二人の影を畳の上に落としている。
咲夜は、その影の輪郭が少しぼやけて見えることに、不安を覚えた。
木魚の音が、朝の静寂を震わせる。
いつもの音色が、今朝はどこか物悲しく響いた。
咲夜は黙って手を合わせた。
祈りながら、夢の意味を考えることを、意識的に避けた。
しかし心の奥底では、確かに何かが起ころうとしているという予感が、重く沈んでいた。
それは、まるで暗い池の底に沈む石のように。
読経の声が本堂に満ちていく。
咲夜は、普段より少し声を張り上げた。
まるで、その声で不安を押し流そうとするかのように。
しかし、夢の余韻は簡単には消えなかった。
それは影のように、咲夜の意識の隅にしっかりと居座っていた。
午前六時、朝食の準備。
今日は二人とも台所当番だった。
「お粥の塩加減、いつも詠子さんの方が上手」
咲夜が言うと、詠子は照れたように首を振る。
「そんなことないですよ。咲夜さんの方が、出汁の取り方が上手です」
静かな笑い声が、台所に響く。
午前七時、朝食。
本堂での食事は、五観の偈を唱えることから始まる。
計功多少 量彼来処
忖己德行 全缺應供
防心離過 貪等為宗
正事良薬 為療形枯
為成道故 今受此食
完全な沈黙の中で、粥を口に運ぶ。
しかし二人は、視線を交わすだけで互いの考えていることが分かった。
午前八時から正午まで、修行の時間。
座禅、写経、経典の読誦。
写経の間、二人の机は隣り合わせだった。
時折、詠子の筆の音が止まるのが聞こえる。
咲夜は、彼女が考え込んでいることを悟り、そっと待つ。
やがて、再び穏やかな筆運びの音が始まる。
正午、昼食。
再び五観の偈を唱え、静かに食事をとる。
午後一時から三時、作務の時間。
今日は庭の手入れだった。
「この苔、随分綺麗になってきましたね」
詠子が、小さな鋏を持ちながら言う。
「ええ。詠子さんが毎日丁寧に手入れしているからですよ」
「咲夜さんも、いつも手伝ってくださるから」
二人は、苔の間に生えた雑草を、一本一本丁寧に取り除いていく。
午後三時、法話の時間。
住職の話を、二人は真剣な面持ちで聞く。
時折、互いにうなずき合う仕草が見られた。
午後五時、夕課。
夕暮れの本堂に、再び読経の声が響く。
午後六時、夕食。
今日最後の食事も、厳かに行われる。
「咲夜さん」
食後の掃除を終えた後、詠子が声をかけた。
「今夜、少しお話ししても良いでしょうか」
それは、二人の小さな習慣だった。
一日の終わりに、短い時間を共有する。
咲夜の部屋で、二人は向かい合って座る。
蝋燭の灯りが、穏やかな光を投げかける。
「今日の法話について、考えることがあって」
詠子は、静かに語り始めた。
「生死について、和尚様がおっしゃっていたこと」
咲夜は黙って頷き、詠子の言葉に耳を傾ける。
月明かりが、障子を通して差し込んでいた。
「時々思うんです。私たちは本当に、生死を超えることができるのでしょうか」
詠子の声には、珍しく迷いが含まれていた。
「詠子さん……」
咲夜は、親友の表情をじっと見つめた。
「それは、きっと一朝一夕には答えの出ない問いなのだと思います」
詠子は小さく微笑んだ。
「咲夜さんは、いつも的確な言葉をかけてくださいますね」
二人は、しばらく静かに座っていた。
言葉なき対話が、そこにはあった。
午後九時、消灯の時間。
「おやすみなさい、咲夜さん」
「おやすみなさい、詠子さん」
廊下で別れる際、二人は深々とお辞儀を交わした。
それぞれの部屋に戻り、蝋燭の灯りを消す。
闇の中で、二人は同じ姿勢で座禅を組む。
やがて、寺の鐘が鳴る。
一日の終わりを告げる音が、境内に響き渡る。
咲夜は、隣室から聞こえる詠子の寝息を、いつものように聞き流した。
明日もまた、同じ時を刻んでいく。
そう思いながら、咲夜は目を閉じた。
しかし、この平穏な日々が、まもなく大きく変わることを、誰も知る由もなかった。
月の光だけが、静かにその予兆を見つめているかのようだった。
昂源院の夜は、再び深い闇に包まれていった。