第2話:そういえば、最近とらさん見ないね

 冬の訪れを感じさせる肌寒い夜、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんのショートカットの髪が、丁寧な仕草と共にゆれる。彼女の優しい笑顔が、店内の雰囲気を和ませていく。


 この夜、カウンターには四人の常連客の姿があった。


 まず、いつもの赤ホッピーを片手に、貴船紹子が立っている。出版社勤務らしい知的な雰囲気を纏いながらも、少し心配そうな表情を浮かべていた。


 その隣には、やまさんが立っていた。うどん店主らしい腕まくりした腕で、フルーツ系の酎ハイを握っている。


 向かい側には、安谷くんが立っていた。自衛隊らしい精悍な体つきながら、今夜は珍しく普段着姿だ。


 そして、端の方にはかおるさんが立っていた。医療従事者らしい観察力鋭い目つきで、周りの様子を窺っている。


 かすみさんは、四人の前で軽快に動きながら、新しい酒の説明を始めた。


「今日はね、冬に向けての新しい日本酒が入ったんです。長野の『真澄』っていう蔵元の『超辛口』なんですよ」


 彼女は、雪景色が描かれた美しい徳利から、それぞれの酒器に注いでいく。


「わぁ、香りが華やかですね」


 紹子が、鼻を酒器に近づけながら言った。


「ほんとだね。なんか、雪の結晶が舞ってるような……」


 安谷くんも、目を細めて香りを楽しんでいる。


「この『超辛口』は、通常の日本酒よりも米を多く削っているんです。だから、すっきりとした味わいの中にも、深みがあるんですよ」


 かすみさんが丁寧に説明する。


 四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。


「うまか! これは確かに辛口ばい!」


 紹子の博多弁が飛び出す。


「でも、最後に微かな甘みが残るね。これは面白い」


 やまさんが、舌で余韻を味わいながら言った。


「かすみさん、この酒に合う肴は何かありますか?」


 かおるさんが興味深そうに尋ねる。


「はい、実は今日は特別なものを用意しているんです」


 かすみさんは厨房に向かい、小さな皿を持って戻ってきた。


「これは、信州サーモンの炙り刺しです。長野の味噌と山葵を使ったソースを添えてみました」


 四人は、目を輝かせながらその一品を見つめた。


「わぁ、美しい……」


 安谷くんが思わず声を漏らす。


 皿の上では、ほんのりと焼き色がついたサーモンのスライスが、扇形に並べられていた。その上に、緑色のソースが滴るように添えられ、香りと彩りを添えている。


「いただきます」


 四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。


「うん! これはうまか!」


 紹子の声が弾んだ。


「サーモンの脂の甘みと、味噌の深みが絶妙だね」


 やまさんがしみじみと言う。


「山葵の辛さが、全体をキュッと引き締めてる。日本酒との相性も抜群です」


 安谷くんが、満面の笑みを浮かべた。


 かすみさんは、四人の反応を見て満足そうに微笑んだ。


「みなさんに喜んでもらえて、私も嬉しいです」


 その時、紹子が不意に口を開いた。


「そういえば、最近とらさん見ないね」


 その言葉に、店内の空気が少し変わった。


「そうだね。もう一ヶ月くらい来てないかな」


 やまさんが心配そうに言った。


「普段は毎日のように来てたのに……」


 安谷くんも首をかしげる。


「かすみさん、とらさんから何か連絡とかありました?」


 かおるさんが尋ねる。


 かすみさんは少し考え込むような表情を見せた。


「実は……」


 かすみさんは言葉を選ぶように少し間を置いた。彼女の表情に、わずかな心配の色が浮かんでいる。


「とらさんから直接の連絡はないんです。でも、先週、魚河岸で仕入れをしているときに、とらさんの同僚の方に会ったんです」


 四人の視線が、一斉にかすみさんに集中した。


「その方の話では、とらさん、ちょっと体調を崩されているみたいなんです」


「えっ!?」


 紹子が思わず声を上げた。


「痛風がぶり返したんかな」


 やまさんが心配そうに言う。


「あの豪快な飲みっぷりだもんな……」


 安谷くんも渋い表情を浮かべる。


「でも、大事には至ってないんでしょ?」


 かおるさんが冷静に尋ねる。さすが医療従事者だ。


「はい、そこまでは聞いてないんです。ただ、しばらく静養が必要だって」


 かすみさんの言葉に、四人はほっと胸をなでおろした。


「そうなんや……でも、ちょっと心配ばい」


 紹子の博多弁が、安堵の気持ちと共に漏れる。


「でも、とらさんのことだから、きっとすぐに元気になって戻ってくるよ」


 安谷くんが前向きに言う。


「そうそう、あの人は魚の話をするのが生きがいみたいなもんだからね」


 やまさんが笑いながら付け加えた。


「そうですね。きっとまた、あの豪快な笑い声が聞けると思います」


 かすみさんも微笑みを浮かべる。


 その時、かおるさんがふと思いついたように言った。


「ねえ、みんなでとらさんに何かメッセージを送るのはどうかな?」


「おお! それええやん!」


 やまさんが目を輝かせる。


「そうだね。きっと喜んでくれるよ」


 安谷くんも賛同の意を示す。


「かすみさん、お店の名刺とかある? 裏に一言ずつ書いて送ろう」


 紹子の提案に、かすみさんは嬉しそうに頷いた。


「はい、あります。ちょっと待ってくださいね」


 かすみさんが厨房に向かう間、四人は何を書こうか考え始めた。


「よし、私はとらさんの大好きな『金目鯛の煮付け』のレシピを書こう」


 やまさんが意気込む。


「僕は、とらさんが教えてくれた魚の目利きのコツを書いておくよ」


 安谷くんも笑顔を見せる。


「私は……そうだな、とらさんが酔っ払って歌った演歌の歌詞を書こうかな」


 紹子がクスリと笑う。


「私は、とらさんの健康を気遣うアドバイスを少し……」


 かおるさんが真剣な表情で言う。


 かすみさんが戻ってくると、四人は熱心に名刺の裏に想いを綴り始めた。その姿を見て、かすみさんは温かな気持ちに包まれた。


「私も一言添えさせてもらいますね」


 かすみさんも名刺を手に取った。


 しばらくして、五枚の名刺が並べられた。それぞれに、とらさんへの想いが詰まっている。


「よし、これで完成だね」


 紹子が満足げに言う。


「かすみさん、これ、とらさんに届けてもらえますか?」


「はい、もちろんです。次に魚河岸に行くときに、同僚の方に渡してもらいます」


 かすみさんの言葉に、四人は安心したように頷いた。


 その瞬間、店の入り口の風鈴が冬の風に揺られ、澄んだ音を響かせた。


「おかえり~」


 かすみさんの温かな声が、新しく来た客を迎える。


 カウンターに座る四人は、互いに顔を見合わせてにっこりと笑った。彼らは黙って立ち上がり、新しく来た客のためにさっと席を詰めた。


 その夜、立ち呑み「半蔵」には、いつも以上に温かな空気が流れていた。それは、常連たちの絆が、とらさんを思う気持ちで、さらに強まった証だったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る