立ち呑み『半蔵』の癒し ~かすみさんが注ぐ、人生という名の美酒~
藍埜佑(あいのたすく)
第1話:秋の宵、半蔵にて
新橋の喧騒から少し離れた路地裏。
ほんのりと漂う焼き物の香りに誘われるように、立ち呑み「半蔵」の暖簾をくぐる人影が増えてきた。それは秋の宵のこと。店内には、すでに数人の常連客の姿があった。
店主のかすみさんのショートカットの髪が、忙しなく動く度にふわりと揺れる。彼女の温かな笑顔が、店内の雰囲気をさらに和ませていく。
この夜、カウンターには四人の常連客の姿があった。
まず、いつもの赤ホッピーを片手に、貴船紹子が立っている。出版社勤務らしい知的な雰囲気を纏いながらも、少し赤らんだ頬がほろ酔い加減を物語っていた。
その隣には、さちこが小さな体を寄せ合うようにして立っていた。145センチほどの小柄な体型ながら、その存在感は抜群だ。手には、いつもの焼酎のお湯割りが握られている。
向かい側には、よしおくんが立っていた。スウェーデンと日本人のハーフらしい整った顔立ちながら、純日本的な仕草で酒を楽しんでいる姿が印象的だ。これでもう少し髪がふさふさだったらモテモテだったろう。
そして、端の方には心太くんが立っていた。妙齢の女性でありながら、「くん」付けで呼ばれる彼女の目は、すでに酒で潤んでいた。なぜ彼女が「心太くん」と呼ばれているのか、紹子はそういえば知らなかった。
かすみさんは、四人の前で軽快に動きながら、新しい酒の説明を始めた。
「今日はね、秋にぴったりの日本酒が入ったんです。山形の『出羽桜』っていう蔵元の『ひやおろし』なんですよ」
彼女は、藍色の柄が美しい徳利から、それぞれの酒器に注いでいく。
「わぁ、いい香りですね」
紹子が、鼻を酒器に近づけながら言った。
「ほんとだね。なんか、秋の風が吹いてくるような……」
よしおくんも、目を細めて香りを楽しんでいる。
「ひやおろしって、夏の間タンクで寝かせた酒を、秋に火入れせずに瓶詰めしたものなんです。だから、フレッシュな味わいと熟成感が同時に楽しめるんですよ」
かすみさんが丁寧に説明する。
四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「うまか! これはバリうまばい!」
紹子の博多弁が飛び出す。これは本格的に酔ってきて証拠だ。
「なんて複雑な味わいなんでしょう。甘みと酸味のバランスが絶妙ですね」
心太くんが、舌で余韻を味わいながら言った。
「こりゃあ、うまいわ。山形の酒は格別だな」
さちこの言葉に、心太くんが頷く。
「そうだね~。庄内の酒も負けないくらい美味しいんだよ」
その時、よしおくんが不意に口を開いた。
「そういえば、不思議なんですけど、いい立ち飲み屋ってなんかお客さんのマナーが勝手によくなっていきますよね」
「え? どういうこと?」
紹子が首を傾げる。
「そうそう、自分が帰るときカウンターを拭いていったり」
さちこが頷きながら言った。
「なんか厳ついおっさんがテーブルをこまめに拭いている姿って可愛いよね(笑)」
心太くんがクスリと笑う。
「かすみさんが忙しそうなときは僕、品出しも手伝っちゃうもんね」
よしおくんが思い出したように言った。
「あれ、なんでだろうね? お店の雰囲気がそうさせるのかな? ダメな店ってめっちゃ殺伐とした雰囲気してるもんね」
紹子がしみじみとした表情で言う。
かすみさんは、四人の言葉に耳を傾けながら、新しい肴を用意し始めた。
「みなさん、せっかくだから、この『ひやおろし』に合わせて特別な一品を用意しましたよ」
彼女は小さな皿に、美しく盛り付けられた料理を置いた。
「これは、秋刀魚の炙り刺しです。山形の『だし』と、庄内浜の塩を使っています」
四人は、目を輝かせながらその一品を見つめた。
「わぁ、美しい……」
心太くんが思わず声を漏らす。
皿の上では、焼き目がついた秋刀魚のスライスが、扇形に並べられていた。その上に、細く刻まれた大葉と柚子皮が散りばめられ、香りと彩りを添えている。
「いただきます」
四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
「うん! これもうまか~、かすみさん、お酒もう一杯!」
紹子の声が弾んだ。
「秋刀魚の脂の甘みと、炙った香ばしさが絶妙だね」
よしおくんが、しみじみと言う。
「山形のだしが、秋刀魚の味を引き立てているんだわ。さすがだわ」
さちこが、舌で余韻を味わいながら言った。
「庄内の塩が、全体をキュッと引き締めてる感じがするね。これ、絶対うちの旦那も喜ぶわ。持って帰れないのが残念だわ~」
心太くんが、満面の笑みを浮かべた。
かすみさんは、四人の反応を見て満足そうに微笑んだ。
「みなさんに喜んでもらえて、私も嬉しいです」
彼女の言葉に、店内の空気がさらに和やかになった。
「そういえば……」
紹子が、ふと思い出したように口を開いた。
「かすみさん、このお店でのお客さんとの思い出って、何かありますか?」
その問いかけに、かすみさんは一瞬考え込むような表情を見せた。彼女のショートカットの髪が、首を傾げる動作に合わせてふわりと揺れる。
「そうですね……」
かすみさんは、カウンターを軽く拭きながら言葉を紡ぎ始めた。
「実は、みなさんのおかげで、毎日が思い出なんです」
かすみさんはそう言って微笑んだ。
彼女の目が温かな光を宿した。
「例えば、よしおくんが初めて来た時のこと。日本語ペラペラなのに、外見は完全に外国人で、最初は戸惑ったんですよ」
よしおくんが照れくさそうに笑う。
「僕も最初は緊張したけど、かすみさんが普通に接してくれて嬉しかったな」
「それから、さちこさんが初めて『くっさい芋焼酎ください』って注文された時も驚きました」
さちこが得意げに頷く。
「そうそう、あの時かすみさんの目が点になったの、今でも忘れられないわ。あんとき呑んだ鶴見は美味かったな~」
一同が笑う中、かすみさんは続けた。
「紹子さんが締め切りに追われていた時、ここで一晩中原稿を書いていたこともありましたよね」
紹子が懐かしそうに頷く。
「あの時は本当に助かりました。かすみさんの差し入れのおにぎりのおかげで乗り切れました」
紹子はちょっと酔いがさめたのか東京弁に戻っている。
「まあ、ここに子連れで来て宿題をここでさせる常連さんもいるからな」
「ちょっとそれ、あたしと小学生を同列に扱ってません?」
よしおくんの軽口に紹子が口を尖らせる。店内に穏やかに笑いが広がっていく。
「心太くんが旦那さんとケンカして、泣きながら飲んでいた夜のことも覚えています」
心太くんは少し赤面しながら言った。
「あの時はホント恥ずかしかったな……でも、かすみさんに話を聞いてもらって、すっきりしたんだよね」
かすみさんは優しく微笑んだ。
「みなさんの人生の一コマに、私のお店が関われていることが本当に嬉しいんです」
その言葉に、四人は静かに頷いた。
「だからこそ、自然とお店を大切にしたくなるんだな」
よしおくんの言葉に、他の三人も同意するように頷いた。
「かすみさんの想いが、この店の空気を作っているんだね」
紹子の言葉に、さちこが続いた。
「そうそう。だからこそ、俺たちも自然と店のことを考えるようになるんだな」
その時、かすみさんは急に思い出したように立ち上がった。
「あ、そういえば! 今日は特別なものがあるんです」
彼女は厨房に向かい、小さな木箱を持って戻ってきた。
「これは、山形の酒蔵で見つけた珍しい梅酒なんです。『月見の梅』という銘柄で、上弦の月の夜に収穫した梅を使って仕込んだんですよ」
かすみさんが蓋を開けると、甘く爽やかな香りが立ち込めた。
「おお! これは珍しいですね~」
紹子が身を乗り出す。
かすみさんは丁寧に梅酒を注ぎ始めた。琥珀色の液体が、それぞれのグラスに滑り落ちていく。
「ほんとに月明かりみたいだね」
心太くんが、グラスを掲げて光に透かすように見つめた。
四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「これは……!」
よしおくんの声が弾んだ。
「なんて繊細な味わいなんでしょう」
紹子が、目を細めて言った。
「甘さと酸味のバランスが絶妙! 後味もすっきりしてる」
さちこが、舌で余韻を味わいながら言った。
かすみさんは、四人の反応を見て満足そうに微笑んだ。
「よかった。気に入ってもらえて」
その時、店の入り口の風鈴が秋風に揺られ、涼やかな音を響かせた。新しい客が入ってきたのだ。
「おかえり~」
かすみさんの温かな声が、帰宅するような安心感を与える。
「いらっしゃい」じゃなくて「おかえり」というのがとても、いい。
帰りももちろん「ありがとうございました」ではなく、「いってらっしゃい」だ。
カウンターの四人は、互いに顔を見合わせてにっこりと笑った。彼らは黙ってダーク立ちになり、新しく来た客のためにスペースをあけた。。
その瞬間、立ち呑み「半蔵」の魔法が、また一つ紡がれたのだった。
秋の夜長は、まだまだ続きそうだ。
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