第3話:ばばあじゃねえか!

 春の柔らかな陽気が漂う夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が流れていた。かすみさんのショートカットの髪が、軽やかな動きに合わせて揺れる。彼女の優しい笑顔が、店内の雰囲気を和ませていく。


 この夜、カウンターには四人の常連客の姿があった。


 まず、いつもの赤ホッピーを片手に、貴船紹子が立っている。出版社勤務らしい知的な雰囲気を纏いながらも、好奇心に満ちた目つきで周りを見回している。


 その隣には、宿澤さんが立っていた。シングルマザーながら現役モデルとして活躍している彼女は抜群のスタイルの良さと美しさで、店内の空気を一変させるような存在感を放っている。


 向かい側には、よしおくんが立っていた。スウェーデンと日本人のハーフらしい整った顔立ちながら、純日本的な仕草で酒を楽しんでいる姿が印象的だ。


 そして、端の方には茨木ちゃんが立っていた。恰幅の良い体型ながら、目は輝いており、何か面白い話を期待しているようだ。


 かすみさんは、四人の前で軽快に動きながら、新しい酒の説明を始めた。


「今日はね、春にぴったりの日本酒が入ったんです。福島の『会津娘』っていう蔵元の『桜花純米吟醸』なんですよ」


 彼女は、桜の花びらが描かれた美しい徳利から、それぞれの酒器に注いでいく。


「わぁ、桜の香りがするみたい」


 紹子が、鼻を酒器に近づけながら言った。


「ほんとだね。春の風が吹いてくるような……」


 よしおくんも、目を細めて香りを楽しんでいる。


「この『桜花純米吟醸』は、桜の花びらを漬け込んで造られているんです。だから、華やかな香りと共に、ほんのりとした甘みが楽しめるんですよ」


 かすみさんが丁寧に説明する。


 四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。


「うまか! これは確かに春やね!」


 紹子の博多弁が飛び出す。


「なんて繊細な味わいなんでしょう。甘みと酸味のバランスが絶妙ですね」


 宿澤さんが、舌で余韻を味わいながら言った。


「かすみさん、この酒に合う肴は何かありますか?」


 茨木ちゃんがゆっくり尋ねる。


「はい、実は今日は特別なものを用意しているんです」


 かすみさんは厨房に向かい、小さな皿を持って戻ってきた。


「これは、桜鯛の昆布締めです。春の香りを閉じ込めた甘酢ジュレを添えてみました」


 四人は、目を輝かせながらその一品を見つめた。


「わぁ、美しい……」


 宿澤さんが思わず声を漏らす。


 皿の上では、薄紅色の鯛のスライスが、花びらのように並べられていた。その上に、透明感のあるジュレが滴るように添えられ、香りと彩りを添えている。


「いただきます」


 四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。


「うん! これはうまか! バリうまばい!」


 紹子の声が弾んだ。


「鯛の繊細な味わいと、ジュレの爽やかさが絶妙だね」


 よしおくんがしみじみと言う。


「日本酒との相性も抜群です。春を感じられる一品ですね」


 茨木ちゃんが、満面の笑みを浮かべた。


 かすみさんは、四人の反応を見て満足そうに微笑んだ。


「みなさんに喜んでもらえて、私も嬉しいです」


 その時、宿澤さんが不意に口を開いた。


「そういえば、昨日面白いことがあったんです」


 その言葉に、全員の視線が宿澤さんに集中した。


「二十歳の息子とめずらしく一緒にスーパーに買い物に行ったんですけど……」


 宿澤さんの言葉に、皆が身を乗り出す。彼女のモデルらしい整った顔立ちに、少し困惑したような表情が浮かんでいた。


「何があったんですか?」


 紹子が、目を輝かせながら尋ねる。


「実は……スカートの中を盗撮されちゃったんです」


「えっ!?」


 四人が驚きの声を上げた。


「それは大変だったでしょう」


 かすみさんが心配そうに言う。


「いやぁ、実はそれが……」


 宿澤さんは少し照れくさそうに続けた。


「息子がすぐに気づいて、盗撮犯を取り押さえてくれたんです」


「さすが宿澤さんの息子さんだね!」


 よしおくんが感心したように言う。


「でも、その時に息子が言った言葉が……ちょっと……」


 宿澤さんは言葉を濁す。


「なんて言ったんですか?」


 茨木ちゃんが、好奇心いっぱいの表情で尋ねる。


「『何撮ってんだこら! よく見ろよ! ばばあじゃねえか!』って」


 一瞬の沈黙の後、店内に笑い声が響き渡った。


「失礼よね~」


 宿澤さんは言いながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべている。


「いやいや、それはむしろ褒め言葉ですよ」


 紹子が笑いながら言う。


「確かに! 宿澤さんがあまりにも若く見えたから、盗撮犯が撮ったってことですもんね」


 よしおくんも同意する。


「でも、盗撮はいけませんね。気をつけないと」


 かすみさんが真剣な表情で言う。


「そうそう。でも、宿澤さんの美しさは罪やね」


 紹子が冗談めかして言うと、宿澤さんは少し赤面した。


「まあ、息子のおかげで大事には至らなかったからよかったけど……」


 宿澤さんの言葉に、皆が頷く。


「それにしても、宿澤さんの息子さん、なかなかの剣幕だったんですね」


 茨木ちゃんが感心したように言う。


「ええ、普段はおとなしい子なんですけどね。でも、あたしのことになると急にムキになるんです」


 宿澤さんの顔に、母親としての誇らしさが浮かぶ。


「いい息子さんじゃないですか」


 かすみさんが優しく微笑む。


「ほんと、うちの颯太もああなってくれればいいんですけどね」


 かすみさんの言葉に、皆が笑う。かすみさんも、シングルマザーだ。


「さて、この話で喉が渇いたね」


 よしおくんが言うと、かすみさんはすかさず新しい酒を注ぎ始めた。


「このお話にぴったりの酒があるんです。福岡の『庭のうぐいす』という蔵元の『純米吟醸 uguisu』というお酒です」


 かすみさんは、鳥のモチーフが描かれた瓶から、それぞれの杯に注いでいく。


「このお酒は、フルーティーな香りと共に、しっかりとした旨味が特徴なんです。宿澤さんのような、美しくも芯の強い女性を思わせますね」


 かすみさんの言葉に、宿澤さんは照れくさそうに笑った。


「では、宿澤さんとその勇敢な息子さんの健康を祝して、乾杯しましょう」


 紹子が杯を上げると、皆も続いた。


「かんぱーい!」


 杯が触れ合う音と共に、店内に温かな空気が広がった。春の夜は、まだまだ長く、楽しい会話は続きそうだ。

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