第22話:結局、いい店って、人なんやね

 梅雨明けの蒸し暑い夜、立ち呑み「半蔵」の店内には、爽やかな風鈴の音が涼しげに響いていた。かすみさんは、淡い水色の浴衣姿で、髪に小さな朝顔の髪飾りをつけ、涼やかな雰囲気を醸し出している。彼女の表情には、いつもの優しさと共に、何か楽しげな光が宿っていた。


 この夜、カウンターには四人の常連客の姿があった。


 まず、鮮やかな黄色のワンピースに白のカーディガンを羽織った貴船紹子が立っている。首元にはさりげなく淡水パールのネックレスが輝き、涼しげな印象を与えている。今日は少し興奮した様子で、何か話したいことがありそうだった。


「かすみさん、聞いた? 新橋に新しい立ち呑み屋ができたらしいわよ」


 紹子の言葉に、かすみさんは少し驚いた表情を見せた。


「へぇ、そうなんですか? どんなお店なんでしょうね」


 その隣には、シックなネイビーのポロシャツにベージュのリネンパンツという爽やかな装いのくまさんが立っていた。首にはさりげなくウッドビーズのネックレスをかけ、リゾート気分を醸し出している。


「ああ、俺も聞いたよ。『銀座スタンド』っていう名前だったかな」


 くまさんの言葉に、かすみさんが首をかしげる。


「銀座スタンド? 新橋なのに銀座って……」


 向かい側には、真っ白なワイシャツに紺のネクタイ、グレーのスラックスという、いかにも仕事帰りといった姿の徳栄さんが立っていた。普段はIT技術職という堅い印象だが、今日は少しリラックスした表情を浮かべている。


「実は俺も行ってきたんだ。昨日の帰りにね」


 徳栄さんの言葉に、全員の視線が集まる。


 そして、端の方には黒のタイトなワンピースに赤いストールを巻いた杏奈さんが立っていた。ガールズバーのママらしい華やかさと大人の魅力を醸し出している。


「あら、私も気になってたのよ。どんなお店だったの?」


 杏奈さんの質問に、徳栄さんは少し考え込むような表情を見せた。


「うーん、どう言えばいいかな……」


 かすみさんは、みんなの様子を見ながら、新しいお酒を用意し始めた。


「みなさん、こんな話にぴったりのお酒があるんです。石川県の『農口尚彦研究所』という蔵元の『農口純米大吟醸 無濾過生原酒』です」


 かすみさんは、透明感のある美しいボトルから、それぞれのグラスに注いでいく。


「この酒は、農口杜氏が長年の経験を活かして造った逸品なんです。華やかな香りと、繊細な味わいが特徴で、新しい日本酒の可能性を感じさせる一本なんですよ」


 四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。


「わぁ、これは素晴らしい……」


 紹子が目を細めて言った。


「日本酒なのに、ワインのような複雑さがあるわね」


 くまさんも感心したように頷いた。


「さすがかすみさん、目利きだね。でも、この酒を飲むと、あの新しい店のことを思い出しちゃうな……」


 徳栄さんの言葉に、みんなが興味深そうな表情を見せる。


「そんなに印象的だったの?」


 杏奈さんが尋ねる。


「うん、まあ……」


 徳栄さんは言葉を選びながら話し始めた。


「外観はすごくお洒落で、内装も凝っていたんだ。でも、なんていうか……」


「なんていうか?」


 くまさんが促す。


「なんか、魂が感じられなかったんだよね」


 徳栄さんの言葉に、店内が静まり返る。


「魂が感じられない?」


 かすみさんが不思議そうに尋ねる。


「そう、なんていうか……お酒も料理も悪くないんだけど、どこか人間味が足りないというか」


 徳栄さんの言葉に、みんなが頷く。


「わかる気がするわ」


 杏奈さんが言う。


「私も新しくできた店によく行くけど、確かに綺麗すぎて居心地が悪いことってあるわよね」


 くまさんも同意するように頷いた。


「そうだね。俺も居酒屋やってるけど、お客さんとの関係性って大事だと思うんだ。単に酒と料理を出すだけじゃダメなんだよ」


 かすみさんは、みんなの話を聞きながら、静かに新しい肴を用意し始めた。


「みなさん、この話にぴったりの一品を用意しました」


 彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。


「これは、『思い出の味 おふくろの味噌汁』です。私の母が作っていた味噌汁のレシピを再現してみました」


 皿の上には、香り立つ味噌汁が盛られていた。具は、豆腐、わかめ、なめこ、そして少量の油揚げ。


「いただきます」


 四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。


「うん! これは……」


 紹子の目に涙が光る。


「なんだか、懐かしい味がするわ」


 くまさんも感動したように言う。


「こういう味こそ、お店の魂だよね」


 徳栄さんと杏奈さんも同意するように頷いた。


 かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。


「結局、いい店って、人なんやね」


 かすみさんの言葉に、全員が静かに頷いた。


「そうだね。料理もお酒も大事だけど、それを提供する人の想いが一番大切なんだ」


 くまさんが感慨深げに言う。


「新橋にはね、表には出てこない裏の顔があるのよ」


 杏奈さんが少し声を落として話し始めた。


「例えば?」


 紹子が興味深そうに尋ねる。


「例えばね、あの有名な政治家が通っている隠れ家的なバーがあるの。そこでは、重要な取引が行われているらしいわ」


 みんなが驚いた表情を見せる。


「へぇ、そんなのがあるんだ」


 徳栄さんが感心したように言う。


「でもね」


 くまさんが話に割って入る。


「そういう裏の顔があるからこそ、俺たちみたいな普通の店の存在意義があるんだと思うんだ」


「どういうこと?」


 紹子が尋ねる。


「だって、どんな人だって、たまには肩の力を抜いて、ただ美味しいお酒と料理を楽しみたいときがあるだろ? そんなときに、心を開いて話せる場所が必要なんだ」


 かすみさんは、くまさんの言葉に深く頷いた。


「そうやね。うちはそういう場所でありたいって、いつも思ってるんです」


 その言葉に、みんなが温かな気持ちに包まれた。


「かすみさん、あなたのお店こそ、本当の意味でいい店だと思うわ」


 杏奈さんが優しく微笑む。


「そうだよ。ここに来ると、なんだか家に帰ってきたような気分になるんだ」


 徳栄さんも同意する。


 紹子は、しみじみとした表情で言った。


「私ね、いつもここに来ると、心が落ち着くの。それって、すごく大切なことだと思う」


 かすみさんは、少し照れくさそうに頬を赤らめた。


「みなさん、ありがとうございます。私も、こうしてみなさんと話せるのが本当に幸せなんです」


 その夜の「半蔵」は、新しい店の話題から始まり、結局は「半蔵」の魅力を再確認する時間となった。それは、単なる立ち呑み屋ではなく、人々の心が通い合う特別な場所なのだと、みんなが改めて感じる時間だった。

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