第21話:うちはタバコ吸う料理人の舌は信用してへんねん
初夏の爽やかな風が吹き抜ける夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんは、淡いピンク色の浴衣姿で、髪に小さな紫陽花の髪飾りをつけ、涼やかな雰囲気を醸し出している。彼女の表情には、いつもの優しさと共に、何か期待に胸を膨らませているような表情が垣間見えた。
この夜、カウンターには四人の常連客の姿があった。
まず、鮮やかな緑のワンピースに白のカーディガンを羽織った貴船紹子が立っている。髪を緩やかにアップにし、首元にはさりげなくパールのネックレスが輝いている。今日は少しリラックスした表情を浮かべていた。
「かすみさん、今日は何か特別なことでもあるの? なんだか嬉しそうね」
紹子の言葉に、かすみさんは少し照れくさそうに微笑んだ。
「実はね、今日はちょっと珍しいお酒が入ったんです。みなさんに飲んでもらうのが楽しみで」
その隣には、シックなネイビーのポロシャツにベージュのチノパンという爽やかな装いのくまさんが立っていた。普段のハワイアンな雰囲気とは打って変わって、大人の落ち着きを感じさせる。
「へえ、珍しいお酒か。楽しみだなあ」
くまさんの目が輝く。
向かい側には、濃紺のスーツ姿のとらさんが立っていた。いつもの豪快な風貌だが、今日は少し緊張した面持ちで、何か言いたげな表情を浮かべている。
「かすみはん、実はな……」
とらさんが口を開こうとした時、かすみさんが軽快に動き出した。
「みなさん、今日はね、イタリアの『ミルク・ムーン』という珍しいリキュールを用意したんです」
かすみさんは、月の模様が描かれた美しいボトルから、それぞれのグラスに注いでいく。
「このお酒は、シチリア島の水牛の乳から作られているんです。クリーミーな口当たりと、ほのかな甘みが特徴なんですよ」
四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「わぁ、本当にクリーミー! でも、すっきりしていて飲みやすいわね」
紹子が感嘆の声を上げる。
「これは珍しい。ミルクなのにお酒の味わいがしっかりしてる」
くまさんも満足そうに頷く。
かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。そして、新しい肴を用意し始めた。
「このお酒に合わせて、特別な一品を用意しました」
彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。
「これは、『シチリア風カポナータ』です。茄子やズッキーニ、パプリカなどの野菜をオリーブオイルでじっくり炒めて、酢とトマトソースで煮込んだものです。ミルクベースのお酒との相性が抜群なんですよ」
皿の上には、色とりどりの野菜が煮込まれた香り豊かな料理が盛り付けられていた。
「いただきます」
四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
「うん! これはうまい! 野菜の甘みと酸味のバランスが絶妙だね」
くまさんの声が弾んだ。
そんな中、端の方に立っていた茨木ちゃんが、静かに口を開いた。彼女は今日、黒のタートルネックに赤のロングスカートという大人っぽい装いで、普段の賑やかさとは違う落ち着いた雰囲気を纏っている。
「かすみさん、この料理、もしかして……」
茨木ちゃんの言葉に、かすみさんが首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いえ、ちょっと気になることがあって……」
茨木ちゃんの言葉が途切れたその時、とらさんが突然声を上げた。
「かすみはん! 実は今日、うちの料理長を連れてきたんや。ちょっと挨拶させてもらってもええか?」
かすみさんは少し驚いた様子で頷いた。
「ええ、もちろんです」
とらさんの後ろから、白い調理服を着た男性が現れた。
「はじめまして。いつも美味しい料理の評判を聞いていました」
料理長が丁寧に挨拶をする。しかし、その時、かすみさんの鼻をつく匂いが漂ってきた。
「あの……失礼ですが、タバコを吸われましたか?」
料理長は少し困惑した表情を浮かべた。
「ええ、まあ……ストレス解消にたまに」
その言葉を聞いた瞬間、かすみさんの表情が一変した。
「うちはタバコ吸う料理人の舌は信用してへんねん」
かすみさんの言葉が、静かだが力強く響いた。店内が一瞬静まり返る。
「え? でも、僕はプロの料理人で……」
料理長が言いかけたが、かすみさんは毅然とした態度で言葉を続けた。
「プロやからこそ、舌は大切にせなあかんのちゃうか? タバコで味覚が鈍るんは、料理人としてどうかと思うわ」
その言葉に、店内にいた常連たちも静かに頷いた。
とらさんは困惑した表情を浮かべながらも、静かに料理長を外に連れ出した。
しばらくして戻ってきたとらさんは、深々と頭を下げた。どうやら今日は料理長にお引き取り願ったようだ。
「かすみはん、申し訳なかったな。確かに料理人がタバコを吸うのはよくないわ」
かすみさんの表情が和らいだ。
「いえいえ、とらさん。気にせんでください。ただ、うちはお客さんの舌を大切にしたいんです」
その言葉に、店内の空気が再び和やかになっていった。
紹子が静かに口を開いた。
「かすみさん、さすがだわ。こだわりを持って料理を作る人の言葉として、とても説得力があったわ」
くまさんも頷きながら言った。
「そうだよ。俺も居酒屋やってるけど、改めて料理人の責任の重さを感じたよ」
茨木ちゃんも笑顔で言葉を添えた。
「かすみさんの料理への情熱、すごく伝わってきました」
かすみさんは少し照れくさそうに微笑んだ。
「みなさん、ありがとうございます。でも、こんな話で雰囲気悪くなっちゃいましたね。さあ、もう一杯いかがですか?」
かすみさんは、新しいお酒を用意し始めた。
「これは、和歌山の『南方』という蔵元の『古酒仕込み梅酒』です。10年以上熟成させた古酒をベースに、南高梅をじっくり漬け込んだ贅沢な梅酒なんですよ」
かすみさんは、深い琥珀色の液体を、それぞれのグラスに注いでいく。
「熟成された古酒の深い味わいと、南高梅の爽やかな香りが絶妙なハーモニーを奏でています」
四人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「わぁ、これは素晴らしい……」
紹子が目を細めて言った。
「梅酒なのに、こんなに奥深い味わいがあるなんて」
くまさんも感心したように頷いた。
かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。そして、新しい肴を用意し始めた。
「この梅酒に合わせて、『紀州鴨の燻製 梅ソース添え』を用意しました」
彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。
「紀州鴨をじっくりと燻製にし、梅の果肉をすりおろして作ったソースを添えています。梅酒との相性が抜群なんですよ」
皿の上には、薄くスライスされた鴨の燻製が、淡いピンク色のソースと共に美しく盛り付けられていた。
「いただきます」
四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
「うん! これはうまい! 鴨の香ばしさと梅の酸味が絶妙だね」
とらさんの声が弾んだ。
「かすみさん、本当に料理の腕前は天下一品ですね」
茨木ちゃんが感心したように言う。
かすみさんは照れくさそうに笑った。
「みなさんに喜んでもらえて、私も嬉しいです」
その夜の「半蔵」は、かすみさんの料理への情熱と、常連たちの温かな交流で満ちていた。タバコを吸う料理人の一件は、かえって店の雰囲気を引き締め、みんなの絆を深める機会となったようだった。
閉店時間が近づき、常連たちが帰り支度を始める中、かすみさんは静かにつぶやいた。
「こんな素敵なお客さんたちと、こんな時間を過ごせるなんて、私って本当に幸せ者やなぁ」
その言葉に、誰もが心の中で同意していた。半蔵は、単なる立ち呑み屋ではなく、人々の心が通い合う特別な場所なのだと。
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