第19話:霧ちゃんの門出に乾杯!

 冬の寒さが身に染みる夜、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんは、深緑色のエプロンを身につけ、ショートカットの髪に淡い紅色のピンを留めている。彼女の表情には、何か特別な夜を予感させるような期待感が浮かんでいた。


 この夜、カウンターには四人の常連客の姿があった。


 まず、ベージュのケーブルニットにダークブラウンのロングスカートを合わせた貴船紹子が立っている。知的な雰囲気を纏いながらも、今日は少しリラックスした表情を浮かべていた。


「かすみさん、今日も一日お疲れさま。いつもの赤ホッピーをお願いします」


「はい、紹子さん。おかえりなさい。今日はゆっくりできそうですね」


 かすみさんは紹子の表情を見て、優しく声をかけた。


「うん、今日は珍しく早く仕事が終わったの。ゆっくり飲もうと思って」


 紹子が少し嬉しそうな表情で答える。


 その隣には、ブラックのタートルネックにグレーのチェック柄ワイドパンツを合わせた茨木ちゃんが立っていた。恰幅のよい体型ながら、洗練された雰囲気を醸し出している。


「あら、紹子さん。今日は早いのね。私も仕事が早く終わったから来ちゃった」


 茨木ちゃんが嬉しそうに言う。


「そうなの? じゃあ今日はゆっくりおしゃべりできそうね」


 紹子が笑顔で答える。


 向かい側には、白のブラウスにネイビーのプリーツスカートという清楚な装いのさちこが小さな体を寄せ合うようにして立っていた。145センチほどの小柄な体型ながら、その存在感は抜群だ。手には、いつもの焼酎のお湯割りが握られている。


「みんな、こんばんは。今日は寒いわね。でも、こうやって集まれて嬉しいわ」


 さちこが温かな笑顔で言う。


「そうね。寒い日は、みんなで集まるのが一番だわ」


 茨木ちゃんが同意する。


 そして、端の方には黒のニットワンピースにグレーのストールを巻いた霧ちゃんが立っていた。すっぴんにメガネ姿で、普段のイメージとは全く違う雰囲気を醸し出している。


「みなさん、こんばんは。今日はすごく寒いですね」


 霧ちゃんが少し控えめに挨拶する。


「霧ちゃん、久しぶり! 最近忙しかったの?」


 紹子が優しく声をかける。


「はい、ちょっと仕事が立て込んでいて……」


「あれ? 霧ちゃんってまだ学生さんじゃなかったっけ?」


 紹子が屈託なく問う。


「あっ、そうだった……仕事じゃなくて、学業がちょっと……」

「ふーん、学生さんも大変だねえ~」


 霧ちゃんがあわててそう答える。


 かすみさんは四人の前で軽快に動きながら、新しい酒の説明を始めようとした。その時、店の外から何か白いものが舞い込んでくるのが見えた。


「あら、雪?」


 かすみさんが驚いた様子で言う。


 四人が一斉に外を見ると、確かに小さな粉雪が舞い始めていた。


「わぁ、本当に雪だわ」


 さちこが目を輝かせる。


「こんな都会で雪が見られるなんて、珍しいわね」


 茨木ちゃんも感動した様子だ。


 オープンスペースである半蔵の店内にも、少しずつ雪が入ってきて、幻想的な雰囲気が広がっていく。


「せっかくだから、雪見酒にしましょうか」


 かすみさんが嬉しそうに提案する。


「いいわね! 素敵な雰囲気になりそう」


 紹子が賛同の声を上げる。


「では、今夜は特別なお酒と肴をご用意しますね」


 かすみさんは厨房に向かい、しばらくして戻ってきた。


「こちらは、新潟の『八海山』の『雪室貯蔵三年』という特別な日本酒です。雪室で三年間熟成させた、まろやかで深みのある味わいが特徴なんですよ」


 かすみさんは、雪の結晶模様が描かれた美しい徳利から、それぞれの酒器に注いでいく。


「わぁ、なんて素敵な香り」


 霧ちゃんが、鼻を酒器に近づけながら言った。


「ほんとね。まるで雪の中を歩いているような清々しさがあるわ」


 茨木ちゃんも、目を細めて香りを楽しんでいる。


「さあ、みなさん。では、乾杯しましょう」


 かすみさんが笑顔で言う。


「かんぱーい!」


 四人が声を合わせて、酒器を軽く合わせた。


 一口飲むと、驚きの表情が広がった。


「うまか! これは本当に特別な味ばい!」


 紹子の博多弁が飛び出す。


「ほんとに美味しいわ。まろやかだけど、深みがあるのね」


 さちこが、舌で余韻を味わいながら言った。


「かすみさん、この酒に合う肴は何か特別なものを用意してくれたの?」


 茨木ちゃんが期待を込めて尋ねる。


「はい、こちらをご覧ください」


 かすみさんは、美しい青と白の器に盛られた料理を持ってきた。


「これは、『雪見鯛の昆布締め』です。真鯛を昆布で締めて、雪のように白い大根おろしと、青いポン酢ジュレを添えてみました」


 四人は、目を輝かせながらその一品を見つめた。


「わぁ、まるで雪景色のようね」


 霧ちゃんが感動した様子で言う。


 白い大根おろしの上に、薄紅色の鯛が美しく盛り付けられ、その周りに青いジュレが雪解けの水のように広がっている。


「いただきます」


 四人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。


「うん! これはうまか! バリうまばい!」


 紹子の声が弾んだ。


「鯛の繊細な味わいと、ポン酢の爽やかさが絶妙ね」


 茨木ちゃんがしみじみと言う。


「日本酒との相性も抜群です。さすがかすみさん」


 さちこが、満面の笑みを浮かべた。


 かすみさんは、四人の反応を見て満足そうに微笑んだ。


「みなさんに喜んでもらえて、私も嬉しいです」


 その時、霧ちゃんが少し恥ずかしそうに口を開いた。


「あの、実は私……」


 全員の視線が霧ちゃんに集中する。


「私、実は……」


 もじもじする霧ちゃんの言葉に、全員が息を飲んで聞き入る。


「実は、来月から海外で仕事をすることになったんです」


 霧ちゃんの声は小さく、少し震えていた。


「実は、来月から海外で仕事をすることになったんです」

 霧ちゃんの声は小さく、少し震えていた。


 その言葉に、一瞬の沈黙が訪れた後、さちこが首を傾げながら言った。


「えっ? 霧ちゃんて学生じゃなかった?」


「そうよね。確か女子大生って聞いてたわ」


 茨木ちゃんも困惑した表情で同意する。


 紹子も眉をひそめ、「海外で仕事? どういうこと?」と疑問を投げかけた。


 霧ちゃんは言葉に詰まり、俯いてしまう。その様子を見ていたかすみさんが、静かに口を開いた。


「霧ちゃん、この3人になら喋っても大丈夫じゃない? みんなちゃんと秘密は守る人たちだから」


 かすみさんの優しい声に、霧ちゃんは顔を上げ、三人の顔をゆっくりと見回した。そして深呼吸をして、決意を固めたように話し始めた。


「すいません、今まで女子大生だって嘘ついてましたけど、あたし……女優をしてるんです」


 その告白に、三人は驚きの表情を浮かべた。しかし、それ以上の衝撃が待っていた。


 霧ちゃんは、ゆっくりと眼鏡を外し、首に巻いていたストールを取った。すると、そこには……


「えっ!? ま、まさか……」


 紹子が息を呑む。


「霧ちゃん、あなた……」


 さちこの目が大きく見開かれる。


「信じられない……」


 茨木ちゃんは言葉を失っていた。


 そう、霧ちゃんの正体は、今や日本中で最も注目されている若手女優、霧島 葵だったのだ。


「ご、ごめんなさい。みなさんには黙っていて……」


 霧ちゃん、いや霧島 葵は申し訳なさそうに頭を下げた。


「まさか、あの霧島 葵ちゃんが、こんな小さな立ち飲み屋に来てたなんて……」


 紹子が驚きを隠せない様子で言う。


「え? ってことは、アメリカの仕事って、もしかして……」


 さちこが言いかけると、霧ちゃんは小さくうなずいた。


「はい、ハリウッド映画のオファーをいただいて……」


 その言葉に、店内がどよめいた。


「みんな、びっくりした? でも、霧ちゃんはずっとみんなと同じように、ここで楽しく過ごしたいって言ってたの。だからあたしはずっと知ってたけど内緒にしてたの」


 かすみさんは優しく微笑みながらぺろりと舌を出した。


 三人は、驚きを隠せない表情のまま、霧ちゃんを見つめていた。そして……


 一瞬の静寂が訪れた後、紹子が優しく声をかけた。


「ハリウッドなんてすごいじゃない! おめでとう!」


 紹子の言葉に、他の常連たちも次々と祝福の言葉を投げかける。


「霧ちゃん、それはすごいわ! どこで撮影するの?」


 さちこが興味深そうに尋ねる。


「アメリカです。ニューヨークで半年間、お仕事をすることになりました」


 霧ちゃんの表情に、少しずつ安堵の色が浮かぶ。


「ニューヨーク! 素敵ね。きっと刺激的な経験になるわよ」


 茨木ちゃんが目を輝かせながら言う。


 かすみさんは、静かに微笑みながらこの会話を聞いていた。彼女は霧ちゃんの本当の職業を知っているが、もちろんそれを口に出すことはない。


「霧ちゃん、おめでとう。でも、半年も会えないのは寂しいわね」


 かすみさんが優しく言う。


「はい……私も、みなさんと半蔵で過ごす時間が恋しくなりそうです」


 霧ちゃんの目に、わずかに涙が光る。


「よし、それじゃあ霧ちゃんの壮行会をしなくちゃね!」


 紹子が突然、元気よく言い出した。


「そうね! 霧ちゃんの門出を祝いましょう」


 さちこも賛同する。


「かすみさん、何か特別なお酒はない? 霧ちゃんの新しい門出にぴったりの」


 茨木ちゃんがかすみさんに尋ねる。


 かすみさんは、しばし考え込むような表情を見せた後、パッと顔を明るくさせた。


「ああ、ちょうどいいものがありますよ」


 そう言って、かすみさんは奥の棚から、青い瓶を取り出してきた。


「これは、アメリカのニューヨーク州で作られている『ブルックリン・ジン』という珍しいお酒です。ニューヨークの雰囲気を感じられる香りと味わいが特徴なんですよ」


 かすみさんは、それぞれのグラスに氷を入れ、青い液体を注いでいく。


「わぁ、きれいな色」


 霧ちゃんが目を輝かせる。


「香りもいいわね。なんだか都会的な感じがする」


 紹子が鼻を近づけながら言う。


「では、霧ちゃんの新しい門出に乾杯しましょう」


 かすみさんが声をかける。


「霧ちゃんの門出に乾杯!」


 全員でグラスを掲げる。


 ジンの爽やかな香りと、柑橘系のさっぱりとした味わいが、みんなの口の中に広がる。


「おいしい! これ、ニューヨークの空気を飲んでいるみたい」


 さちこが目を丸くして言う。


「霧ちゃん、こんなお酒を飲みながら、ニューヨークの夜景を眺めるんだろうね」


 茨木ちゃんが羨ましそうに言う。


 霧ちゃんは、少し照れくさそうに微笑んだ。


「みなさん、ありがとうございます。こんなに温かく送り出してもらえて、本当に嬉しいです」


 霧ちゃんの目に、再び涙が光る。


「霧ちゃん、半年なんてあっという間よ。たくさん素敵な経験をして、また半蔵に戻ってきてね」


 紹子が優しく言う。


「そうよ。そして、ニューヨークのお話をたくさん聞かせてね」


 さちこも付け加える。


 かすみさんは、静かにみんなの会話を聞きながら、新しい肴を用意し始めた。


「みなさん、霧ちゃんのためにもう一品用意しました」


 彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。


「これは、『ニューヨーク風ミニピザ』です。アメリカンな味わいと、日本の繊細さを融合させてみました」


 皿の上には、小さなピザが並んでいる。トマトソースの赤と、モッツァレラチーズの白、バジルの緑が、まるでアメリカ国旗のように鮮やかだ。


「わぁ、可愛い!」


 霧ちゃんが目を輝かせる。


「いただきます」


 全員で口を揃えて、ピザに手を伸ばす。


「うまい! これ、ジンと相性バッチリばい!」


 紹子が博多弁で叫ぶ。


 店内には、笑顔と温かな空気が満ちていく。外では雪がますます強く降り始め、半蔵の中にも雪が舞い込んでくる。しかし、誰もそれを気にする様子はない。


 この夜、立ち呑み「半蔵」は、霧ちゃんの新しい門出を祝う特別な場所となった。雪が舞う中、温かな酒と料理、そして何より大切な仲間たちの笑顔が、霧ちゃんの心に深く刻まれていく。


「みんな、本当にありがとう。私、頑張ってきます」


 霧ちゃんの声に、決意と感謝が込められていた。


「行ってらっしゃい、霧ちゃん。でも忘れないでね」


 かすみさんが優しく言う。


「半蔵はいつでもあなたの帰る場所よ」


 その言葉に、全員が深くうなずいた。白銀の夜に、新たな旅立ちの乾杯の音が響く。それは、寒い冬の夜を温かく照らす、忘れられない瞬間となった。

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