第25話:紹子ちゃん、さっきのあれ嘘やから気にせんとき
初秋の風が心地よく吹き抜ける夕暮れ時、立ち呑み「半蔵」の店内には、いつもの温かな空気が漂っていた。かすみさんは、深緑色のエプロンを身につけ、髪に小さな銀杏の髪飾りをつけ、秋の訪れを感じさせる雰囲気を醸し出している。
この夜、カウンターには五人の常連客の姿があった。
まず、ベージュのニットワンピースに茶色のレザージャケットという秋らしい装いの貴船紹子が立っている。首元にはさりげなく淡水パールのネックレスが輝き、大人の女性の魅力を醸し出している。
「かすみさん、今日も赤ホッピーをお願いします」
紹子の隣には、派手な花柄のシャツにグレーのチノパンという独特の装いの宿澤さんが立っていた。モデル体型の彼女は、周囲の目を引きつける存在感を放っている。
「かすみさん、今日はどんなお酒がおすすめかしら?」
向かい側には、黒のタートルネックにダークブルーのジーンズという落ち着いた装いの痩田(そうだ)さんが立っていた。その巨漢の体型とは対照的に、柔和な表情で周囲を見渡している。
「名前は痩せてるけどだけど太ってま~す! かすみさん、いつもの焼酎をください」
痩田さんがいつものキャッチコピーを言って笑う。ご機嫌そうだ。
その隣には、真っ白なTシャツにカーキのカーゴパンツという爽やかな姿のよしおくんが立っていた。スウェーデンと日本人のハーフらしい整った顔立ちが、周囲の視線を集めている。
「かすみさん、生ビールを一杯お願いします」
そして、端の方には紺のブレザーにチェック柄のパンツという、いかにも教授風の装いの蓮田先生が立っていた。車椅子に座った姿で、穏やかな表情を浮かべている。
「かすみさん、今日は何か面白い話でもありますかね」
かすみさんは、五人の前で軽快に動きながら、注文を受けていく。その時、蓮田先生が突然声を上げた。
「そういえば、私昨日ノーベル賞の選考委員会から連絡があってね……」
その言葉に、紹子が目を丸くした。
「えっ! 蓮田先生、ノーベル賞ですか!?」
蓮田先生は嬉しそうに頷いた。
「ああ、そうなんだよ。物理学賞の候補に選ばれたらしい」
紹子は興奮気味に質問を続けた。
「すごいですね! どんな研究だったんですか?」
蓮田先生は少し考え込むような仕草をしてから答えた。
「宇宙の起源に関する新理論さ。ビッグバンの前に何があったかを解明したんだ」
紹子は驚きと尊敬の眼差しで蓮田先生を見つめた。
「まさか、半蔵にノーベル賞候補がいらっしゃるなんて……」
かすみさんは、みんなの様子を見ながら、新しいお酒を用意し始めた。
「みなさん、今日はちょっと珍しいお酒を用意しましたよ。これは、スウェーデンの『ノーベル・スピリッツ』という蒸留所の特別なウイスキーなんです」
かすみさんは、金色のラベルが貼られた美しいボトルから、それぞれのグラスに注いでいく。
「このウイスキーは、ノーベル賞授賞式の晩餐会で振る舞われるものと同じ原酒を使っているんです。華やかな香りと、まろやかな口当たりが特徴ですよ」
五人が一斉に口をつけると、驚きの表情が広がった。
「わぁ、これは素晴らしい……」
宿澤さんが目を細めて言った。
「まるで科学の神秘を味わっているようですね」
よしおくんも満足そうに頷いた。
かすみさんは、みんなの反応を見て満足そうに微笑んだ。そして、新しい肴を用意し始めた。
「このウイスキーに合わせて、特別な一品を用意しました」
彼女は、小さな皿を持って戻ってきた。
「これは、『ノーベル・インスピレーション・プレート』です。五つの小さな料理が、ノーベル賞の五部門を表現しているんですよ」
皿の上には、色とりどりの小さな料理が美しく盛り付けられていた。
「物理学賞は星型のパルメザンクリスプ、化学賞は分子構造を模した野菜のムース、生理学・医学賞は人体の形をしたミニハンバーグ、文学賞は本の形をしたクラッカー、平和賞は鳩の形をしたブランマンジェです」
「いただきます」
五人が口を揃えて言うと、一斉に箸を伸ばした。
「うん! これはうまい! 料理まで芸術的だね」
痩田さんの声が弾んだ。
蓮田先生は、嬉しそうに料理を口に運びながら、さらに話を続けた。
「実はね、私の研究室では宇宙人との交信にも成功しているんだよ」
紹子はますます驚いた様子で聞き入った。
「えっ! 本当ですか? どんな宇宙人だったんですか?」
蓮田先生は真剣な表情で答えた。
「アンドロメダ座のM31銀河からやってきた知的生命体さ。彼らは地球の音楽に興味があるらしくてね」
紹子は興奮を抑えきれない様子だった。しかし、他の常連たちは何か知っているかのように、静かに聞いているだけだった。
その時、蓮田先生がトイレに立った。蓮田先生が席を外している間に、かすみさんが紹子に近づいてきた。
「紹子ちゃん、さっきのあれ嘘やから気にせんとき」
紹子は驚いて目を見開いた。
「え? 嘘だったんですか?」
かすみさんは優しく説明した。
「うん、蓮田先生はな、寂しいから時々大きな嘘をつくんや。でも基本的に無害やから、みんな突っ込まずにほっとくんよ」
紹子は少し複雑な表情を浮かべた。
「そうだったんですね……」
よしおくんが紹子に向かって優しく微笑んだ。
「僕たちも最初は驚いたけど、最近は逆に蓮田先生の話を聞くのが楽しみになってきたんだ。蓮田先生の想像力豊かな話で、この店がもっと楽しくなるんだよ」
宿澤さんも頷きながら言った。
「そうよ。蓮田先生の話を聞いていると、現実世界を忘れて素敵な空想の世界に浸れるの」
痩田さんも笑顔で付け加えた。
「それに、蓮田先生の話のおかげで、みんなで話題を共有できるしね」
紹子は少しずつ理解を示し始めた。
「なるほど……。みんな、優しいんですね」
かすみさんは静かに微笑んだ。
「ここは、みんなが安心して自分らしくいられる場所なんや。時には現実から少し離れて、想像の世界に浸るのも大切やと思うんよ」
その言葉に、全員が深く頷いた。
蓮田先生が戻ってくると、紹子は自然な笑顔で迎えた。
「蓮田先生、宇宙人の話、もっと聞かせてください」
蓮田先生の目が輝いた。
「おお、君も興味があるのかい? 実はね、彼らは地球の猫が大好きでね……」
その夜の「半蔵」は、現実と空想が交錯する不思議な空間となった。常連たちは、蓮田先生の豊かな想像力に触れながら、お互いの絆を深めていった。それは、単なる立ち呑み屋ではなく、人々の心が通い合う特別な場所だったのだ。
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