第17話:流しの歌声は、時を超える魔法や
梅雨明けの蒸し暑い夜、立ち呑み「半蔵」の店内は、いつもの温かな雰囲気に包まれていた。かすみさんは、淡い水色の浴衣姿で、髪に小さな風鈴の髪飾りをつけ、涼しげな雰囲気を醸し出している。
この夜、カウンターには五人の常連客の姿があった。
まず、ライトグレーのリネンシャツにベージュのチノパンという爽やかな装いの貴船紹子が立っている。髪を軽くアップにして、首元に小さな汗が光っていた。今日は少し疲れた表情を浮かべていたが、それでも目は輝いていた。
「かすみさん、今日も暑いですね。いつもの赤ホッピーをください」
その隣には、派手な花柄のシャツに白のショートパンツという夏らしい格好のさくちゃんが立っていた。顔を扇子で煽ぎながら、周りを和ませるような雰囲気を漂わせている。
「ああ、暑うてかなわんわ。かすみさん、なんかキンキンに冷たいもんあれへん?」
向かい側には、白のポロシャツにカーキのショートパンツという涼しげな姿のやまさんが立っていた。うどん屋の仕事を終えてホッとした表情だが、額には汗が滲んでいる。
「かすみさん、今日もフルーツ系の酎ハイで頼むよ。氷をたっぷりで」
その隣には、ノースリーブのブラウスにロングスカートという女性らしい装いの万秋ちゃんが立っていた。首にはスカーフを巻き、涼しげな印象を与えている。
「かすみさん、今日は何かスペシャルな飲み物ありますか?」
そして、端の方には叔父貴が立っていた。いつもの厳つい風貌だが、今日は珍しく白のタンクトップに黒のハーフパンツという夏らしい姿で、腕には刺青が覗いている。もちろんここに来るときだけするシールだが。
「かすみちゃん、今日は暑いから冷えた生ビールを頼むわ」
かすみさんは、五人の前で軽快に動きながら、注文を受けていく。その時、店の入り口が開き、見慣れない人影が入ってきた。
「おかえり……あれ?」
かすみさんの声が途切れる。入ってきたのは、ギターを背負った中年の男性だった。男性は少し緊張した様子で、汗ばんだ額を手で拭いながら店内を見回している。
「すみません、ここで一杯やらせてもらえませんか? できれば、歌も聞いてもらえたら……」
男性の声は少し震えていた。
「まあ、流しさんやないの! おかえりやで。ゆっくりしていってな」
かすみさんは驚きながらも、温かく迎え入れた。
常連たちは、この突然の出来事に驚きながらも、興味深そうに男性を見つめていた。
紹子が目を輝かせながら口を開いた。
「わあ、本物の流しさんですね! 今時珍しいです」
さくちゃんも興奮気味に言った。
「おお! 昔よう見たわ。なっつかしいなあ」
やまさんは少し懐かしそうな表情を浮かべながら言った。
「流しさん、ぜひ一曲聞かせてください」
万秋ちゃんは笑顔で男性に声をかけた。
「そうそう、歌ってくれや! ワシらの若い頃を思い出すわ」
叔父貴も珍しく柔らかな表情で言った。
流しの男性は、みんなの反応に少し安心したように見えた。彼は三味線を取り出し、調子を整え始めた。
「では、『新橋ブルース』を……」
男性の歌声が、静かに店内に響き始めた。最初は少し震えていた声も、次第に落ち着きを取り戻し、哀愁を帯びた美しいメロディーが「半蔵」を包み込んでいく。
歌が終わると、店内に大きな拍手が沸き起こった。
かすみさんは、感動した様子で言った。
「流しの歌声は、時を超える魔法や。みんな若かりし頃に戻ったみたいやな」
その言葉に、常連たちも深く頷いた。
かすみさんは、特別な日本酒を取り出した。
「これは、『時の調べ』っていう珍しい日本酒や。熟成された味わいの中に、ほんのりと若々しい香りが感じられる。今夜にぴったりやと思うわ」
流しの男性は、感激した様子で日本酒を受け取った。
◆
流しの男性の歌声が店内に響き渡る中、常連たちはそれぞれの思い出に浸りながら、酒を楽しんでいた。
さくちゃんは、突然立ち上がり、流しの男性に近づいた。派手な花柄のシャツが店内の薄暗い照明に映え、その姿は一際目立っている。
「なあなあ、『上を向いて歩こう』、一緒に歌わへん?」
さくちゃんの目は興奮で輝いていた。流しの男性は少し驚いた様子だったが、すぐに微笑んで頷いた。
二人の歌声が重なり合う。さくちゃんの少し裏返った声と、流しの男性の落ち着いた声が不思議なハーモニーを奏で、店内は笑いと拍手に包まれた。
万秋ちゃんは、スカーフを首元で軽く結び直しながら、流しの男性に近づいた。彼女の目には好奇心と期待が満ちている。
「すみません、ちょっと変わったお願いかもしれませんが……フランスの『愛の讃歌』は歌えますか?」
流しの男性は一瞬戸惑ったが、すぐにギターを手に取った。
「英語版なら何とか……」
彼が奏で始めると、万秋ちゃんはフランス語で歌い始めた。
彼女の澄んだ声に、店内の空気が一変する。
「万秋ちゃん、フランス語も喋れんねや……」
やまさんは、ポロシャツの襟を少し開きながら、懐かしそうに目を細めている。
「ああ、昔パリに行ったとき、カフェで聴いたなあ……」
紹子は、グラスを片手に身を乗り出し、万秋ちゃんの歌に聞き入っている。彼女の頬は少し赤く、目には涙が光っていた。
「こんな歌を『半蔵』で聴けるなんて……感動です」
叔父貴は、普段の厳つい表情とは打って変わって、柔らかな笑みを浮かべていた。タンクトップ姿の腕には少しだけ鳥肌が立っている。
「ワシも若い頃、こんな歌聴きながら恋してたなあ……」
かすみさんは、みんなの様子を見守りながら、静かに微笑んでいた。彼女の手には、新しい酒瓶が握られている。
「みんな、こんな特別な夜やし、もう一杯どうや? これは『星降る夜の酒』って言って、夏の夜にぴったりの冷酒なんや」
常連たちは顔を見合わせ、にっこりと笑った。グラスが重なり合う音が、流しの歌声に重なって響く。
その夜の「半蔵」は、思わぬ出会いから生まれた音楽の調べに包まれ、いつも以上に温かな雰囲気に満ちていた。時が経つのも忘れ、みんなで歌い、笑い、時には涙ぐみながら、特別な夜を過ごしていった。
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