第5話

 ようやく頭痛もおさまってきたので、ノアはゆっくりとからだを起こした。


 凍汰はいない。

 工房だろうか。

 予約はなくても、ルームの様子が気になる。


 ノアは鞄のポーチから手鏡を取り出すと、くしゃんとつぶれた髪の毛を手櫛でふわっと整えてからリップクリームを乾いた唇に走らせる。


「この髪、なんとかしたいな」


 髪には力が宿るから切ってはいけない、パーマもカラーも禁止と言い渡されているのだ。なんだかなーと思いながらノアはため息をつく。


「アロマダウザーが今ひとつ人気ないのは、この髪をいじれないってことよね」


 と、ノアは肩をすくめる。

 それからよいしょっと声を出して立ち上がると軽く伸びをした。


 部屋を横切りドアを抜けて廊下へ。

 ラボルームは、廊下の突き当りにあった。


 吹き抜けガラスの天窓から、日の光、月の光が、たっぷりふりそそぐ。

 静まり返った場内。

 ちり一つ落ちてないフローリング。

 清浄な空気。


 人の気配で乱されてないのがわかる。

 

 ノアは、かえって今日は自分が手を入れない方がいいと判断した。


 武道家が道場でするように礼儀正しく深々とおじぎをして、ラボルームの奥のアロマダウジングの道具がしまってある棚が整頓されているのを確認してから、扉を閉めて鍵をかけた。


 それから仮眠室に寄って鞄をとると、紺のハーフコートをはおって白いマフラーを巻いて廊下をもどって待合室へいった。


 受付にはミネラルアロマ調合師の礼基が、涼しい顔をして見慣れぬ文字の記された分厚い皮の背表紙の本を読んでいた。

 ラボルームの寒々しさとはうって変わって、清潔感のあるクールパステルの待合室。

 ここはクライアントにくつろいでもらうのにほんのりと香りの霧、アロマフォグが漂わせてある。


 と、電話が鳴り、礼基は本を閉じると受話器をとった。

 礼基はしばし相手の言葉に耳を傾けてから、


「ご希望がございましたら、ミネラルアロマシロップを処方いたします。ミネラルに抵抗がございましたら、ハーバルアロマシロップもございます。もちろん、ここは診療所ではありませんので薬ではありません。あくまで、気の持ち方をサポートする経口お守りとお考えください」


 と、事務的になり過ぎない程度のてきぱきとした口調で言った。

 しばらく相手の話が続き、最後に「おだいじに」と、心より心配してますといった雰囲気をにじませて礼基は受話器を置いた。

 クライアントが予約はとったものの、やはりおじけずいて断りの電話をかけてきたのだろう。よくあることだった。


 それにしても、と、ノアは思う。


 こざっぱりとカットした髪に、ぱりっとした白衣。助手兼受付の礼基さんのほうが夢惣叔父さんよりよほど信用できそう、と。






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