第2話
「その操作はどうやら情動・記憶・ホメオスタシスを司る大脳辺縁系の機能と関係があるらしい」
「ホメオスタシスって、ええっと」
ノアが詰まっていると夢惣が言葉を継いだ。
「ホメオスタシスとは、どのような環境においても生物は自分の体内の状態、体温や血液成分、血液の量などを一定に保とうする傾向のこと。生体恒常性のことなんだ」
「コウジョウセイ? 」
意味はわかったがどのような漢字を当てるのか思いつかずノアは聞き返した。
「常に恒であるという性質。ちょっとノアには難しいかな。でも、こうした言葉の意味を覚えるのも訓練の一つだからね。今はだいたいイメージできればいいよ」
ホワイトボードには人間の脳の絵が描かれてそこに矢印と文字が書き込まれていく。
「さて、香りの精髄だけが到達できる未知の領域。そこを刺激し操作することによってアロマダウザーは時空を超える。もっともそれにはかなり資質が関係する」
「資質……」
ノアがつぶやくと、夢惣がやさしくうなづいた。
「その領域に到達すれば、本来においのないものににおいを感じ、一方向からだけでなく多方向からにおいを感受できるようになる。たとえば、暁の、黄昏の、真昼のにおいを感知できた時に、それを共通理解、みんながわかるような言葉で表現できるようになること。単なる個人の思いこみではなく集合深層心理域での共有感覚をきっちり拾って表現できるようになること」
夢惣は、そこで言葉を切ると、ノアにじっと視線を注いだ。
ノアは自然と居住まいをただした。
「それが一流の証。資質あってこそ到達できるとされるスペシャルアロマダウザーの証」
夢惣はそう言うとおもむろにホワイトボードに描かれた図を消し始めた。
「最も常にその状態では嗅覚のみに他の感覚が支配されてしまってまともな神経ではいられなくなる。だから、ふだんは意識的に鈍くしているんだよ。助手の礼基くんが調合してくれる専用のアロマダウジング用のエレキシルを服用してね。もちろん慣れれば自在に操れるようになるので問題はないのだけれどね」
「夢惣おじさんでもエレキシルが必要なの」
「ん、そうだね、常に自分の状態を保つというのは、まあ、うまくいかない時もある」
ホワイトボードをすっかり消し終えると夢惣は、今日のまとめだよと前置きをして話始めた。
「アロマダウジングには、ものすごいエネルギーを使う。だから、心身に負担がかかる。その負担につぶされぬように、訓練が必要なんだ」
ノアは夢惣の話にじっと耳を傾ける。
「訓練の開始は若い方がいい。ピークは十歳から十八歳くらいだ。十歳以前だとまだ未成熟の部分が多すぎるし、十八歳を過ぎると、ことこの分野に関しては成長が鈍くなってしまうのだ。原因はまだわかっていない」
ノアは夢惣のところに来た十一歳の冬から訓練をはじめた。
つまり、ジャストタイミングに近いといえた。
そうノアが思いめぐらせていたところ、夢惣が声をかけてきた。
「さあ、レッスンはここまで。ここからは本題だよ、ノア。なにがあったのか話してごらん」
ノアはお見通しの夢惣に心を決めて口を開いた。
「昨日、わたし、会ったの」
夢惣は無言のままでいる。ノアは続ける。
「
それからノアは一通り出来事を話した。
話しが終わると、夢惣はノアを見つめて言った。
「それで、ノアは、どうしたいんだい」
「助けてあげたい」
「時空双子だから? 」
「ん……」
ノアはそのままうなづいてしまうとそれだけでは自分の為だけに行動を起こすような気がして少し後ろめたい気持ちになった。
時空双子を助けることは自分をいい具合に保つことになるのだから、それは否定できない事実。
でも、ノアが学校に行けず困っていた時には時空双子は現れてくれなかったではないか、と思いなおして自分を正当化しようとする。
「望んで、強く望んで、ノアに会おうとしたんだね、彼は」
夢惣の言葉に、ノアは、はっとした。
そうだ。
ノアは、時空双子の存在をその時にはまだ半信半疑だったのだ。
叔父は世間的には変わりもので、そんな叔父のしていることを全面的に表だって認めるのは恥ずかしかったのだ。
実際にアロマダウジングのさわりを体験して、それでようやく自分を納得させる材料が満たされたといった感じなのだ。
そうなると胸のつかえをとるには自分が今できることをするしかない。
「あの、わたしでも、だいじょうぶなのかな」
「だいじょうぶさ。時空双子の呼びかけに気づいたんだから。気づきは、アロマダウジングの第一歩、だよ」
夢惣は笑みを浮かべてからすぐに真顔になった。
「さあ、わざわざこちらに精神を飛ばしてくるってことは、ぐずぐずしてられないってことのようだ。すぐに、おさらいだ。その間に礼基くんにオイルを調合してもらおう」
「あ、じゃあ、これ」
ノアはカモミールの首飾りを差し出した。
夢惣は壊さないようにそっと受け取ると、それを礼基の所へ持っていった。
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