第6話

「あの、叔父さ、え、と、夢惣師匠は、まだ帰ってないですか」


 勤務中は師匠と呼ぶようにと言われている。


「ああ、萱道けんどうさん」


 礼基も改まった言い回しで応える。

 ノアの名字萱道の萱は、身につけると憂いを忘れると言われる萱草かんぞう、わすれ草のことだ。

 風雅な名字だね、と礼基は言っていた。


「夢惣先輩は、今日はもどれないと連絡があったよ。今年は例年になく冬咲きの花のつきがいいんで、明日もう一日、園で摘んでくるらしい。なにしろアロマダウジングに使う香油用の花は、朝日がのぼって一時間のうちに摘まなけりゃならないからね。朝露が干ぬ間に、ってね」


「そっか、そうでしたね、礼基さん」


 そう言いながらノアは、礼基の読んでいた本に目を移す。


「それ、何の本ですか」


「ああ、これね」


 礼基はおもむろに本を手にすると、ページを開いて見せた。


「これは、古代タムリ文字ついての研究書」


「古代タムリ文字……? 」


 なんでもないかのようにさらっと礼基は言うが、彼も一見普通ながらこと自分のテリトリーの研究に関しては、とことんいってしまっている人なのだ。


「先輩にきいたことない? 確か、論文書いてたはずだけど」


「論文、ですか」


「ほら、これ、先輩の論文」


 礼基の細長い指先が、目次の一つを指した。


 調合で強い精油を扱うと手が荒れがちになるので、ハンドマッサージにハンドバスにネイルトリートメントにと、礼基は手のお手入れには気を配っている。

 その甲斐あって、荒れ知らずの綺麗な手指をしている。


「まだ研究始めた頃のだから、文字に慣れてなくて簡単な構文でしか書けない、って嘆いてた」

「あの、これって、地球上では使われてない文字ですよね。それ、誰が読むんですか」

「研究者だよ。こっちと向こうと両方の。向こうでも注目されてるらしい」

「ものずきな人たち向けの本ですか」

「そうとも言う」

「電波本とも言いますね」

「おや、先輩の一の弟子とは思えない発言だね」

「わかりました。叔父さんと礼基さんってものずき仲間なんですね」

「ひどいなぁ、先輩が泣くよ」

「そ、そうですか、わたし、ひどい、かな」


 ノアは、ちょっとでも否定されると、弱気モードにスイッチが入ってしまう。


「あ、そんなことないから、」


 それに気付いて、礼基が慌てて声をかける。


「戸締りしとくから、えっと、一人で帰れるかい」


 と、言ってから、身支度を済ませて通りかかった凍汰に気づいて声をかけた。


「凍汰くん、ノアちゃん、おくってってくれる」


 改まった口調からいつものノリに戻って礼基が言った。


「あ、一人で、帰れますから。うち、ここの隣りですし、礼基さんだって知ってるじゃないですか」


 ノアは慌てて言った。


「だめだよ。顔色よくない、それに、ベチバーの香りが、きつい。悪酔いしたんだね、アロマダウジングで。たとえ隣りに住んでいても、一歩外に出たとたんに倒れるかもしれないだろ」

「過保護ですね、礼基さんは」


 ノアは苦笑した。


「これでも、夢惣先輩の一の助手だからね。一の弟子は、ノアちゃんに譲るけど」


 凍汰は、二人のやりとりが終わるのを待ってから、礼基に包みを差し出した。


「これ、なおしておきました」

「サンキュ、さすが早いね」


 手渡されたビロウドの包みは、何か繊細な器具を包んであるもののようだった。


「じゃ、おつかれさま」

「お先にしつれいします」


 結局、凍汰は挨拶をしてから、ノアを促して、アパートの入り口までおくってくれ、そのままくるりと背を向けて帰っていった。





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