第6話
「だいじょうぶ。私がついているから。礼基くんもね。それに、今回は練習。ノアは自分のアロマを記憶することだけに専心していればいいからね」
夢惣の声は癒しの波長でノアを包んでくれる。
ノアは深呼吸をすると、言われたとおり、自分の爪を浸したミネラルアロマエレキシルの香りを記憶する。
その香りが、じわじわと、目に見えぬほど細かなガラスの気泡の肌に吸い込まれていくのを、全身を集中させて感じる。
そうしているうちに、全身が香りと一体化する。
それがダウジングの始まりの状態、エクスターズスタート。
次に自分がよその次元に混ざる感覚が訪れて、なにもかもが一旦途切れる。
それがトランスチェンジ。
そして、そこから深層界へ潜っていくアントランセダイブに入る。
アントランセダイブがうまく行けば、肉体ごと薄れてあちら側へ到達する。
気配だけが残る。
その気配は香り。
その香りをたよりにこちら側にもどってくることになるから、こちら側にいるものはその香りを絶やさないようにしなければならない。
その時々で調合したオイルに、自分の一部を浸す。たいていは、自分の皮膚の一部であるところの爪を入れる。
すると、「ぶれ」が生じる。そのぶれこそ、本人にしかわからない自分自身のメルクマール、判別のしるしとなる。
「ノア」という人物を判別するための膨大な情報の集積。
それを識別するものが、このアロマダウジングでは、それぞれの持つアロマ因子なのだ。
香りは、刻々と変化していくものである。
それを留めておく、アロマダウジング用語では係留と言うのだが、それにももちろんかなりなエネルギーを必要とする。
「あ、忘れてた」
突然、夢惣が声をあげた。
「礼基くん、私の髪をほどいてくれないか」
そうなのだ。
アロマダウジングの時には、髪をほどいておかなければならないのだった。
髪に宿る力をスムーズに解放し、肉体が分解され転移できるように。
「承ります」
礼基は眉をぴくりとあげたが表情は崩さず、手慣れた仕草でするりと礼基の髪を束ねた紐をほどくと、くるくるっと細い指に巻き取って白衣のポケットにしまった。
「ありがとう。では、とりかかろう」
そう言ったところで、夢惣は、右手の手ごたえの無さに気づいた。
見ると、ノアの姿が薄れていくところだった。
これは、まずい。
「先輩、ノアちゃんが」
声をあげ、駆け寄る礼基に
「静かに、礼基くん」
夢惣はそう制すると、重ねた右手はそのままに、同じくクリサリスのリングをはめた左手でノアの左手を掴んだ。
やはり、手ごたえはない。その手の中で、ノアはどんどん薄れていく。
「ノア、忘れてはいけないよ。この香り、自分だけのアロマ。それさえ記憶していれば、もどってこれるから」
ノアは聞こえているのかいないのか、強い光を宿した瞳を虚空に向けている。
「仮想メソッドはいやっていうほど復習したから完璧だしね。ノア、安心して、行っておいで」
夢惣はそう言い終えると、ぐっと、左手を握り締めた。
と、ノアの姿は、ふっと散って消え去った。
「行ってしまった」
礼基は呆然と立ち尽くしている。
「行ってしまったね」
夢惣は慌てるでもなく呟いた。
「先輩、だいじょうぶなんでしょうね、ノアちゃんは」
しばし沈黙。
「たぶん」
「たぶん、って」
「ノアは、時空双子に呼ばれて、それに自分で気づいて、行くと心を決めていた。だから、どんな障害があっても、これが練習だったとしても、行くつもりだった。たとえ、一人ででもね」
夢惣の穏やかな語りには、動かしようのない事実、そして寂しさがあった。
「もしかして、わざと忘れてたんですか」
礼基はポケットから紐を取り出すと、夢惣の髪を手馴れた様子で束ね始めた。
「私が忘れっぽいのは、いつものこと。それよりも、礼基くんが気づいてくれるかな、と思ってたんだけどね」
「それは、俺の落ち度と言いたいのですか」
そうは言ってない、と夢惣は首をふり
「私たちにできるのは、ノアが手助けを求めてきた時に、迅速に適切に対応すること。それだけだ」
礼基は、ため息をつくと
「わかりました。では、先に俺がここで待機してますから、夢惣先輩は少し休んできてください。昨夜も寝てないんでしょう。花摘みの後の仕分けと蒸留と精油精製の作業で」
「お見通しだね。でも、ノアの初めてのスペシャルアロマダウジングだからね、私はここで待っていたいんだよ」
「だったら、俺もいますよ。うっかり居眠りされては、たいへんですからね」
夢惣は頭をかきながら、
「じゃあ、とりあえず仮眠をとらせてもらうよ」と床にごろりと横になった。
礼基は、「了解しました」と答えると、白衣のポケットから古代タムリ文字の本を取り出して読み始めた。
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