一日目

「……ふぅ」


 用意された茶菓子を楽しみながらのんびりと過ごす。

 果たしてここまで心が安らぐ時間があっただろうかと、この空間だけでなく目の前で微笑む八女さん……栞奈をジッと見つめてしまう。


(名前呼びまで許されるとは……)


 当たり前のように慣れはまだだけど、名前呼びまで許可してもらった。


『これから一緒に過ごすことになるんですし、親しみを込めて名前で呼び合いましょう! いつまでも名字呼びというのは距離を感じますし、やはり呼び方というのは大事だと思うんですよ』


 というやり取りを経て、俺は彼女の名前を……そして彼女は俺の名前を呼ぶことになったのだ。

 そしてもう一つ、変化があった。


「どうしたの?」

「あぁいや……えっと、ちょっとまだ慣れないなって」

「それはこの喋り方?」

「そう……だね」


 彼女の……栞奈さんの喋り方も変わった。

 というのも彼女が名前呼びを提案したお返しというか、俺もそれならいつも通りにしてくれないかなって頼んだんだ。

 聞けば歳も俺と同じで23とのことだし、普段友人たちとのやり取りでは敬語じゃないって聞いていたからな。


「……正直、ちょっと恐れ多いかなって思ってる。旭さんに敬語じゃないのは不敬というか……」

「いやいや、俺は別に偉い人でも何でもないからさ」

「旭さんは私にとって偉大な人だよ。私を助けてくれた人、支えてくれた人だからね」


 俺は、そんな大それた存在じゃないってのに……けど、栞奈さんがそんな風に言ってくれるほど俺の存在は彼女の中で大きいと……そういうことなんだろうか。


「それにしても……本当に癒されるというか、こうしてジッとしているだけで楽しいのは久しぶりかも」

「私から見ても旭さん凄くソワソワしてるけど……そんなに楽しいって思ってくれてるんだ?」

「正直、世の不条理から解放されたんじゃないかってくらいかもしれん」

「ふふっ、何それ」


 いやでも、本当にそれくらいに俺は開放感を味わっている。

 もちろん彼女とこれから過ごしていくということを考えれば、緊張感の方が圧倒的に勝るものの……それ以上の癒しと開放感が俺を包んでくれているのである。


「旭さん、今日の夕飯はお祝いで外に食べに行こう?。私も今日は配信をするつもりはないから」

「あ、はい」

「配信は明日から再開しようかなって……その、配信をしている間は旭さんとお話とか出来ないのが残念だけど、どうか見守ってくれればなって思ってる」

「いやいや! 俺だって時刻いろはの配信を待ってますから! てか、ほんとに俺ってばどうしたんだ……? あのざみさんとこうして話してるって……あぁいや、ざみさんじゃなくて栞奈さんだけど……あれ?」


 ヤバイ……俺の中で色々と事故を起こしてしまいそうだった。

 あたふたする俺を見て栞奈さんはクスッと微笑ましそうにしており、その優しい目で見つめられるだけで恥ずかしくなる。

 栞奈さんは立ち上がり、そっと俺の隣に腰を下ろした。


「慣れるまで時間は掛かるかもしれないけど、本当に私はこうしてあなたに恩を返せるということが嬉しいの……友川さんはそんなつもりはないって言うけれど、これが私の気持ちだから」

「栞奈さん……」

「それに……っ」


 栞奈さんは、突然に体を震わせて俯いた。

 俺から見ても明らかに尋常ではないその様子は、何かに恐れているようにも思え……かつて相談に乗り寄り添ったゴンザレスさんでもある彼女だからなのか、俺はそっと栞奈さんの肩に手を置いた。


「友川さん、少し胸を貸してほしいの」


 そう言って、栞奈さんは俺の胸元に飛び込んだ――やっぱり、栞奈さんはあの事件のことを思い出して怖かったんだ。


「頼れる人は沢山居る……悩みを聞いてくれる人も、親身になってくれる人も……でも、こうして心の内から全てを曝け出し、胸の中で泣けるのは友川さんだけ……原点の私を、あの頃からずっと私を支えてくれたあなたがどこまでも特別なの」

「栞奈……さん」


 その言葉の重みが、ズシッと肩に圧し掛かった気がした。

 俺が……俺だけが今、彼女を支えることが出来る……俺だけが……なんてそんな傲慢なことを考えるつもりはない。

 でも、こんな風に頼ってくれるのなら……俺は彼女を支えたいと思う。

 それが俺を受け入れてくれた彼女への恩返し……本来ならあり得ないような一緒に住むという提案をしてくれた彼女へのせめてもの……。


「友川さん」

「は、はい!」

「私はあなたを支えたい……だからどうか、私のことも支えてくれると嬉しい……守ってくれると嬉しい」


 ジッと見つめてくる栞奈さんに、俺は分かったと強く頷いた。

 それから栞奈さんはしばらく俺に抱き着いたまま……俺としては、女性に抱き着かれるというシチュエーションにドギマギしていたのはもちろんのこと、こんな幸せがあって良いのかと栞奈さんが見上げていないのを良いことに涙を人知れず流すのだった。


「それじゃあ行こう」

「うっす」


 のんびり午後を過ごした後、栞奈さんが提案してくれたように俺たちは夕飯を外で済ませるために外へ出た。


「というか……お祝いって何のお祝い?」

「私たちの新生活が始まることに対して?」

「……おぉ」


 そ、その言い方はちょっと色々誤解を招きそうな……。

 食事前に栞奈さんが変なことを口走ったせいで、その後の夕食で食べた物の味もしなかったほど……栞奈さんは俺がボーッとしていたことに気付いていたらしく、素直に白状したら彼女も実は同じだったと笑った。


「雑談でも良く話すけど料理は好きなの。だから作れる時は基本的に私が作るよ」

「あ、なら俺も手伝うよ。こう見えて、ずっと一人暮らしだったからさ」

「本当に? じゃあこれから一緒に作ろっか」


 しっかし……栞奈さんの手料理か。

 女性の手料理ってなると母さんか、昔にまだ生きていた祖母ちゃんくらいの記憶しかない。

 もはや天国に居るくらいの気分に浸りつつ歩いていると、おやっと目を見張る物があった――それはパソコン関係の機材を専門に扱っているお店で、シトリスとのコラボPCが発売されているということでメンバーたちの等身大パネルが置かれている。


「私も置かれてるね」

「……私も置かれてるっていうパワーワードだよ」


 流石に二十人規模のメンバーたちなので、全員分のパネルを置くことは不可能なのだが、その中で選ばれた五人のパネルの中にちゃんと時刻いろはが居る。


(……この人が今、隣に居るんだよなぁ)


 Vとしてのキャラクターと中の人は決して違う存在というのは分かっていても、このドキドキだけは抑えることが出来ない。


「普段こういうお店には来るの?」

「来てもちょっと眺めるだけかな……こういうしっかりしたお店だと値段も結構するからさ」

「それは確かに……共有のカードとか作ろうかな」

「栞奈さん?」

「何でもないよ。ねえ写真、撮ってあげようか?」

「ほんと?」


 それならせっかくだし撮ってもらおうかな。


「もちろんざみさんの隣で!」

「了解♪」


 言ってしまえば、他の四人も可愛いイラストだけど……ここはやはり推しの隣が一番だよなぁ。


『パソコンで広がる夢を』

『ゲームをする楽しさを』

『あなたも一緒に』

『私たちと感じてみよう』

『さあ、思い切って踏み出してみて』


 CMのように流れてくる声の中には、当然彼女の声も入っている。

 コラボしているということで普通にパソコン機材を求める人も居れば、俺みたいにパネルと写真を撮ろうとするお客さんも少なからず居てとにかく賑やかだ。


「サナちゃんと撮りた~い!」

「俺は……やっぱここは推しの桃だな!」


 とまあこんな風に大盛況だ。

 スマホを構える栞奈さんの前で、俺は時刻いろはのパネルと並び……そこでドキッとする一幕があった。


「は~い、撮るよ~」


 そう言ったのは栞奈さんだ。

 でも、彼女のそれは配信で聞く声そのものだったように思える……ドキッとした俺だったが、浮かべていた笑みは消えることなくしっかりと写真に収められた。


「俺……こんな風に笑えたのか」

「私が隣に居たから?」

「え? ……うん、かもね」


 隣というのは時刻いろはだけど……でも彼女もまた彼女だ。

 頷いた俺に満面の笑みを浮かべた栞奈さんは、偶然傍に居た店員さんにスマホを渡す。


「すみません、私たち二人を撮ってくれますか?」

「良いですよ~」


 俺の左が時刻いろはのパネル、そして右に栞奈さんが立った。


「この世でたった一枚、私たち二人に挟まれるプレゼントね♪」


 この時の俺は、本当に顔が真っ赤だっただろう。

 後になって写真を見返すと本当にその通りで……その写真は俺のスマホにも送られるのだった。

 速攻でスマホの待ち受けにした後、風呂を済ませた。


「……ふぅ」


 風呂……もちろん栞奈さんと共同だ。

 俺の後が良いと頑なに譲らなかったのはよく分からないが、こういう高級マンションだと風呂も凄く大きかった……いやぁ、一日の疲れが吹き飛ぶほどだぞ。


「戻ったよ」

「あ、はい……」


 風呂上がりの栞奈さんは色っぽさの塊だ。

 そのことにドギマギしながらも、これからのことを色々と話し合って時間も十時頃になり……彼女から衝撃の言葉が飛び出す。


「お互い疲れたし、今日はもう寝る?」

「そうだなぁ……ふわぁ」

「それじゃあ寝室に行こっか」

「……?」


 寝室に行きましょう……あ、そう言えば用意された部屋にはベッドのようなものはなかったな……??


「……え?」

「一緒に寝よう」


 ニコッと微笑んだ栞奈さんに、俺は冷静にツッコミを入れた。

 あなたは何を言ってるんだと。

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