栞奈の知り合い

 朝の目覚めは最高だった。


「すぅ……すぅ……」

「……ふぅ」


 最高というのは、目の前で眠っている栞奈さんを見たからではない。

 単純にあまりにも質感の良いベッドの上だったからなのか、人生で初めてと言っていいほどに目覚めが良かったから……もちろん栞奈さんが傍に居るというのも大きいんだろうけど。


「……トイレ行こうっと」


 栞奈さんを起こさないように、ベッドから出てトイレへ向かう。

 俺が以前に居た部屋のトイレは……掃除はしてたけど当然のようにここまで綺麗ではなかった。

 しっかりと掃除が行き届いているトイレほど、気持ち良く用を足せる瞬間はないだろう。


「ふへぇ~」


 思わず気の抜けた声が出てしまったが、トイレを済ませて俺は……ってこの場合はどうするのが正解なんだ?


「……う~ん」


 既に目は覚めてしまい、寝る必要もない。

 それならあの寝室に戻って再び栞奈さんの隣に寝るのも……なんて、そんな風に考えているとバタバタと足音が響き渡る。


「何だ……?」


 その響く足音はドンドン近付き姿を見せた。

 もちろん俺以外の住人は栞奈さんしか居ないので、それは彼女以外にあり得ない。


「っ!?」


 だが、彼女の表情を見て俺は肩を震わせた。

 漆黒に染まったかのようなその瞳があまりにも恐ろしく、そして俺を見つけた際にニィッと笑った笑みが怖かったからだ。


「あぁもう……居なくなったと思ったじゃん」

「か、栞奈さん?」


 これは……本当に栞奈さんなんだろうか。

 ユラユラと体を揺らす幽鬼のように、彼女は俺の元へとやってきた。


「お手洗いだったの?」

「あ、はい……」

「そうだったんだ……ま、そうだよね。だって旭さんが勝手に居なくなるわけないもんね」

「栞奈……さん」

「なあに?」


 傍で微笑む彼女は、相変わらず瞳の光がない。

 それでも傍に居てくれることの温もりと安心感は確かなので、暗い瞳より整った顔立ちに目が行ってしまう。


「……おはよう栞奈さん」


 でも、やっぱり朝の挨拶は大切だろう。

 挨拶をした瞬間、ポカンとした表情になった栞奈さんから恐ろしい雰囲気は消え去った。

 次いであわあわと慌てたかと思えば、すぐに挨拶を返してくれた。


「お、おはよう旭さん!」


 さて……色々とあったけど、こうして一日が始まるのだった。

 着替えを終えた後、栞奈さんと一緒に朝食を作った……栞奈さんは何でもかんでも全部一人でやろうとするし、ここはやはり俺もされるがままというのは我慢出来なかった。


(そういや……配信に集中しすぎて食事をすっぽかすことも彼女は多かったし、間食みたいな感じで軽い料理を振舞うのもありだな)


 これについては後々相談してみよう。

 そして……朝食が終わればお待ちかねの、栞奈さんの仕事場とも言える配信部屋に案内してもらった。


「……わ~お」

「ふふっ、こうして興味津々に見られるのは新鮮かも」


 俺自身、Vtuberどころか配信者の友人は居なかったのでこういう場所を見れるのは新鮮だ。

 もちろん色んな配信者が実況部屋を見せる動画を撮っていたけど、自分の目で見れるのとではやっぱ違う物がある。


「……凄いなぁ」


 配信者と言えばダブルモニター!

 後は周辺機器も沢山あって上手く隠せているが、足元にはコードが沢山川のように伸びている。

 パソコンやその周辺機器は決して安いものではなく、埃や僅かな汚れも致命傷になりやすい……だからこそ、無駄な物が一切置かれていないのもこの部屋が思った以上に綺麗に見える点だろうか。


「心臓とも言えるパソコンだけじゃなくて、ここまで配信に必要な物を揃えるだけでとてつもない額になりそうだなぁ……」

「そうだねぇ、最初はともかく今となっては高い物とか揃えられているけれど……二年前は本当に考えられなかったよ」


 二年前……駆け出しの時であり、ゴンザレスさんとの始まりかぁ。


「しっかし……こうして高い機材を目の当たりにすると、絶対に壊しちゃいけないって怖くなるよ」

「私も最初はそうだったけど、今はもう慣れてきたかな。決して壊さないようにメンテナンスは欠かしてないけど、いつ壊れても頑張ったねって言えるくらいには背中を預け合う戦友だから」

「……かっけぇ」


 確かになぁ……ここに置かれている無数の機材たちは、全部が全部栞奈さんの活動を支える戦友たち。

 いや~すげえ……すげえとしか言えねえよ。


「あ~……コホン」

「?」


 突然、栞奈さんが椅子に座った。

 そして――。


「はい~こんばんば~、時刻いろはですこんばんは~」

「っ!?」


 それは正に、いつも配信上から聞こえてくる彼女の声だった。

 俺を見てニヤリと笑う彼女だけど、俺からすればこんな至近距離で挨拶の口上を聞けたことに感動する他なく……気を抜けば涙が出てしまいそうなくらいだ。


「旭さん」

「うん?」

「ゴンザレスとしてあなたに出会った私は、ここまで大きくなったよ」

「……うん」


 あぁ……どうやら彼女は俺の泣かすのが得意らしい。

 それからしばらく、微笑ましく見つめてくる彼女を他所にしっかりと配信部屋という聖域を目に焼き付けた。

 リビングに戻り、荷物の一つとして持ってきたノートパソコンを机に広げたけれど、あんな高性能な物に比べたら全然安物だ。


「……そんな必要はないのに」

「いやいや、こればっかりは……」


 俺が調べているのは仕事だ。

 流石にニートを貫くわけにもいかないので、俺なりに頑張れる仕事を早く見つけなくては……ただ、さっきから非常に栞奈さんは不満顔である。


「……やっぱり必要ないよ」

「あ……」


 バタンと、彼女は強引に俺の手を離した。


「あなたはまだ、完全に心の疲れが取れていない……そんな状態で仕事を初めても長続きなんてしないよ」

「でも……働かないとさ」

「気持ちは分かるよ? でもまだダメ……お願いだよ旭さん、もう少し心を休めよう?」

「……………」


 俺は……これ以上甘えても良いんだろうか。

 そんな風に考えていたらスッと栞奈さんの手が頬に添えられ、そのまま膝枕をするようにゆっくりと下ろされた。


「……まあ、私も心を休める期間なのは一緒だよ。だから旭さんも、ゆっくりと確実に調子を取り戻せば良いの。私が見て大丈夫って判断出来るまではダメだからね?」

「……………」


 これは……もしや栞奈さんはダメ男製造機では?

 それからいくら頭を上げようとしても抑えられ、この膝枕から脱出することが出来ずに時間だけが過ぎていく。

 しばらくそうした後、やっと体を起こせた後に栞奈さんが口を開く。


「あ、そうだった――実は今日、お客さんが来るの」

「お客さん?」

「そう、昼過ぎくらいに来ると思う」


 お客さん……えっと、それって栞奈さんの知り合いってことだよな?

 俺の中でまさか……なんて考えが渦巻くが、結局誰が来るかはお楽しみということで教えてもらえなかった。

 そして昼食を済ませた後に、そのお客さんはやってきた。


「……どうも」

「……………」


 楽しそうに笑う栞奈さんと、これぞギャルと言った女性が目を丸くして俺を見つめている。

 これは……俺はどうすれば良いんだろう。

 俺も女性も何も言葉を発さず、ただジッと見つめ合っているだけ。


「お……」

「?」

「男おおおおおおおおおおおっ!?!?」


 それは正に、近所迷惑と言わんばかりの大声量だった。

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