ここが彼女の家

「……ついにこの日が来てしまったか」


 今日はいよいよ、八女さんの元へお邪魔する日である。

 入院を終えてからアパートを出ていく手続きだったりと、その諸々を終わらせて今に至るのだが……今日のことに緊張しすぎて、昨晩は全く寝付けず寝不足だ。

 鏡を見れば酷い隈が目の下にあるほど……こんな顔を八女さんに見られたら無用な心配を掛けてしまいそうだ。


「……持っていく物が少ないのは助かるかな」


 ほとんどの娯楽がノートパソコンで完結していたのもあって、この部屋から持っていこうと考えている物は本当に少ない。

 こう考えると、俺のこの数年間は本当に味気ないものだったようだ。

 そしてそれを考えれば考えるほど、ゴンザレスさんと知り合ってなかったら俺はどうなっていたか……想像するのも少し怖くなる。


『友川さんのために一室用意していますし、家具なんかもある程度は揃っていますから。なので足りない物があったらその都度揃えれば良いと思いますよ』

『そんな至れり尽くせりで良いんですか? というか八女さん引っ越したばかりなんじゃ……』

『元々用意していた部屋の物をそのまま移動しただけです。ふふっ、ずっと前から用意していて良かったですよ♪』

『はぁ……』


 八女さんとどこか会話が噛み合わないような気もしたが……とにもかくにも、俺の部屋まで用意してくれたという話を聞いた時、困惑よりもあまりに嬉しいというか感動したというか……自分でも良く分からない感覚だったわけだ。


「今までありがとう……世話になった」


 ずっと使っていた部屋に別れを告げ、俺は外に出るのだった。

 外に出れば出迎えてくれる太陽の光……これに関してはいつも会社に行くのと何も変わらない光景のはずなのに、背中から翼が生えてどこにでも飛んでいけそうな感覚があった。


「解放感……なのかな」


 柵から解放されたような感覚に、俺は頬が緩むのを止められない。


「……大家さんはともかく、隣の人との関係も最悪だったからなぁ」


 チラッと隣を見れば、玄関の前に大量のごみ袋が置かれている。

 まあ世の中色んな人が居るというか……俺の隣に住んでいる男は、家賃の滞納もそうだしゴミ捨ても全然しない迷惑野郎である。

 大家さんも困っていたし一度注意したことがあるんだが、それがきっかけで俺は大層嫌われてしまい、顔を合わせることがあったら舌打ちは当たり前だし中指を立てられることも。


「ま、どうでも良かったから何も感じなかったけど」


 そんな風にジッと見ていたせいか、扉が開いた。

 明らかに寝起きだと分かるくらいに頭はボサボサで、タバコを咥えたままゴミ袋を手にしていた……そしていつものように玄関先に置くのだが、そこで俺と目が合った。


「……けっ!」

「……………」


 いつものように中指を立てられたが、どうやら俺がここから出ていくことを察したようで近付いてくる。


「おうおう、出ていくのかよお節介ゴミ野郎が」


 開口一番にそう言われたが、ほんの少しムカつくだけだった。

 俺は彼に何も返事をすることなく背を向け、そのまま階段を下りていくのだが、地面に動く影があったので反射的に体を動かす――その場所にビールの空き缶が落ちてきた。

 まさかと思い視線を男が居るであろう場所に向けると、ニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべた彼が居た。


「……ったく」


 空き缶を拾い、ちゃんとした場所に捨てた。


「友川さん」

「……え?」


 けれどその時だった――どうしてと言わんばかりに、彼女の……八女さんの声が聞こえたのは。


「あれ……どうして?」

「来ちゃいました♪」


 そこに居たのは八女さんだ。

 元々待ち合わせをしていた場所があったので、合流するのはそこだと思っていたばかりに俺は驚く。

 来ちゃいましたって……えぇ?


「早く案内したくて……それで待ちきれずに来ちゃいました」

「そ、そうなんですね……」

「……………」


 八女さんは、俺の背後に視線を向けた。

 俺も釣られて視線を向けると、そこには口をあんぐりと開けて呆然とする男の姿……どうやら俺が女性と一緒に居ることが珍しいようだ。

 八女さんはクスッと微笑み、俺の手を握りしめた。


「それじゃあ行きましょう友川さん。あなたの新しい家に……あなたにとって心を休められる新しい居場所に」

「……うん」


 そうして、俺は八女さんと共に歩き出した。


「それにしても……その隈は?」

「えっと~……お恥ずかしいことに、今日のことがドキドキしすぎて寝付けませんでした」

「あ……ということはそれだけ楽しみにしていたと?」

「……………」


 楽しみに……ここで頷くのも違う気がするので無理だ!

 だが八女さんは全てを分かっているかのように、優しく俺を見つめたまま微笑み、手を握る力を更に強くする。


「嬉しいです友川さん♪」

「……っ」


 ダメだ……彼女の笑顔が眩しくて直視出来ない。

 それからずっと俺たちの繋がれた手が離れることはなく、会話もそこそこに向かった先は見るからに高そうなマンションだった。

 八女さん曰くセキュリティがかなりしっかりしているとのことで、以前よりは安心出来るのだとか。


(ここに……シトリスの他のメンバーも住んでるんだっけ)


 八女さんはそう言っていたけど、俺はそれ以上の詳しいことは聞いてないし聞こうとも思わなかった。

 もしかしたらいずれ八女さんが教えてくれるかもしれないが、とにかく本当に俺は全然知りたいとは思っていない。


「芸能人でも住んでそうな所ですね」

「噂では居るみたいですよ?」

「あ、居るんだ……」


 やっぱり居るんだ……。

 果たしてどんなビッグネームなのか……はたまた駆け出しの人だったりかは分からないけど、それに関しても特に興味はない。


「ここです」

「……………」


 そしてようやく、八女さんが住む部屋に……恐れ多いことに、今日からお世話になる場所にやってきた。

 鍵を開けて中に入る八女さんに続き、俺もまた中へ。

 ガチャッと音を立てて扉が閉まってすぐに、八女さんは振り向いた。


「おかえりなさい、友川さん」


 おかえりなさいのその言葉は、果たして何年振りに聞いただろう。


「……ただいまって、言っても良いですか?」

「はい♪」

「……ただいま、八女さん」


 ……あぁ、ただいまって口にするこの感覚も久しぶりだ。

 会社とかでトイレから戻った際におかえりとか、ただいまとかそういう小さいやり取りはあるだろうけど、少なくともあの会社ではそういうのも何一つなかったからな。


「八女さん……?」


 ふと、八女さんが俺の目元に指を当てた……どうやら俺は、静かに涙を流していたらしい。

 そうしてまた、いつかのように彼女が俺の頭を抱く。

 忘れかけていた……否、絶対に忘れることがないであろう弾力へと俺を導いた。


「これからは、私があなたにおかえりって言います。だから友川さんもただいまって言ってほしいです。もちろんその逆も」

「はい……はい……っ!」


 クッソ……泣いてばかりで情けな――。


「泣いてばかりで情けないとか思わないでくださいね? そうやって涙を流してしまうほどに疲れていたということです――そして何より、私はあなたがそんな風に弱い部分を見せてくれることが嬉しいです。それだけ信頼をいただけているということですから」

「信頼……もうしまくっちゃってますよ俺は」

「ふふっ、これも全部二年の積み重ねですね♪」


 たとえ顔を合わせていなくても、二年間も続いたやり取りは決して無駄ではなかったと……そういうことなのか。

 その後、涙を無理やりに引っ込めてようやく案内をしてもらう。


「ここがリビングになります」

「……おぉ」


 リビング……めっちゃ広い!

 俺が今まで居た場所と比べてしまうのも仕方ないけど、比にならないくらいに広くて感動する。


「あ、ポスターだ」


 壁には、シトリスメンバーのポスターが張られていた。

 もちろんポスターだけでなくタペストリーも掛けられており、アクリルスタンドなども沢山飾ってあって……何というか、八女さんが他のメンバーのことを愛しているのがこれでもかと伝わってくる。


「苦楽を共にした戦友たちですからね」

「なるほど……はぁ~」

「お風呂はあちらでトイレはあそこで……それよりも友川さんのお部屋に案内しますね」


 そうして、俺が使う部屋へと連れて行かれた。


「……わぁ」


 広い……というのはともかくとして、彼女が言っていたように家具が一通り揃っているだけでなく、時刻いろはのタペストリー……しかも数量限定の希少品まであった。


「こ、これは……っ!」

「友川さんが私のファンということで、お引越し祝いみたいなものです。自分の家であることに変わりはないので飾る時は不思議な感じでしたけど喜んでくれましたか?」

「喜ぶに決まってます! だってこれ、キャンペーンで応募したけど外れたやつですから!」


 ってあれ、あっちにあるのは更に希少な……っ!?


「た、宝の宝庫や……」


 俺は夢を見ているのだろうか……ギュッと頬を抓ったら痛かった。


「友川さん」

「はい?」

「少し提案があるんですけど良いですか?」

「提案ですか? はい、何なりと!」


 口元に指を当て、悪戯っぽく八女さんはこう言った。


「せっかく一緒に住むのですから名前で呼び合いませんか?」

「名前……ですか?」

「はい。私のことは栞奈と、そして友川さんのことを旭さんとお呼びしたいんです」


 名前で呼び合う……もちろん、八女さんが良いのならと俺は頷いた。

 その時の八女さんが浮かべた笑顔はあまりにも綺麗で、それこそ魂が抜けるんじゃないかとさえ思うほどだった。

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