その提案に俺は……

「ごめん八女さん……今、なんて?」

「一緒に住みましょうと言いました」


 ニコッと微笑みながら八女さんはそう言った。

 ……えっと、ちょっと待ってほしい……だってそれってつまり同棲しようってことでしょ? いやいや、聞き間違いじゃなかったのはともかく頷けるわけがないし……そもそもなんでそんなことを言いだしたんだ?


「私としても引っ越しということで心機一転の意味合いもありますし、何より私を助けてくれた……支えてくれたあなたに少しでもお返しがしたいと思ったんです」

「それにしては……」

「嫌……ですか?」


 いや……いやいや!

 嫌とかそういう話じゃなくて……って、なんでそんな悲しそうな顔をするんだこの人は!


「確かに俺はあなたを助けた! 支えた……に関してはちょっとどうかなって思いますけど、だからってそんな……同棲って……」


 助けたのは今回のこと、そして支えたというのはゴンザレスである彼女とのやり取りだろうか……でも仮にそうだとしても、彼女がそこに大きな恩を感じていたとしても、俺はその恩を返せだなんて言わないぞ。

 ……よし、ここは少しキモイことを言って引いてもらおう!


「ま、まあ確かに有名なVtuberの中の人と同棲ってそりゃ凄く光栄なことですけど! でも流石にねぇ? それはないんじゃ――」


 おどけるような俺の姿に、八女さんは一切表情を変えなかった。

 どこまでも真剣に、どこまでも俺を見てくれている……その瞳に映り込む俺は、今にも泣きそうだった……なんで……なんで俺はそんな表情をしているんだ?


(……あぁそうか――家族以外で久しぶりだったからだ。こんなにも真剣にこちらのことを考えてもらえていることが)


 両親としばらく会っていないのもあるが、あの会社に勤めてから誰かと遊ぶようなこともなく……ただ黙々と仕事をしていた。

 誰かに心配をされることも、そんな想いが込められた眼差しを向けられることも……何もなかったんだ――それでも癒しはあって、それがゴンザレスさんとのやり取りと時刻いろはの配信だった。


(いやダメだ……冷静になれ旭! こんなの悩む必要なんてないだろ。たとえ彼女が心配してくれたことが嬉しくても、その優しさに縋るような価値が俺にあるわけ――)


 卑屈だ……あまりにも卑屈だ。

 でもそれが俺という人間……だからこそ俺は、そんな提案に乗って良いはずがない。

 それにきっと八女さんもちょっとおかしくなっているだけだ。

 ずっと相談していた相手に会えて高揚しているだけなんだ……って俺がその相手なのに高揚とか言うと自意識過剰だけど、とにかくきっとそうに違いない!


「だから……俺は――」

「友川さん」

「っ!?」


 頬にふわっとした弾力が押し寄せた。

 気付けば俺は、彼女に抱きしめられていた……俺なんかよりも細い腕が頭の後ろに回され、服の上からではそこまで分からなかった大きな胸の感触が俺を包み込む。


「友川さんはたぶん、誰かに甘えるということを忘れてしまったんじゃないですか?」

「それは……」

「私たちはリアルについてあまり話をしていませんでしたけど、友川さんがしんどい環境に居たことは話から分かってました」

「……………」

「その仕事から解放されたのであれば、今こそやっと誰かに甘えても良いんじゃないですか?」


 マズイ……本能で俺はそう思った。

 彼女の言葉はただ鼓膜を震わすだけではなく、内側の心にまでその優しさが浸食してくるかのようだった。


「私にとってあなたが大きな存在であるのは確かです。だって約二年間もやり取りをしたんですよ? だったらどうにか力になりたいって、そんな姿を見せられたら手を差し伸べたいって思うじゃないですか」

「……八女さん」

「友川さんは思いませんか? 私だからこそ……二年という年月を掛けて交流を交わした私に一瞬でも良い……甘えられるなら甘えたいって思いませんか?」

「……………」


 甘えたいか甘えたくないか……女性に甘えるという意味であればそれはそうしたいと頷きたくもなる。

 けれどやはり、事はそう単純じゃないからこそ頷くわけにいかない。


『黙々と仕事をやってくれるから都合の良い駒だよお前は』

『お前みたいに上司に嫌われると大変だなぁ! ちったあ俺を見習えや』

『あなたと仲良くしてるとこっちまで変に見られそうなので……』

『部長やあの人に嫌われたらお終いなんです……だからごめんなさい』


 強く自分を持てば持とうとするほど、呪いのように数多くの嫌な言葉が脳裏に蘇る。

 これがブラックな会社かと、諦めはあったがどうでも良かった。

 これがもしも永遠に一人だとしたらどうか分からなかったけど、俺には心を癒してくれる存在が居たから……たとえ顔は知らなくても、ゴンザレスさんとの身近なやり取りが俺を救ってくれていた。


「ずっとじゃなくても良いです……少しでも良いんです。私があなたに支えてもらったお返しとして、私に甘えてください――私は、あなたを絶対に裏切ったりしません。あなたが心休める場所になりたい……だからどうか“私に身を委ねてください”」

「……………」

「“甘えてください、どうか私を頼ってください”」


 耳元で囁かれる言葉に抗いようのない魅力を感じる。

 ずっと知らなかったゴンザレスさんの声、ずっと聴いていた時刻いろはの声、そして今……目の前で俺を見てくれる八女栞奈さんの声。


「俺は……弱い人間なんですよ」

「誰にだって弱い一面はあります」

「俺は……あなたが思うような立派な人間じゃないんですよ」

「あなたがなんと言おうと、私はあなたを立派だと……いいえ、人をどこまでも思いやれる素晴らしい人だと思っています」


 ほんと……なんでそんなに評価が高いんだっての。

 思わず苦笑してしまうほどの評価に、八女さんから見た俺はどんな人間なのか心底聞きたくなる。


「それでもやっぱり俺は――」


 断ろう……そう思ったのに。


「その……一つだけこの提案をした理由の我儘なんですけど」

「え?」

「少し……怖いんです。またあんなことになったらと思うと怖くて、だから誰かに傍に居てほしい。その頼りたい存在が友川さんなんです……安心させてください」

「むがっ!?」


 更に強く、胸元に抱きしめられた。

 この時の俺は……もう随分と疲れもあっただろうし、何より絶対にお目に掛かれないような境遇に置かれたことで……そこまで言われたらそれで良いじゃないかと思ってしまったんだ。


「……良いんですか?」


 自分でも驚くくらいに、縋る声だった。


「もちろんですよ。では、退院したら一緒に住みましょうね」


 そう言った八女さんは、本当に綺麗な笑顔を浮かべていた。



 ▼▽



「……………」


 八女さんが来てくれた日の夜、俺は少しばかりボーッとしていた。


「……頷いてしまった」


 八女さんの提案に頷き、彼女からしっかりと退院したら一緒に住みましょうと言われてしまった……思い出すと心臓が高鳴り、一瞬にして顔が熱くなってしまう。


「これで良かったのかな……俺は」


 良いわけがない……分かってるけど、縋りたかった。

 今は冷静になっているのでその縋りたい気持ちが残っているかと言われたら違うけど、それでも今更断るというのも……なんでか俺には、そうしてしまったら八女さんが悲しんでしまうことが分かるから。

 そして何より……怖いから守ってほしいと言った彼女との約束を破ることにも繋がってしまう。


「あ……」


 その時、一つのメッセージが届く。

 相手は八女さんで、完全にプライベートのアカウントを教えてもらいやり取りを出来るようになった。

 ゴンザレスというアカウントと、それを使っていたサーバーはもう使うことはない……俺たちはもう出会ったから。


『友川さん、寂しがっていませんか? 私はあなたが来てくれることが楽しみで今からワクワクしっぱなしです! もし寂しいのなら、声と声でやり取りがしたいなら電話でもどうですか?』


 もうダメだ……全てのメッセージに優しさを感じてしまう。

 どんな返事が良いだろうかと考え込む最中、視界に入り込んだのは窓ガラスに映る自分自身の姿。

 そこに映る俺は、楽しそうに微笑んでいた。

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