第37話 字

 翌日、土曜日。うだるような暑さに俺は苛立ちを覚えていた。

 あっちぃあっちぃと何度も呟きながら、垂れる汗を乱暴に手の甲で拭う。グラウンドからは休日だというのに部活動に励む生徒の声が頻繁に上がっている。


 そう、俺は現在校舎にいた。場所は集会で利用する会議室。

 眼前には書類の束。太字で「体育祭実行委員アンケート」と明記されている。

 俺は、PCにデータをロボットのように繰り返し打ち込んでいた。


 体育祭から解放されたと思ったのも束の間。残務が幾つか残っていた。わざわざ休日に登校してまでやることかと文句を言いたくもなったが、何だかんだと業務に勤しんでいる辺り、俺は社畜の適性があるのかもしれないと胸中でぼやいた。


「……あー、目いてぇ」


 慣れないPC作業。文字入力や、テンキーを扱うのも些か飽きてきた。

 現在向き合っているのは、生徒会役員と体育祭実行委員にだけ事前に配られていたアンケート用紙である。感想や改善点を文章や数値化して提出していた。

 体育祭後、記入して集めていた物を本日まとめているという訳だ。


 俺はブルーライトにやられてショボショボする目を休めるべく、目頭を揉んだ。書類とPCを見比べるのは単純作業と言えど、徐々に疲労は溜まってしまう。

 ましてや時折読めない字が出てきて解読するのにも時間が掛かる。

 難読漢字というより、申し訳ないが汚いという意味で。


 俺は身体を伸ばしながら会議室をぐるりと見渡した。

 その中で、俺はエアコンに睨みを利かす。節電とやらで、稼働していない。もはや夏といっても過言ではないのにも関わらず、だ。これはおかしい。熱中症で倒れたら誰が責任を取ってくれるのか。俺は意を決して、皆に聞こえるよう声を発した。


「あの~、やっぱりエアコンはつけた方が」

「……節電もだけど実は故障しているみたいで。近日中に業者が入る予定」

「あ、そうっすか。……なるほど、なんか、すんません」


 俺の問いに答えたのは比較的面識のある楠木姉であった。

 楠木姉はハンカチで首筋を撫でながら、やや申し訳なさそうにしていた。

 節電と聞いていたが、まさか故障しているとは。それは動かない。


 何台か引っ張り出した扇風機も、雀の涙。

 

 会議室にいる者は、軒並み怠そうに作業を続けている。時折談笑は上がれど、この暑さに負けてしまい、すぐ沈黙となる。俺の手汗で紙がややふやけていた。

 不幸中の幸いと呼べるのは、人口密度が低いことである。


 本日作業に勤しんでいる者は、教師や生徒会役員から個別に声が掛かった者だけだった。言い換えるなら「働いてくれるよね♪」といった悪魔の囁きに掴まった可哀想な奴と呼べるかもしれない。社畜適正◎、これは面接に有利に働きそうだ。


「そうだ、碓井君。次はこっちの書類をお願いね」

「……わかりました。ちゃちゃっと入力終わらせておきます」


 俺にお呼び出しが掛かったのは、今朝のことだった。相手は禿げ教師。

 要約すると思ったより人員が足りないので、暇なら出席しろという内容。俺が業務に真摯に取り組む姿を評価して、とのこと。建前って便利だなぁって思った。

 打ち上げに参加したら登校をお願いされた者をいるらしい。鬼である。

 そうして俺は嫌々ながら無心でPCと睨めっこをしているのだ。


 昨日体調不良を拗らせた月菜ちゃんは、今朝もしんどそうだった。交換した冷えピタ。ふらふらとした足取り。真っ赤な頬。声も掠れており、疲労困憊。

 唯一聞かれた質問には、おもいっきし嘘をでっち上げた。


『昨日、私の部屋に入った?』


 あの時の俺はどんな間抜けで珍妙な顔をしていただろうか。

 大根役者も逃げ出す演技でひたすらに乗り切った……はず、たぶん。

 にやけていた陽華さんの顏が脳裏に貼りついている。

 

 その意地悪な振る舞いが腹立たしくもあったが、上手く執り成してくれたことにだけは感謝していた。いやまぁ、元を正せば陽華さんが原因ではあるのだが。


「もう少ししたら休憩にしましょう」


 生徒会長、姫乃百合が放った鶴の一声。途端空気が弛緩した。

 さしもの姫乃会長であっても暑さは鬱陶しいようだが、涼し気な顔を崩さないのは流石だった。PCもそろそろ熱暴走を起こしそうだったので助かる。

 休憩後はエアコンの効いた部屋でお願いします……。


 俺はペットボトルの蓋を開け、お茶をぐいっと呷った。

 自販機で購入したお茶は既にぬるい、どころか熱を帯び始めている。

 フィルムに付着した水滴が伝った。もうこれで二本目である。


「――これ、俺のか」


 氏名欄には俺の名前。情けないが、お世辞にも綺麗な字とは言えない。

 読めなくはないが、読ませたくはない程度の字。ありふれた、凡庸な感想がつらつらと書かれている。その感想を程よい文量に変更してPCに打ち込んでいく。

 

 類似した意見であれば、意見数2などとし、まとめる。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、徐々に目減りする書類の束。

 俺はしぱしぱする目を適宜休めながら作業を進める。時折全開にされた窓から入り込む若葉風だけが救いであった。空には堂々とした入道雲が威厳を放つ。


 はた、と俺は気付きタイピングを止めた。


「この字……?」


 どこかで見たことがある。確かに俺は見たことがある。

 氏名欄に視線を落とし俺は顎を摩った。俺はどこで見たのだろうか。

 もしかしたら体育祭の準備中に何かしらのタイミングで見ただけかもしれない。だが、何となくシコリが残る。俺は腕を組み、記憶をひたすらに振り返った。


「……………………あ」


 そうだ。この字は。


 俺は小さくぽつりと呟いた。思い出したことですっきりした。

 確かめないと断言はできないが、俺は残り少なかったピースが埋まる感覚を得た。ヒントは得ていた。特定も進めていた。あとひとつ大きな証拠が欲しかった。


 実際、俺の手札は少ない。しらを切ろうと思えば可能だろう。

 なら――言い逃れが出来ない環境を作り上げればよい。


 併せて芽生えたのは疑念。聞かねばならない。

 彼女が何を考え、何を想い、どうしてこんなことをしたのか。

 聞く必要がある。俺には聞く責任がある。


 俺をストーカーしているのは恐らく――。




 与えられた昼休憩。俺はゾンビのように炎天下の中ふらついていた。

 冗談ではあるが、気持ちはまさしく屍。涼しい場所を求めて彷徨う悪鬼だ。

 そうして、気付けばグラウンド前の日陰に辿り着いていた。


 爽やかな薫風が心地よく、それでいて校舎の日陰に守られている。やや運動部の掛け声が耳障りだが、お釣りが返って来そうなほど良いロケーションだった。

 俺はどかっと腰かけ、登校前にコンビニで購入した総菜パンを貪る。

 校舎の壁を背に、座るは数段程度の石階段。


 もそもそと口内の水分が急激に奪われる。なにゆえこんな暑い日にパンを選んでしまったのか。考えなしに行動した自分を恨んだ。無理やりお茶で呑み込む。


「……夏だな」


 快晴。入道雲。夏はもう目前で、季節は移ろいつつある。

 時間の流れは絶えず、ただ進む。人の悩みなんぞ意にも介さず進む。

 独り言が多い俺は時折ひとりでぼんやりと考え込む癖があった。付け加えると、誰にも邪魔されたくない時間が存在する。男ならそこそこ共感してくれると思う。


 ストーカー事件に巻き込まれてから、はや一か月と半月以上。

 五月の初旬ごろだったと思うから、やはりそのくらいの時間は経ている。

 求めていた平穏はとっくに崩れ、俺の日常はとっくに死んでいた。


 時間はあっという間で、止まる気配もない。

 ストーカーを捕まえたとして、平和が戻るのだろうか。

 そう単純な問題ではないであろう。人の心は複雑だ。


 月菜ちゃんのこと。緒川のこと。日向のこと。他ハーレム集団のこと。

 緒川の目論見がどうであれ日向に告白したように、少しずつ元の形から変化する。終いには逸脱する。元には戻れないほど拗れきって、次第には慣れて終わる。


 この夏は、何かが変わる。そんな予感がした。

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