第36話 推理ノート
「おんぶされてる月菜を見た時、ついに! と思ったけど違うのね~」
「……やぁ、まあ。月菜ちゃんとはそういう関係ではないですし」
「そうなの? 残念。進展したら教えて頂戴! 絶対よ!」
陽華さんは、台所越しに浮かれた様子で揚々としている。
火のついたコンロ。かき混ぜられる鍋。香るは優しいカレーだった。
しかし、生憎俺と陽華さんのサシという状況だからか、ほのかに会話に迷う。日向は一向に帰って来る気配がなく、月菜ちゃんは部屋で静かに休息中である。
「ただ、ごめんね真司君。ここまで運んでくるの大変だったでしょ」
「いえ、それは全然。学校から家までそんな距離ないですし」
実際、その通りではあった。月菜ちゃんは軽すぎた。とはいえ、女子に体重のことはタブーであるから詳細は俺の胸で留めておくことにする。あと感触とか。
背負った時に触れてしまっていた太ももとか。ほら、ね。
「いつまでこっちにいるつもりなんですか?」
「ん~、それが明日には飛び立たないと結構まずいかも」
「明日!? ……えらい忙しいですね」
一旦帰国って、一日だけかよ。どんなスケジュール。
あらゆる国を股にかけるキャリアウーマンである陽華さん。
どんな仕事をしているかは知らない点であるが、語学が堪能だとは聞き及んでいる。ふわふわとした雰囲気はあれど、業務上では頼られる人材なのだろう。
「お父さんは帰国できないって言うし。迷ったんだけどね」
「あれですか。少しでも月菜ちゃんと日向に会いたくてってことですか?」
「勿論! 可愛い子供たちに会えるならアマゾンの奥地からでも駆け付けるわ!」
この人の溺愛っぷりには定評がある。
本気でアマゾンから来かねない。たった一日だけでも海を渡って戻ってくる辺り、重要な用事でもあったかと思ったが、そんなことはないらしい。
「さっきから日向に連絡してるんだけど、返信がなくてねー。昨日帰るって言ったのに、つれない子なんだから。ねぇねぇ、真司君。何か知ってる?」
「アイツ、予定詰まってますからね。なんとも」
日向がハーレムを構築していることを陽華さんは知っているのだろうか。旦那一筋の陽華さんが今の日向の現状を知ったら――背中に寒気が駆け巡った。
俺は微妙に言葉を濁しながら、用意してくれたお茶を啜った。
「あ、今日は夕飯食べてくでしょ? 真司君の好きな辛口カレーよ」
「……じゃあ、ご厚意に甘えます。母さんには俺から連絡しときますね」
「あぁ大丈夫大丈夫。既に連絡して許諾は貰ってるから」
根回しの速いこと。俺は電源を入れたスマホを再度暗転させた。
見応えのないバラエティー番組がテレビから垂れ流しにされている。外は夜そのもので、この場面だけを切り取れば穏やかな時間だと言えた。俺はほぅと息を吐く。
元より独り言が多いと自覚していたが、ため息も増えてしまっていた。
「日向が帰ってきたら夕飯にしよっか? それとももう食べる?」
「あー、どうしよう。なら、もうちょっと待ちますよ。明日は休みですし」
「――そういえば今日体育祭だったんでしょ? その話聞かせて!」
手を拭いながら陽華さんが半身で振り返った。一般公開されていた体育祭であるが陽華さんは飛行機の関係で間に合わなかったらしい。非常に残念そうだ。
俺は、月菜ちゃんや日向の活躍をぽつぽつと呟き始める。
「へ~、それで実行委員として活躍してたのねぇ。真司君も」
「俺なんて月菜ちゃんに振り回されてただけですよ。活躍なんてしてません」
「またまた謙遜しちゃって。……子供の頃から真司君ってそうよねぇ」
数少ない俺の幼少を知る人物。昔のことを言われるのは気恥ずかしい。
俺自身が忘れていることもあるかもしれない。首肯でもって会話を終わらせる。
陽華さんはくすくすと含み笑いをした後、思い立ったように火を止めた。
「っとと、そろそろかなぁ」
言いながら、陽華さんは何やら丼に盛り付け始める。
どういうことだろうと訝し気に見ていると、湯気の立った丼をトレーに載せて、とんと俺の前に置いた。出汁の効いた香り。見てみればうどんであった。
「はい、うどん」
これは、カレーより先にうどんを食べろということだろうか。
ただし高校男児とはいえ食いしん坊キャラではないので、首を傾げた。
「……これは?」
「月菜に。部屋の鍵は開けとくよう言ってあるから」
「なるほど。だけど、俺が部屋に入るのは」
月菜ちゃんの部屋は数年前から鍵が締まっているのが常だ。
現在は非常事態とはいえ、俺が踏み入るのは礼儀に欠けると思った。ただ、俺の気持ちなど察しているようで、陽華さんはポンポンと俺の肩を叩いてきた。
「いいのいいの。あの子も思春期だから仕方ないけど、熱なんだから」
俺がどう答えたものか思案していると、更に言葉を継ぐ。
「私が行くより真司君が看病してくれた方が嬉しいと思うしね。あ、あとこれ冷却シートと薬。体温計は持たせてあるから、起きてたら測らせちゃって」
行って、陽華さんは台所に戻ってしまった。取り付く島もない。
残されたのは、唸る俺と美味しそうなうどんとトレー。
嬉しいという観点なら、普段から顔を合わせている俺ではなく久しぶりの陽華さんであると思う。しかし、当の本人はルンルンと鼻歌を奏でている始末だ。
俺は仕方なく諦念の意に従い、トレーを持って廊下に出た。
エアコンの冷気が扉の隙間から微かに漏れ出ている。むわりとした空気が肌にまとわりつくようで不快だった。これから更に熱くなるのだと鬱屈した。
零さないよう恐る恐る階段を上り、突き当りへ。
「月菜ちゃん、入ってもいいかー」
控えめに声を掛ける。返事はない。トレーを片方の手のひらに載せノック。
数秒待てど、やはり返事はない。ドアノブを回すと、鍵は掛かっていなかった。これは鍵を開けるのに残っていた僅かな体力を使い切ったと見るのが自然だろう。
いつぶりか、分からない。月菜ちゃんの部屋に入るのは。
「……入るぞー」
ドアノブをおもむろに押し込む。きぃと甲高い音を立てた。
まず視界に飛び込んだのは、白い掛布団。人型に膨らんでいる。のそっと首だけ出ている状態だ。顔は殊更に赤く、荒い息を繰り返している。しんどそうだ。
枕元にはぬいるぐみが数体綺麗に並べられている。
「……トレーを置ける場所は」
失礼とは分かりつつも、ぐるりと室内を見渡した。本棚や学習机、化粧品類。学生らしさと同時に女子であることを意識させてくる配置。……居心地が悪い。
室内の配色が可愛らしい感じなのも、俺の精神力を削っていた。
「うぅ」
当の本人は唸りながら、呼吸をしている。
足を組み替えているのか、布団がもぞもぞと動いている。俺は大きな音を立てないよう細心の注意を払いながら、勉強机の上にトレーを置いた。机の棚にはノートや参考書が所狭しと、それでいながら整理整頓されて並べられていた。
さて、どうしようか。起こすのは忍びない。
かといって、このままではうどんが伸びてしまう。
俺は逡巡し――呼びかけて起きなかったらそっとしておくことにした。その時は勿体ないので、陽華さんに断りを入れて俺が食べればいいだけである。
「月菜ちゃーん、うどん持ってきたぞ。食欲はありそう?」
軽く肩を押しながら声を掛けると、月菜ちゃんは喉を鳴らした。
寝顔であってもその整った顏は崩れることはない。熱に抗っているのか、溢れた汗を俺はついでにと渡されたフェイスタオルで拭う。その行動が決めてだった。
月菜ちゃんはゆっくり瞼を開け、ぽけーっと俺の顔を認めた。
だが意識が朦朧としているのだろう、焦点が定まっていない。現実と夢の狭間を揺蕩っているようで、まず飛び出した一言目がこれだった。
「……お母さん? お腹、空いてないから」
きゅっと俺の手を握る。おんぶしていた時よりも、かなり熱い。いつもなら握られた感触やらで平静を乱されるのだが、今日ばかりは最初に不安が募る。
俺を陽華さんだと勘違いしているらしい。尚更心配だ。
「無理しやがって。はーい、ひんやりするぞー」
俺は彼女の手をそっと解き、冷却シートを額に貼った。
「ひゃっ」
可愛らしい声を上げながら、びくりと跳ねた月菜ちゃん。
しかし次の瞬間気持ちよさそうに目を細めた。本当に猫みたいだ。
だが、まあ。これではうどんどころではなさそうである。うどんは俺がカレーと合わせて頂くとして、後で栄養ドリンクや流動食を陽華さんに頼むとしようか。
「薬、ここ置いとくから。起きたら飲めよ」
俺がずっと部屋に居ては落ち着かないだろう。
休めるものも休めなくなる。そう判断した俺は、聞いてるか定かでない月菜ちゃんに声を掛けて部屋を出ることにした。早く良くなると良いが。
「――んぅ」
そうして部屋を出ようとした俺の服をきゅっと摘まむ月菜ちゃん。呼ばれたと思い振り返ると、目を閉じたままの月菜ちゃん。荒い寝息を繰り返していた。
「……月菜ちゃん?」
俺はさりげなく指を外す。寝惚けているらしい。
ただ部屋を出ようとすると、逃がすまいと再度摘ままれた。意識は朦朧としている筈なのに、確固たる意志を感じて「彼女らしい」と俺は微笑を浮かべた。
仕方ない。月菜ちゃんが眠りこけるまで待つとしよう。
うどんは伸びてしまうが、細かいことだろう。
「わかったよ。寝るまでここにいるから」
言うと月菜ちゃんは満足げに微笑んだ。体育祭でも彼女の寝顔を拝んでいる。学校の男子が聞き及べば、嫉妬心で刺されてしまいそうだと身震いした。
俺は彼女が普段使用しているであろう椅子に腰掛けた。
余り室内を見渡しても失礼にあたる。親しき仲にも何とやら、だ。
ただスマホをリビングに忘れてしまい、どうも手持無沙汰だ。
俺が寝顔を見つめているとふと、視界の隅に入った参考書に目が留まった。懐かしい、俺が一年生の頃に使用していた物で、月菜ちゃんに譲ったのだ。
引っ張り出すと、四つ角がうっすらと汚れ、削れていた。
「……使い込んでるんだな」
じわりと嬉しくなった。部活動の先輩が後輩に物を託すのと似ている。
運動部に所属したことはないので知らないが、恐らく合っている。自分から別の人に移り、なおかつ大事に扱ってくれているとなれば表情もほころんでしまう。
「ん?」
参考書を棚に戻すと、何やら二冊のノートが気になった。
他の参考書や教科書とは違う区画。二冊だけ、あえて分けられている。
悪いとは思ったが、片方を手に取ってみる。タイトルはなし。
月菜ちゃんに視線をやると、瞼は伏せられている。
普段なら気にもしないのだろうが、生憎の手持無沙汰と相まって、ぺらぺらと捲ってしまった。プライバシーに触れる内容ならすぐさま戻して後日謝罪する。
だが、俺は捲る手を止められなかった。――これは。
「……ストーカー対策。真にいとの距離を縮める」
ざっと書かれた対策と見込める効果。箇条書きで記されている。
分析と推測がずらずらと書かれ、ストーカーを暴こうとしていた。
月菜ちゃん、こんなノートを作成してまで協力してくれていたのか。思わぬ得た言いようのない感情に俺は言葉を失う。喜びと、安堵。そうか、これは安堵だ。
日付と行動が事細かく記され、今後の方針を練っている。
月菜ちゃんが件のストーカーならば、こんなノートは必要ない。
自身への疑いを外すなら、もっと分かりやすくノートの存在を明かせばよいのだ。
独自に調査してくれていたのだから彼女は限りなく白に近いと、思う。
無論、ハンカチやら失くした物という別件も生まれている訳だが。
俺はノートを戻し、月菜ちゃんが犯人ではない可能性が高まったことに胸を撫で下ろす。ともすれば、緒川か第三者が必然的に犯人像として浮かび上がってきた。
「――こっちは」
興味を抱いたのはもう一冊のノート。推理ノートの続きであろう。
これ以上彼女からの許諾を得ずに盗み見るのは気が乗らない。
俺は伸ばし掛けた手を下ろし、すっと席を立った。
「……すぅ……すぅ……」
気付けば、月菜ちゃんは深い呼吸と眠りに落ちていた。
腕が布団から飛び出していることに気付き、俺は毛布を掛け直す。
全身を包む熱さに身を捩らせたが、我慢して欲しい。
この小さな身体に、多大な負担と迷惑を被せてしまっている。いつか、この問題が解決したら俺なりに感謝の気持ちを伝えよう。――そう、決意を固めた。
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