第2章 体育祭

第20話 梅雨の香り

 六月ともなれば春らしさは去り、校内もどことなく緩んだ気配が漂う。

 

 梅雨全開の天気であり、空には暗雲が立ち込めていた。

 窓には絶え間なく雨粒が打ち付けられている。俺は湿度イコール不快だと捉えている人間なので、気怠い季節がやってきたなと心底嘆いていた。


 返却されたテストは無事、全て赤点回避。謂わば約束された自由。

 補修に捕まることもなければ、成績に然して大きな影響が出ることもないだろう。何より、日向の幼馴染の癖に――そんな的外れな揶揄を受けずに済む。


「真司~、体育館いこーぜ」


 間延びした声。見やれば、日向がいつも通りのイケメン面で立っていた。

 体操服ですら輝いて見えるのは日向パワーだろうか。今日の授業は男女混合ということもあり、女子男子問わず浮わついた印象がそこにはあった。


 もっぱら運動が得意な日向。体育の授業は待ち望んでいる時間のはずだ。

 

「あぁ。バスケだっけか」

「おう! いやー、俺のボールコントロールが火を吹いちゃうなぁ!」

「……んだよ、それ」


 日向の軽口を聞き流しながら、俺たちは肩を並べて体育館へと向かう。


 デートから数日が経っている。

 月菜ちゃんは定期考査が明けた途端いつも通り。今日も今日とて弁当を登校時間に渡されている。あまりにも平常で、とても聞ける雰囲気ではない。


 お前がストーカー、なのか。

 

 なんて、言えるはずもなかった。

 あの一瞬見えたハンカチは、確かに俺が持っていたものだ。いつ頃か紛失していた。特別大事ではなく安物だったから気にしてはいなかったが……。


(……いつ失くしたんだろうな)


「真司。どうも一年生女子と一緒らしいぞ。しかも月菜が所属してるクラスだってよ。……あーだりい、体育の時間だけ抜けてくんねぇかな」

「コートは別々だろうし、いいだろ」

「そりゃお前は懐かれてるからな。俺への対応見ろよ、雲泥の差じゃん」


 それは、お前の言動が齎した結果でもあるだろ、と胸中で突っ込んだ。

 暴走機関車の如く止まらない日向の自業自得な発言を右から左へ。


――問題は、俺が不注意でハンカチを失くしたか。

――あるいは月菜ちゃんが盗んだのか。


「弁当も作ってもらってんだろ? なに、付き合ってんの?」

「んなわけないだろ。恋愛脳も大概にしとけよアホ」

「かー、つれない真司だこと。……付き合った時は教えろ、祝福はしてやるよ。あの面倒で我儘な妹を扱えるのはお前だけだろうしな。頼んだぞ」


 彼女が盗みを働くような子ではないことは重々承知している。

 決してありえないと断じている。しかしだ。


 幾つかの説明がついてしまう。俺は昔から失くしものが多かった。元よりそういう性質だと割りきっていたが、これが故意的だとすれば。何かの経緯を経て月菜ちゃんが俺に渦巻く憎悪や恋慕を抱いてるならば、失くなっている現状に繋がる。


 ただ、彼女を一連の事件を引き起こしているストーカーだとするには、証拠も足らない上、些か疑問も残る。


 まずは件のハンカチである。

 几帳面な月菜ちゃんだ。化粧直し用と普段使い用など、分けている可能性は大いにある。あの間抜けなプリントがされた犬も、趣味が同じであったとすれば、強引だが納得はできる。


 ただし、あの趣味の悪いハンカチを失くした詳細時期を覚えていない。

 今も販売されているかどうか不明な点も見逃せない。軽く調べた感じでは、販売は確認できなかった。そも、記憶を引っ張り起こせば、あのハンカチは両親のどちらかに突然渡された品だったはず。それを果たしてなぜ月菜ちゃんが持っていたのか。


 そこでストーカーに繋がるって訳だ。が、前述の通り、証拠不十分だ。たかがハンカチで彼女を犯人に仕立て上げるには説得力が足りないと思う。


(……もうひとつ)


 仮にだ。仮に。

 月菜ちゃんが俺のストーカーだとすれば、俺が追いかけた少女は誰だ?

 夜の帳。突如として巻き起こった追走劇は、まだまだ記憶に新しい。


 月菜ちゃんを見送った後だ。あいつが玄関前に立っていたのは。

 まさか瞬間移動なんてお笑い草。ともすれば彼女は月菜ちゃんではない。あいつの存在がある以上、月菜ちゃんをストーカーとは断じれない。

 ただ、ハンカチの真相を別途問う必要はあるだろう。

 

 ……可能ならば下着の所在もお聞かせ願いたいところ。


「──しゃっ! 暴れるぜ!」


 体育館へ着くと教師の号令が掛かるまでの間、暴れてやらぁと日向がコート内を駆け出した。自然と陽キャ集団が男女問わず集まりミニゲームが始まった。

 俺はそれをぽつねんと眺める。


 俺がストーカー被害に遭ってから、そこそこの時間が経過していた。

 意味不明な脅迫状もどき。定期的に届く監視メール。未だ全貌どころか、尾も掴めていない相手に気持ちが逸る。……ふと、気付いたことがあった。


(……メールのタイミング……?)

 

 相手は俺を監視しており、緒川と作業している時には届いた。

 ただし異性という意味では月菜ちゃんといる方が圧倒的に長い。彼女自身嫉妬心を煽ろうという計画を打ち上げ、週明けから殊更に、であった。

 

 それでもメールは届かない。何故。やはり推測通り月菜ちゃんがストーカーの中身なのだろうか。いやいや、それは先ほど早計だと断じたばかりではないか。

 何か月菜ちゃんがいるとメールを「送らない」理由があるのか?


「はぁ」


 俺が溜息を零すと、軽く背中を叩かれた。振り返ってみれば月菜ちゃんが怪訝そうな顔を浮かべている。正直、勝手に気まずさを覚えてしまった。

 そうして月菜ちゃんは俺の顔を一瞥するなり、


「真にい、幸せが逃げるわ」

「疲れてんだよ。色々とな」


 必死に平静を装いながら答える。

 体操着姿の月菜ちゃんは、スタイルの良さがより如実にわかる。すらっとした手足は無論、真っ白な肌は荒れというものを知らない様子だ。映画館で手を握ったことを今彼女はどう想っているのだろうか。ふと、そんな思考が脳裏を掠めた。


「なによ、ストーカーの一件で進展でもあったの?」

「……や、そういう意味ではないが。つかストーカーとか簡単に口にするなよ」

「碌に誰も聞いてやしないわ。見てみなさいよ、アイツの注目具合」


 ストーカーは聞き耳立ててると思います、とツッコミ。

 とはいえ、体育の時間にまで潜り込めているとは思えない。相手は十中八九学生で、そうなれば自分の授業がある。それを抜け出すには相応の言い訳が必要だ。

 ……まあ、相手も体育の授業であれば詰みだ。


「盛り上がってんな。日向を中心に」

「暑苦しいだけ。ほんと、私からすれば見世物よ」

「……今の発言こそ誰かが聞いていたら日向ファンが発狂しそうだな」


 俺の言葉に月菜ちゃんは肩を上げてくすっと笑った。

 まるで聞かれても構わないという素振り。されど月菜ちゃんは何だかんだと立ち回りが上手だ。周囲には喧嘩するほど仲の良い姉弟と専らの噂である。

 実際は互いに鋭利なナイフで刺し合っているのだが。


 しかし、日向と関係性が色濃いからこそ俺と月菜ちゃんは冷静に捉えられている。体育館内は日向を応援する声援が鳴りやまず、恐らくそれが一般論。


「ひーくん! がんばれぇええっ!」


 ちなみに同じクラスである梨花の声が最も目立っていた。

 

「っとと遅れたーって、なに!? 日向先輩カッコよすぎなんですけど!?」


 その時、体育館の入り口から生意気なハムスターボイス。

 月菜ちゃんに視線で問うと「同じクラスなのよ」と新事実が判明した。

 なるほど、言われてみればふたりとも一年生である。


「あ、碓井先輩いたんすね。……一ノ瀬さんも、どうも」


 緒川は俺を軽くあしらったと、月菜ちゃんに曖昧な笑み。

 最初に言っておくと、月菜ちゃんとハーレム集団の間には亀裂がある。それは日向と月菜ちゃんの険悪具合を本当の意味で知っている他ならない。

 意中の相手の妹。しかも兄妹仲は最悪ときた。

 

 月菜ちゃんは緒川の中学時代を知っている。それをとやかく詰める子でないが、緒川にしてみれば出来る限り避けたい相手であろうことは想像が容易だ。


「どーも、さっさとアイツの応援行ったら?」

「……はは、そうします。それじゃまた、碓井先輩も」

「おう」


 俺は軽く手を挙げて、挨拶とする。


「あの子にはストーカーの件言ってあるんでしょ」

「ああ、偶然ふたりでいる時にメールが入ってな。あとちょっとで捕まえられるってところだったんだが、あの禿げ教師が邪魔してきやがった」


 月菜ちゃんには緒川に露呈したことを伝えてある。

 随分と危険な橋を渡っており、実害が発生すればすぐさま辞めさせる予定だが、今のところ月菜ちゃんはストーカー発見の船に乗り出している状態だ。


「リアルタイムの内容が記載されてた。誰かいたのは間違いない」

「あの現場を見ていないと書けない内容のメールだったしな」

「えぇ。……真にいに執着するとすれば……」


 推理する月菜ちゃんの横顔は真剣で、疑う余地もない様相だ。

 言い方を変えるなら彼女がストーカーとはどうしても思えない。ただ得ている情報を結ぶと最初に月菜ちゃんが浮上する。その乖離が余計に俺を混乱させていた。


 体育館の外は土砂降り。そんな六月の始まり。

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