第34話 その先にあるのは
緒川から受け取ったメッセージを見て固まってしまう俺。
かぁかぁと、何処からか聞こえるカラスの鳴き声だけがいたく響いている。
俺はハッと意識を戻し、握り締めていたスマホをもう一度注視した。
何度読んだところで、メッセージの内容が変わることはない。
これはつまり、まあそういうことだろう。
ハーレム軍団は恐らく薄氷の上に成り立っている。相手はあれだけアプローチをかけられておきながら濁し続けている日向だ。やきもきするのも仕方ない。ともすれば、告白を敢行したところでおかしな話ではないとさえ思われた。
確かに緒川は体育祭で何かを画策していた。
俺が体育祭実行委員になった瞬間頓挫したかに感じたが、ゴール地点は「告白」だったのだろう。成功するか、あるいは振られてしまうイベントだ。
「わーお。……まじか」
俺は頬を掻きながら、茫然としながら声を漏らした。
いつか、誰かが踏み込むだろうとは分かっていた。
告白という線引きを超えると思っていた。
最初が緒川だったというだけである。日向に意中の相手がいるのか、あるいは誰とも付き合う気がないというのは本当なのか。とにもかくにも緒川は――。
「……話だけでも聞いてやるか……?」
上から目線のような発言だったかもしれない。ただ、わざわざ振られた報告をしてくるなんて余程メンタルが壊されており、傷心中に違いなかった。
俺はたっぷり十秒は思考を巡らせてから文面を打った。
『話しくらいなら、まあ聞いてやらんでもない』
なんとも遠回しな切り口だった。とはいえ、告白に失敗した女子を慰めた経験などあるはずもなし。月菜ちゃんの業務が片されるまでという時間制限もある。
緒川からの返答はかなり早かった。一分なかったはずだ。
『屋上』
たった二文字。簡素ながら完結した内容。
これは屋上に今すぐ来いということだろう。
普段から一般開放されている屋上ではあるものの、体育祭当日に向かう奴なんてそう多くはない。それこそ告白するには持ってこいかもしれないが。
俺は了承のメッセージを送り、足を動かした。
彼女が俺のストーカーかもしれないという疑念を抱いたまま。
屋上の扉を開けると、キィイという無機質な音が不快。
立て付けが悪く、なぜか殊更に今日は煩わしく思えてしまう。
そこに踏み入ると、まずは涼し気な風が顔に当たり、ついで茜に染まる街が視界に広がる。さて、緒川はどこにいるのかと探せば案外すぐに見つかった。
屋上の最も奥。柵に凭れるようにして立っている。
ふと、あのまま飛び降りてしまうのではないかと錯覚するほど儚げだ。
そんな彼女は俺の足音に気付いたらしく、おもむろに振り返った。
「遅いっす、碓井先輩」
かける言葉は考えていなかった。いや、正確には考えていたのだが、彼女の苦悩に添える程の正解かは分からなかった。ただ何か言わねばと口を開けた。
が、開いた口から言葉は出ず。パクパクとさせたのみ。
「私、振られちゃいました」
意地悪に。朗らかに。寂し気に。そして、微笑んだ。
表情の変化に考えていた言葉が全て吹っ飛んだ。何を言うべきか分からなくなった。ただ、緒川美海という少女が一ノ瀬日向に振られたことだけが事実だった。
「…………そうか」
「はい、頑張ったんですけどね」
そう言うと、再度柵に凭れかかって街を静かに見下ろす緒川。
とんとんと隣を叩いたのが、隣に来いという合図に思えた。素直に従い、俺も柵に凭れかかると彼女の横顔が窺えた。気まずい沈黙がすっと降りる。
……歳上の威厳として、慰めの言葉を何とか絞り出した。
「……頑張ったならいいんじゃないか」
「それ、フォローになってないっす。むしろ傷口抉ってます」
「ッ、悪い。……日向に挑んだだけすげぇよ、ホント」
フォローしたつもりが、むしろ悪循環を招いたらしい。
俺は慌てて謝罪して、次に彼女への誉め言葉を口にした。嘘はついていない。日向という恋愛強者、あるいは鈍感男に勝負を仕掛けただけ金一封物である。
「恋人になれる可能性が低いのは知ってました」
緒川は力なく項垂れて、じっと屋上の床を見つめた。
日向の真意は幼馴染の俺ですら分からない。あんなキープ紛いのことを続けていれば、遅かれ早かれこうなることは目に見えていたのだ。ハーレムは漫画やアニメの中だけで許される関係性であり、現実はそう甘く出来てはいないのだから。
「あーあ、碓井先輩が実行委員じゃなかったらなぁ」
わざとらしく嫌味を口にする緒川。俺は細めでねめつけた。
「んだよそれ。……へーへー、俺ですんませんでしたね」
「そしたら日向先輩と話せる時間も増えたし、一緒に居られる時間も爆増でした。告白成功させるために色々考えてきたのに……桜木先輩のアホ、バカ、幼馴染」
「幼馴染は悪口じゃないし、あと俺も幼馴染なんだが」
話しながら緒川の銃口は俺から梨花に向いたらしい。
意外だった。ぶっちゃけ緒川は泣き腫らしており、愚痴にひたすら付き合わされると覚悟していた。ただ悪態はつけど、緒川は案外ケロッとしている。
……無理をしているだけかもしれないが。
「……泣いていると思ってた。悪口叩けるくらいの気力はあるんだな」
「泣いてましたよ! 碓井先輩が来るまでに涙枯らしときました。あとはもう、この無気力感と怒りをぶつけるだけっす。ま、家帰ったらまた泣きますけど」
どうやら泣きモードは通過して、怒りに到達しているようだ。
夕映えが彼女の顔を照らしているせいか、泣き跡は上手に隠されている。
その後も出るわ出るわ梨花や姫乃会長に対する暴言の嵐。
だが、不意にピタリと緒川の口が止まった。
「どうした、吐き出し終わったか?」
「――私、碓井先輩のストーカーに狙われていること、虐められていることを日向先輩に打ち明けるつもりでした。……もし、付き合えたら、でしたけど。あ! もちろん碓井先輩に話を通してからの予定だったんで、そこは安心してください」
緒川は言葉を続ける。
「彼氏になってくれれば私を守ってくれるかなって期待がありました。友達関係のままでは頼るにも頼りきれません。……あとは、行動が制限されて日向先輩に告白できなくなるのを避ける為に、狙われていることを教師や親に、言いませんでした」
緒川は緒川なりに対処方法を考えていたらしい。
恋人関係になれば、確かにストーカーからの被害は抑えられるかもしれない。曲がりなりにも日向は男で、恋人のいる女子には執着しなくなる可能性がある。
「……そう、だったのか。俺や月菜ちゃんには相談してくれても――」
「相談する気持ちはありました。だけど、怖かったんです」
怖かった。その言葉に俺は首を傾げた。
「碓井先輩に相談すればストーカーはより過激化するかもしれない。……あと、これは私の予想ですが、一ノ瀬さんが……その、ストーカーなのではないか、と」
「月菜ちゃんがストーカーだって? おいおい冗談はやめろって」
実は俺なりに月菜ちゃんを疑っている所はあるがおくびにも出さない。
今は緒川の気持ちや推測を聞くべきだと判断したからだ。
「冗談じゃないっす。なんで碓井先輩に最も近い一ノ瀬さんにはストーカーの被害がいかないんすか? 攻撃されないんすか? どう考えてもおかしいです」
「それは」
俺は二の句が継げなかった。反論の余地がなかったからだ。
月菜ちゃんが容疑者としてあがるのは、当然の流れであった。しかしそうではないことを俺は祈っているに過ぎない。緒川の意見はどこまでも正論である。
「好きな日向先輩と付き合えれば、幸せと安全が確保できるかと思ってました。……ただ、焦り過ぎました。じっくり日向先輩との距離を詰めるべきでした」
「焦りってのは、その恐怖と繋がってるんだな……?」
俺が問うと、覇気の消えた表情のままこくりと頷いた緒川。
「踏ん張ってきましたけど、怖いんです。どうしようもなく怖い」
きゅっと緒川は自分の身体を腕で抱いた。小柄な身長も相まって、消えてしまいそうな雰囲気を湛えている。よくよく見やれば、微かに肩が小刻みに震えている。
風に揺られる金髪は、所在なさげにひたすらに夕焼けに照らされる。
「頼みの綱だった日向先輩はもういない。……碓井先輩」
名前を呼ばれた。普段から耳にする生意気な声色とは違った。
「……教師や親に、改めて頼るべきだろうな。俺も説明はするぞ」
「もしも一ノ瀬さんがストーカーだった時、大人が動けば確実に私か碓井先輩が口を滑らしたってことになるっす。いえ、消去法で確実に私になると思います」
理には適っている。確かに、月菜ちゃんがストーカーだとすれば藁人形を作ったり、盗撮したり、犯罪紛いのことが更にヒートアップするのは自然な流れだ。
だが、緒川の言葉をそのまま鵜呑みにしてもよいのだろうか?
受け入れてしまうのは早計だ。警鐘が何度も脳内で鳴る。
あの日、緒川と楠木姉が会合していた日。
意味深な会話はまだ一語一句脳裏にこびり付いている。
そして、楠木姉は陸上の選手であるという事実。
「碓井先輩、私はどうしたらいいですか」
大人に頼るのは、その後の報復が恐ろしい。
そうでなくともストーカーから粘着されている状況。
緒川の発言が全て真実ならこういうことになる。
事を急いだ結果、頼みの綱だった日向からは振られている。守ってもらえるかもしれない相手は既に自分から離れており、緒川は孤独に苛まれている。
気丈に振舞ってきたが、心はとっくに限界を迎えていた。
だがここで俺が「守ってやるよ」なんて都合の良い拠り所――言い訳を吐いたところで、その場しのぎ。緒川への攻撃が苛烈になるだけなのも、また事実。
――どうする、どうするべきだ。
緒川の発言を信じるか。
月菜ちゃんを信じるか。
良い案は、ないか。
「緒川、少しだけ時間をくれないか」
とりあえず、どう足掻いたところでこの場で結論は出せない。
もし緒川の言葉が全て本当なら、この心境で答えを引き延ばすのは酷ではあろうが、中途半端な策を打ち出して後悔するのは俺であり、緒川でもある。
──それは、前触れもなく訪れた。
空気を裂いたのは、屋上の扉が開け放たれる音。無機質な、音だった。
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