第31話 前日

 時間の流れとは早いもので、気付けば体育祭前日であった。

 日曜日だというのに、俺たち実行委員は汗水垂らし労働に勤しんでいた。来賓用の屋根付きテントを設置し、マイク音量を確かめ、一連の流れを通す。


 堆く積まれた備品。書類片手に奔走する生徒会役員。視界の隅から隅まで人間で埋め尽くされている。


 生徒主体であるが故に、激務といっても差し支えなかった。


 社会人になると休日出勤が当たり前になるのだぞ、と両親から聞かされて育った俺は、これが社会の縮図なのだろうと垂れる汗を見ながら益体なく思った。

 今日と明日は雲一つない快晴だと天気予報は示している。


 気温は六月最高を記録する見込みだという。

 今年は例年と比べて梅雨も短かった。

 

「……本当によかったのか」


 首筋に水滴のように浮かんだ汗。透けてしまいそうな体操服。一年生ながらその存在感を余すことなく発揮している月菜ちゃんは「ん?」と首を傾いだ。


 わざわざ日曜日だというのに指定された体操服に身を包んだ我ら生徒は、各々疲労感を誤魔化すように手と同時に口も動かしていた。月菜ちゃんは照り付ける陽光を嫌がるように手びさしを作りながら作業を一旦中止させた。俺もそれに続く。


「よかったって、なにが?」

「……緒川が陥ってる現状を親や教師に言わなくてよかったのか」

「……本人が良いって言ったんだし、私たちは動けないわ」


 月菜ちゃんはそっと視線を遠くの方へ送る。

 そこには屈託なく笑い、準備を進める緒川の姿があった。

 事情を知らない人間からすれば、人一倍頑張っている女生徒にしか見えない。中学生の彼女からすれば信じられない振る舞いだ。日向への愛情が、あるいは勤勉さが、緒川美海という少女を動かしているのだろう。――と、前までなら考えていた。


 俺の中にある可能性のひとつに、緒川がストーカーというものがある。

 理由はさっぱりであるが、緒川の意中の相手が日向ではないということだ。

 ……頼む、自分で言ってて自意識過剰が過ぎるが、許して欲しい。


 本来なら、既に緒川に起きている虐めは教師や親を頼るべき案件であり、俺たち子供の手には負えない。だが、緒川は俺の申し出を断った。大丈夫です、と。


 日向という男に対して成し遂げたいことがあるのか。

 ここまで形成させた体育祭を謳歌したいのか。

 あるいは。自作自演だから関係ないのか。


「なあ、聞いていいか?」

「……急に何よ、似合わない神妙な顔して」

「どうして、月菜ちゃんには攻撃しないんだと思う? ストーカーは過剰に異性を敵対視している。緒川が最たる例だ。その流れで行くと――」


 月菜ちゃんは俺の言葉に被せるようにして首を振る

 果たしてどういう意味を孕んでいるのか、俺にはさっぱりだった。

 ただ月菜ちゃんの瞳にはいつぞや見た朧げな色が揺蕩っている。


「私が攻撃されるべきって言いたいんでしょ?」

「いや、そこまで強く言うつもりはないが」

「いいの、私自身おかしいって思ってるから。……その、あー、デート、仮ね! 練習の! その時、手を繋いだりしたから……絶対尻尾を出すと思ったの」


 時折しどろもどろになりながら、月菜ちゃんは言葉を紡ぐ。

 俺は握られた手の感覚を思い出して、同時に、ハンカチの謎も思い出した。

 照れ臭さと疑心が胸中で顔を覗かせて、ただ首肯するだけで限界だった。


「だってのに、緒川さんにしか攻撃しない。どう考えてもおかしいわ」

「何か月菜ちゃんを狙わない理由があるのか、緒川に個人的な恨みがあるのか」

「……どうかしら。…………私と――ってこと?」


 後半の掠れた声は最初と最後だけ、かろうじて聞こえた。だが独り言のようであったから、あえて問い質す必要もないだろうと作業に戻ることにした。




 姫乃会長から相談された誕生日プレゼントの件は、恙無く済んでいた。

 同じ男である。しかも日向ともあればテキトーこいても掠るくらいはアイツのことを理解している。……梨花と緒川は日向に何をプレゼントで送ったのだろう。


 ちょっと前に陽キャ集団で日向の誕生日を祝っていた。

 俺も誘われたが、どうにも混ざる気持ちは微塵も沸かなかった。

 腐れ縁ではあったが、住む世界が異なることも理解していた。


 昔はそうでなかった。懐古する訳ではないが、日向は変わった。そして、恐らく俺も変わった。変わって、変わって、固まって、そうして日々が過ぎてゆく。

 だけれど、日向はたぶん悪い方に傾いたのだろう。


 周りが一ノ瀬日向という男を持て囃し、その地位をぐいぐいと押し上げる。自分で処理する速度よりも早く、押し上げられる。他人から求められる理想へ。


 月菜ちゃんの言っていることは事実だ。アイツが原因で起こる俺への風評被害や的外れな評価などは捨て置けばよい。が、人間はそんな簡単には割り切れない。

 幼い頃から染み付いた価値観はすぐは拭えないのだから。


「……先に入っといてよかったな」

「真にい、私限界かも。……ごめん、吐いていい?」

「気持ちはわかるが、店に迷惑だから我慢だ」


 決起会という名目で俺と月菜ちゃんは前日準備後、カフェに寄っていた。

 緒川も誘ったのだが、やることがあると断られてしまった。


 新作ドリンクとパンケーキが登場したとのことで、月菜ちゃんの瞳がきらきらと輝いていたのは数分前のこと。現在は進行形で淀みがどんどんと深みを増している。


 話題になっていたとはいえ、時間まで被るとは。

 

 ナチュラルな木材をベースにした内装のカフェ店内。

 窓側にはテーブル席が設置され、心地よい程度の陽光が差し込んでいる。

 観葉植物の緑が、統一された色合いの中で殊更目立っていた。


 カウンターにはひとり用の席が並び、奥には横置きされた長机と椅子が等間隔で配置されている。パソコンを開き何やら作業をしている社会人や学生がずらり。

 

「……しっかしまあ、よくも往来の場でいちゃつけるよな」

「アイツってバカなのよ。……あんな兄をもって恥ずかしいわ、ほんとに」

「日向と梨花の組み合わせか。……わんちゃん付き合ってるとかある?」

「ない。あの優柔不断が誰かと付き合うとかありえない」

 

 だよなぁ、と俺は苦笑しながらコーヒーで喉を潤した。

 無糖を頼んだのに甘さを感じるのは、いちゃつきオーラに充てられているからかもしれない。向こうが最も離れたテーブル席に腰掛けているのが幸いだった。

 俺たちからは見えるが、あっちからはやや死角の位置関係。


 カフェとはいえ、皆が利用する公共の場だ。偶然だろうか。視線の先でいちゃつく日向と梨花以外ろくに喋っている人がいない影響で、よく声が通っていた。

 もしくはイケメン&美少女カップルに皆が注目しているのか。


「ひーくん、そっちのいちご飲ませてよ~!」


 奇しくも日向が頼んだドリンクは月菜ちゃんと一緒だった。

 月菜ちゃんは自身のドリンクに視線を落とし、数秒悩んだ挙句「あげる」と一言だけ呟いて俺にドリンクを寄越した。新作のいちごフレーバーである。心の底から楽しみにしていた商品を手放すとは、よっぽど嫌だったのだとこれまた苦笑い。


「……いちごに罪はないから!」

「あいよ、わかってるって」


 交換として俺のコーヒーを渡したのだが「うぇぇ」と渋い顔をした。

 そんな表情にも可愛さがあって、全校中で人気が出るのは道理だと思えた。

 どうやら無糖のコーヒーは苦手らしくミルクをちょびちょび足し始める。


「ばかにしてるでしょ?」

「してねぇって。なんか可愛いなって」

「かわっ。…………なるほど」


 コーヒー牛乳と化した俺のコーヒーをストローで吸う月菜ちゃん。


 間接キスではあったが、申告するのは面映ゆさが募るばかりだった。


 さりげなくグラスを持ち上げて顔を隠しているのはわざとか無意識か。

 そんなやり取りをしている間も、日向梨花コンビの声は止まる所知らずで店内を駆け巡っていた。……関わるつもりは毛頭なかったが、流石に注意すべきだろう。

 

「ひーくんってさ、かっこいいよね?」

「そうか? ……自分じゃあんま分かんないけどな」

「昔っからかっこいいよ。……ねね、覚えてる? 昔、捨てられた猫ちゃんがいて、必死に里親が探したこと。あの時、誰よりもひーくん頑張ったんでしょ?」


 梨花がなんとなく周囲の雰囲気を察知したらしい。声量を少しだけ抑えたと判断した俺は、注意しないことにした。それでも幾分か大きい気もしたが。


 捨てられた猫。そういえば昔拾ったことがあった。

 もう色も体格も朧気だが、記憶の海には微かに残っている。

 月菜ちゃんも眉を吊り上げ、数度頷いていた。


「あったっけか。そんなこと。覚えてねぇや」

「そうなの~? あの時から、ひーくんってかっこいいなって思った」

「ふーん。ま、いいじゃんかよ、そんな昔のことはさ」


 日向は朗らかに笑いながら、会話を切り上げようとしていた。

 どこかその口調は、話をつまらない――否、嫌がっているように見えた。

 まるで、ほじくられたくない羞恥の過去でもあるような。


「でさ~、なんだっけ。ひーくんが里親見つけたって言って」

「もういいだろ。……あ、梨花のバナナ味もくれよ」

「待って飲みすぎ! 飲みすぎだよ~!」


 強引に会話を終わらせた日向。飲み干す勢いだった。

 

「まったく、そんながっつくとモテないよ?」

「どういう意味だよ。別に俺はお前がいればいいって」


――思わず吹き出しそうになった。


 キザというより、痛さまで感じられる言葉である。

 日向クラスのイケメン補正でギリギリ許されるレベル。


「……そういうこと誰にでも言ってるんでしょ」


 おっと寒気。俺なら地雷を踏んだと懺悔している。

 隣を見れば月菜ちゃんが「さっむさっむ」と自分の身体を撫でていた。

 日向は小さく笑ってから、俺じゃあ一生言えない台詞を呟いた。


「お前が大事だから言ってんだよ。変な取り方するなって」

「ひーくんってずるいよね。……ぜんっぜん恋人作る気、ないのに」

「そんなことないって。タイミングがないだけだ」


 俺には恋愛が分からないと言っていたのに、随分と意見が変わったものだ。あるいは「あえて中途半端」な答えをすることで、引き延ばしているとも取れる。


「……真にいはさ、ああならないでよ」


 ふと、袖をくいっと引っ張られた。

 見れば、月菜ちゃんが唇を尖らせていた。


「なりたくてもなれねぇ。俺は俺だからな」

「なら、いいけど。アイツみたいになったら、やだ」


 くいくいっと再度引っ張られる。


「あんなの誰も幸せにならないし。好きとか嫌いとか、ううん、どんなことでも中途半端にして、なあなあでやり過ごして。それとたぶん劣等感」

「劣等感?」


 俺が尋ねると、月菜ちゃんは「そ」と短く頷いた。

 

「……アイツ、真にいに劣等感抱いてると思う」

「日向が? 俺に? ないない、あんな完璧野郎が劣等感なんて殊勝な感情抱くわけないだろって。ましてや俺に? いやいやありえないだろ」


 俺が矢継ぎ早に言うと、月菜ちゃんはぷっと小さく吹きだした。


「真にいの方がかっこいいって何度言わせるのよ」

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