ピーカーブー
「ねえ、その子誰?」
およそ10メートルほど先。
夕暮れの色に染まった道路の上に佇んだ、見慣れた人影が首を傾げている。
服装は普段のオーバーサイズのパーカーだが、何故か足元には真新しい黒のブーツが輝いていた。
厚底で、所々にハートの装飾が施された、いわゆる『地雷系女子』が好みそうなものだ。
天然革特有のつるつるとした光沢は、斜陽の中でも映えている。
だが、全体の格好を俯瞰すると、なんだかブーツだけが浮いて見えた。
ひどくアンバランスなコーデに、俺は暫しの間目を奪われていたが。
「答えてよ、浜九里くん」
ひどく無機質で、ぞっとするほど感情のない催促で我に返った。
「……あ、え、っと」
俺は声を出したつもりだったが、呻き声のような声は言葉にならなかった。
カラカラに乾ききった喉は上手く動かせず、曖昧でしどろもどろな返答しかできない。
俺はコヨミの背中に指を貼り付けたまま、視線をきょろきょろと動かすしかなかった。
「何? 何か後ろめたいことでもあるの? 私たち、『友達』なんじゃないの? ねえ?」
田淵の瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。
その瞳には先がない。
ただひたすら、果てしなく続く深淵が広がっているだけ。
「……ごめん、颯太」
「え?」
コヨミはバッと顔を離すと、腕を伸ばして俺をとん、と軽く突き飛ばした。
弱い衝撃。
だが予想外の出来事にバランスを崩した俺は、そのまま地面に尻もちを着いた。
痛くはない――が、困惑が湧き上がってくる。
俺が倒れたのを確認したコヨミは勢いよく振り返ると、田淵を睨み付ける。
そして一歩だけ足を踏み込むと、腰を低く下げて身体を縮こませた。
まるで獲物に飛びかかる直前の獣のような威圧感が迸る。思わず息を飲んだ。
コヨミはそんな姿勢のまま、囁くような低い声音を出した。
「……お前、一体誰?」
「ちょ、お前何やってるんだよコヨミ!」
「静かに」
思わず声を荒げて抗議しようとしたが――コヨミの気迫に押し黙る。
「…………」
どうやらこの異様な雰囲気に、ただならぬものを感じたらしい。
田淵は瞳だけを動かしてコヨミを見た。
その瞳に、先ほど俺が感じたような奇妙な感覚はない。
田淵はそのまま数秒ほど制止した後、ゆっくりと口を開いた。
「えっと……怖がられてる、のかな? はじめまして。私は浜九里くんと同じ大学に通ってる、文学科2年の田淵怜です。彼とは同じ学科の友達で、いつも親しくさせてもらっています」
「……颯太、本当?」
コヨミが横目で向けてくる、疑り深い視線に、俺はコクコクと頷くことしかできなかった。
「っ、あ、あぁ。本当だよ。あの子は田淵怜、俺の友達だ」
「…………そっか」
それだけ言うと、コヨミは再び田淵の方へ向き直った。
その異常なまでの警戒した態度に、流石の俺でもおかしいと気付けた。
冷たい汗が、頬を流れ落ちる。
「おい、コヨミ。言っておくけど、田淵は怪しい人じゃない。きっとお前の味方になってくれるはずだ」
「……そう」
俺の説明もどこ吹く風。コヨミは興味なさげに鼻を鳴らす。
いや――違う。
俺の話に興味がないわけではない。
その内容を理解できるほどの余裕が、頭の中にないだけだ。
視線の先――ガタガタと震える、コヨミの背中を見れば分かる。
コヨミだって怖いのだ。
精神的に不安定な時に見知らぬ誰かに声を掛けられたのだ。
それはまるで、遠い異国の地を訪れた観光客が、その旅先で厳つい容貌の現地民に囲まれた時のように。
誰だって突然、知らない人に声を掛けられるのは怖い。
俺だってそうだ。この前街を歩いている時、突然警察官に声を掛けられた時は心底驚いたものだ。
呼び止められた瞬間、頭の中で色々な思考が駆け回って、一瞬で全身に汗が浮かんだものだ。
……いや、これはちょっと違うか?
まぁ、それは置いといて。
この状況で大事なのは、コヨミの繊細な警戒心を少しでも刺激しないということだ。
そのためにはまず、田淵が無害な人間であると信じてもらわなければ。
俺は取り敢えず,田淵にコヨミのことを紹介することにした。
「田淵、この子はコヨミって言うんだ。近所に住む中学生で、色々事情があって学校には行けてないけど……友達なんだ。良かったら、仲良くしてくれ」
「へぇ、友達ねぇ。浜九里くんって私以外に友達いたんだ?」
「う、うるせぇ! ちゃんといるよ! 学部外とか、地元とかに!」
「ふふっ、そうなんだ。なんか安心しちゃった」
「安心って、お前なぁ……」
そんな風に、いつも通り軽快な調子で与太話に耽っていると。
「……おい、田淵と言ったな」
突然、コヨミの声が滑り込んできた。
ひどく緊張しているのか、強張った声色だった。
「うん、私が田淵だけど……どうしたのかな、コヨミちゃん?」
「っ、馴れ馴れしく呼ぶな……!」
「ふふん、ごめんね? で、どうしたの? 何か聞きたいことでも?」
「……その『ニオイ』はなんだ?」
一瞬。
ほんの一瞬だった。
時間で言えば人間の反射反応をも超えた、ほんの刹那。
だが、何故か俺は
コヨミの詰問を受けた田淵の顔から。
あらゆる表情が抜け落ちたのを。
「――――」
絶句する暇もなかった。
脳がその光景を知覚し、認識した瞬間には――。
「『ニオイ』、というと……えっと……?」
その顔はいつも通りの、見慣れた田淵のそれになっていた。
まるで物言わぬ関節球体人形に、人間の魂が吹き込まれたような。
そんな取って付けたかのような表情に、違和感を抱く隙すらなく。
「その、『ニオイ』っていうのは分からないけど……あっ、もしかして私、臭い!? うわぁ、昨日寝込んでてお風呂入れなかったもんなぁ……!」
慌てて自分の服の臭いを嗅ぐ田淵。
間違いない、いつもの田淵だ。
きっと今見えたのは気のせいか、幻覚だ。
最近は色々と立て込んでいたし、身の回りでも奇妙なことが立て続けに起こっていた。
多分、俺は疲れているんだ。
自分が思ってる以上に。
「しらばっくれるなよ。アタシには全部分かってるんだからな」
「えっと……コヨミさん、だっけ? ごめんね、臭かったよね私――」
「そういう問題じゃあないっ! お前だって分かってるんだろ!?」
「わ、分かってるって……一体何を?」
「その『ニオイ』だ! 即物的な物じゃあない、もっとこう……本能的な、いや、精神的に直接来るような……!」
「そんな風に曖昧な表現じゃ分からないんだけど……」
「っ、一体どこまで……!」
いまいち要領を得ない田淵に、今にも飛びかかりそうなほど殺気立つコヨミ。
このままではいけない。
メンタル面で不安定なコヨミにするべきことではないとは分かっているが、我慢できなかった。
「おい、コヨミ!」
「――っ」
ビクリ、とコヨミの肩が跳ね上がった。
一瞬、息が詰まる。
胸が張り裂けそうになったが、一度決意した言葉を抑えることはできなかった。
きっとこれが最善の選択だと考えて。
「初対面の人に対して、ついつい警戒しちゃうのは分かるけどさ……ちょっと、やりすぎだ」
「…………」
コヨミを傷つけないよう、可能な限り優しい声色で届ける。
言葉は選んだつもりだった。
出来るだけ波風が立たない単語。出来るだけコヨミを刺激しない表現。
細心の注意を払ったつもりだった。
だが、そんな配慮も無駄だったらしい。
ゆっくりと首を回してこちらを振り返ったコヨミの表情。
そこには、どす黒い絶望の色が滲んでいた。
困惑、動揺、拒絶、憤怒――ありとあらゆる負の感情が煮詰まったような顔。
(……あぁ、やらかした)
どうやら逆効果だったらしい。
俺は後悔の念に駆られていた。心のどこかで、こうなることは薄々勘付いていたのに。
「……何を、言ってるの?」
「だから……田淵に対して、そんな風に突っかかるのは止めてくれ」
「……っ!」
その一言は、コヨミの心を深く傷付けたのだろう。
彼女は怒りと悲しみで顔を歪ませて、俺の顔を見上げている。
歯を食い縛り、目尻には涙を浮かべている。今にも泣き出しそうな顔だ。
「なんで、なんでアンタもそんなことを……っ!」
「……ごめん」
「あ、アンタだけは絶対そんなこと言わないって信じてたのに! 裏切り者!」
俺は必死に弁明しようと思ったが、声は喉元で詰まって出てこない。
口を半開きにしたまま、コヨミから目を逸らすこともできない。
俺は自分の軽率さを呪うことしかできなかった。
「~~~~っっ!!」
そんな俺の態度で、遂に怒りが頂点に達したのだろう。
コヨミはギリッ、と音が鳴るほど歯嚙みして。
俺を、まるで
「この、この、にんげ――!」
「――ねぇ、やめなよ」
鋭い声が、俺たちの間を駆け抜けた。
ひどく酷薄で、冷徹な声。
一瞬で、全身の血液が凍り付く。
不意に断崖絶壁の真上に放り出されたような。
道端を歩いている時に、突然背後からナイフを突き立てられたような。
そういう類の、足が竦む恐怖が、俺の心を貫いた。
こつこつ、と足音が近づいてくる。
「コヨミちゃん。初対面の私を怖がるのは仕方ないとは思うけど、浜九里くんにそんな風に突っかかるのはよくないと思うな?」
やがて、声の主は俺たちのすぐ手前――コヨミの背後で立ち止まる。
コヨミの訴えるような『ニオイ』などは、特に感じなかった。
俺はゆっくりと顔を上げて。
コヨミは油の切れた機械のように、ぎこちない動きで振り返って。
穏やかに微笑む、田淵の姿を捉えた。
「ほら、浜九里くんも困ってるじゃん。『友達』に迷惑を掛けるのは駄目だよ、ね?」
「い、いや、違うんだよ田淵。俺は別に……」
「今はそういうことにしといて、ね?」
諭すような声で言いながら、田淵は目配せをしてきた。
『余計なことを言うな』と目で言われたような気がして、大人しく口を閉ざす。
「ま、そういうことでね、コヨミちゃん。気持ちは分かるけど、初対面の人には愛想よくしないといけないよ?」
「……」
「これは私個人の意見なんだけどね、やっぱり人って第一印象で決まると思うんだ。見た目とか雰囲気とか、それこそさっきコヨミちゃんが言ってた『ニオイ』とかね」
「……」
「ま、それは覚えておいてほしいな。コヨミちゃんより少しだけ長生きをしてる人間として、さ?」
「……にん、げん?」
「そうそう。人間」
呆然としたままのコヨミに、田淵は頷いてみせる。
「この社会はさ、人間同士の紐帯で成り立ってるんだよ。その中で生きるためには、常に周囲の人間との関係性を持たなければいけない。友達や家族、恋人、教師、同僚……そういった人々と円滑に、かつ強固に繋がる方法……それはね、愛だよ」
「……」
「人間は愛し、愛され、そういう関係の中で生きているんだ。ふふっ、尊いと思わない? 食物連鎖、弱肉強食……そんな世界で最強の種族となった人間たちを繋ぐのは、暴力や権力じゃない。愛だったんだよ」
まるで、諭すような口調だった。
いや、むしろ説教に近い。
聡明で思慮深い神父が、言葉によって無知蒙昧な庶民たちを啓蒙するような。
そんな口調。
頭が良く、賢い田淵だからこそ成し得る雰囲気に、コヨミはもちろん、俺ですら圧倒されていた。
(……こんな田淵、見たことない)
滔々と紡がれる、耳にしっとりと流れ込んでくるような声が。
コヨミを見下ろす、慈愛に満ちた瞳が。
戸棚に飾られた人形のように、美しく静かな佇まいが。
分厚いパーカーの下で浮き沈みする薄い胸が。
その全てが、俺の知らない田淵で。
そして、まるで魔法のような力で、俺の心を掴んで離さない。
「…………っ」
思わず魅入られてしまいそうになったが、慌てて思い直す。
何を考えているんだ、俺は。
田淵はあくまで、あくまで俺の友達なんだ。
男女の関係に発展するだなんて、あり得ない。あってはならない。
きっと田淵だって、それを望んでいるはずだ。
一時の気の迷いや肉欲で、この淡い友情を崩す訳にはいかないのだ。
「とまぁ、長々と喋ったけど……要するに、誰かを愛してもらいたいなら、誰かを愛さないといけないってこと」
「……」
「コヨミちゃんも誰かに愛してほしいなら……どんな相手だろうと怖がらず、対等に、一人の個人として尊重することを忘れずに、ね?」
「……っ」
田淵の言葉に、コヨミの顔が露骨に歪む。
だが、今度は先ほどのように飛びかかる様子は見せなかった。
コヨミは数秒ほど田淵を睨んでいたが――やがて、がくりと項垂れ、俯いたまま黙り込んでしまう。
意気消沈。
そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
「こ、コヨミ……」
思わず名前を呼ぶが、反応はない。
コヨミは俯いたまま歩き出すと、田淵のすぐ目の前まで進んで。
「……お前、どうして『ニオイ』が消えた?」
「え?」
「……今のお前からは、何も『ニオイ』がしない。何故だ?」
「えっと……あー、ごめん。ちょっと何を言ってるか分からないな?」
「………………ごめん。多分、アタシの勘違い、だったのかな」
それだけ言うと、コヨミは田淵の横をすり抜けて、俺たちから遠ざかっていく。どうやらそのまま帰るつもりらしい。
「お、おい!」
「いいんだよ、帰らせてあげて」
「でも……!」
俺は慌ててコヨミを呼び止めようとするが、田淵に制止される。
「あの子はね、今悩んでるんだよ。自分の在り方に」
「在り方? い、一体どうして……」
「多分、自分の本当の気持ちに気付いたんじゃないかな?」
「本当の、気持ち?」
「うん。一方的で、独善的な、相手の都合なんて一切考えない愛。……浜九里くんも、心当たりがあるんじゃない?」
そう訊かれて、言葉に詰まった。
思い当たる節はいくつかあった。
昨晩の膝枕の時も、さっきのハグも、いやそれずっと前、これまで続いてきた交流の中でも。
多少強引だと思う時があった。
少しだけ、ほんの少しだけ苛立ってしまう時もあった。
『相手の都合なんて一切考えない』……そう言われても仕方ない箇所は、いくつか思い当たる。
だが、それでも。
「あの子はまだ子どもだ。思春期で、情緒もまだ育ってないだろうし……そういう相手への思いやりとか、愛だのなんだのを求めるのは、ちょっと酷だろ」
「子ども?」
「ああ、そうだ。さっきも言った通り、あの子はただの中学生だ。多感なお年頃なんだよ。そんな時に、俺たちみたいな部外者があれこれ口出しするのは……」
「いいんだよ、別に」
「……え?」
「コヨミちゃんは、多分普通の女の子じゃないから」
「……?」
どういうことだ。
そう訊こうとして、コヨミが消えていった住宅街から視線を外し、田淵の顔を覗き込んだ――。
が、俺は何も聞けなかった。
夕暮れも過ぎて、薄闇に染まり始めた世界で。
田淵はぞっとするほど綺麗な、満面の笑みを浮かべていたから。
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