燃やしてはならないナニカ




「ああ、悪い。遅くなったな、颯太」


 がらがら、と音を立てて病室の引き戸が開いた。

 その向こうにいたのは、ビニール袋を手に提げた父さんだった。

 中からアーモンドミルクとゼリー飲料が顔を覗かせている。


「……………あ……?」


 声が出た。

 一瞬、呼吸することすらも忘れていた。


 何も考えられなかった。思考が息絶えていた。時の流れが止まったかのように感じた。


 何度目を疑っても、間違いなく父さんだった。今まで人の気配などまったく感じなかったのに。


 そんな沈黙の中、コヨミは少しだけ首を回す。

 そして、扉の前に立つ父さんの顔を確認すると。



「へぇ、そうか」



 喜色を滲ませた声に、びくっと身体が自然に縮こまった。



「父親もいたのか」



 ぷちん、と。



 頭の片隅で何かが千切れた音が響いた。



「テメェ、それやったら殺されても文句は言えねえぞ……!」


 ほぼ無意識だった。

 何の思考も躊躇もなく、そんな言葉がまろびでた。


 敵意が、怒りが、悲しみが、そして溢れんばかりの殺意が込められた声色。

 俺ってこんな声出せたんだ、と頭の片隅でぼんやりと考えた。


 そんな声を聞いて、コヨミは少しの間呆然としていたが、やがてすうっと目を細めて。


「殺す? お前が、人間が? 面白い。やってみろ」


 馬鹿にしている。

 嘲笑と侮蔑を隠そうともしない声だった。


 コヨミは俺を徹底して下に見ている。馬鹿で無力で口だけが達者な人間の一種だと、本気で考えている。

 人間を遥かに凌駕する力を持つ上位存在特有の目で、俺を眺めている。

 なんだか涙が出そうになった。


「……父さん、警察に電話。お願い」

「え……?」

「いいから早く!! 病室に不審者がいるっ、コイツこの病院に放火するつもりなんだよっ!!」


 全力で叫ぶ。腹の底から搾り出したような絶叫が病室に響いた。

 父さんは何が起こっているか分からない様子だったが、直感でただならぬ雰囲気を感じたのか。


「わ、分かった!」


 そう言い残すと、弾かれたような勢いでその場から駆け出した。


「……父親を逃がしたのか。アハッ、親孝行だな」

「それだけが取り柄だからな」

「そうか。それで? あんな啖呵を切ってまでやりたかったことが父親を逃がすことか?」

「……っ」


 じろり、とコヨミの据わった目が俺を射抜く。口元は半月に歪んでいるのに、目は笑っていない。

 異様な表情に思わずたじろいてしまう。


 そんな俺に、狂気が滲んだ空色の瞳は雄弁に語っている。


『お前はこんなものじゃないだろう?』

『楽しませてくれ、人間ヒューマン


 と。


 冷たい感触が背筋を駆け抜ける。額に珠のような汗が浮かんでいるのが分かる。


 ぎゅぴり、と音が鳴る。カラカラに乾いた喉で唾を飲み込んだ音だった。


「さて、これでお前の抵抗は済んだ――そう解釈していいのか?」

「……ッ」

「人の子にしてはよく頑張ったと褒めておこう。お前はよくやった。誇れ。……人間風情がこの私をコケにしやがって。ナメるのも大概にしろ」


 穏やかな口調になったかと思えば、次の瞬間には冷徹な色に染まる。

 まるで感情のジェットコースターだ。目の色と表情、雰囲気までもがコロコロと絶え間なく変化していく。


 人間の表情というものに心底恐怖を抱いたのは――これが生まれて初めてだった。

 例えそれが、人間の皮を被った化け物だとしても。


 コヨミは冷たい視線で俺の全身を舐め回すように見渡した。

 人間に向けるものではない。まるで実験動物か何かを見るような目に、異様な緊張感が肌を刺す。


「だが、私とて鬼ではない。そうだな――」


 そして、何かを思い付いたように頷くと。


「手の指三本。自分で焼き落とせ」

「……は?」


 俺はその言葉の意味が理解できなかった。


「やき、おとす……?」

「日本のヤクザがよくやるだろう、エンコだ。自らの指を自分自身で切り落とし、誠意と謝意をアピールする。つまりは謝罪だ。私に歯向かうという愚行を犯したことに対する謝罪だ」

「しゃ、謝罪……」

「罪にはそれ相応の罰が必要だ。罪を犯した者はそれに見合う報いを受けなければならない。それはどんな時代でも変わらない不文律だ」


 コヨミは俺から目線を切ると、部屋の壁際に向かった。その先には先ほどまで俺が寝ていたベッドがあり。


「ふんっ」


 その脇に取り付けられた木製の手すりを、彼女は片腕だけで引き千切った。まるで樹木になった果実をもぎ取るかのような軽い動作だった。

 そのまま引き千切った手すりを軽く振る。すると、ぼっ、と音を立ててその先端に火が灯った。まるで暗闇を照らす松明か、聖火を宿したトーチだ。


「なに、簡単なことだ。火種は用意してやった。これを自分の指に近付けるだけで全ては済むはずだ。まぁ、骨肉が焼け爛れる中で想像を絶する苦痛に苛まれるとは思うが」

 

 コヨミは轟々と燃え盛る炎を俺の眼前まで突き付けてくる。

 じりじりと肌を焼く熱気に、思わず身体が竦み上がった。


「安心しろ。炎が指以外を燃やすことはない。そういう制限を掛けてある。だから……」

「ひっ……!」


 ゆっくり、ゆっくりとコヨミが迫ってくる。

 俺の脳裏には、先程目の当たりにした光景が広がっていた。

 コヨミの炎は本来燃えるはずなどない、鉄製のパイプ椅子を跡形もなく焼失させた。


 そんな炎が人間に――。


 そう思うだけで、気が狂いそうになるほどの恐怖が襲ってくる。


「や、やめてくれ……」

「駄目だ。これはお仕置きなんだ。お前があろうことか私に逆らった罰、その報いを受けさせるための行為。……痛みこそが最高の教訓だと推して知れ」


 もう何を言っても分かってもらえない。この化け物から逃げる方法なんてない。

 そう気付いてしまった俺には、最早その場に突っ立ったままコヨミと目を合わせていることしかできなかった。


――もう、駄目だ。


 俺はカチカチと音を鳴らす奥歯を嚙み締めて、やがて来るであろう業火の灼熱と激痛に備えた。


 ただ怖くて、恐ろしくて、それでも何とか抵抗の意志を表するために――眼だけは見開いて、迫りくるコヨミを睨んでいた。


「アハッ、覚悟も済ませたな? それじゃあ遠慮なく――」


 コヨミの嘲笑が、炎が、段々と近付いて――。



 

 パッと消えた。




「……は?」


 消えた。

 そうだ。消えた。コヨミも、彼女が持っていたトーチも、全て消えた。


 いや、違う。消えたのではない。


 俺が一瞬にして移動したのだ。病室からここ――病院の屋上に。


……時間が、飛んだ?


 いや、それも違う。頭に浮かんだ突拍子も無い思考を振り払う。

 時間なんて飛んでいない。俺は何が起こったかを見て、聞いて、理解している。


 俺は真っ直ぐコヨミと対峙していた。そんな俺にコヨミが手を伸ばし、その指先が俺に触れようとした。

 だがその瞬間、誰かに身体を抱きかかえられ、そのまま屋上まで連れて来られたのだ。目にも留まらない、凄まじいスピードで。



 そして、俺を窮地から救ってくれた命の恩人は――。


「……ナニガシさん」


 振り返った先、ベンチに座っている女性。


「やっほー」


 銀髪を揺らした彼女――ナニガシさんは俺の顔を見ると、いつもと同じくにへらと気の抜けた笑顔を見せた。

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