END2『どうか神の御慈悲を給え』後編
この部屋に押し込められて、一体どれだけの年月が経っただろう。
最初は目覚めるたびに壁に引っ搔き傷を付けていたが、やがて傷を付ける余白が無くなったので止めた。
多分この部屋があと数百倍広ければ、まだ地道に日数を数えていただろう。いや、あまりにも途方が無さ過ぎて止めていたか。既にそれくらいの年月が経っている。
「ぅぁ……」
喉がカラカラに乾いていて、助けを呼ぶ声すら出なかった。空気が漏れるか細い音が、窓一つない部屋に虚しく響く。
「待たせたな」
ゴゴゴ、と音を立てて分厚い鉄扉が開く。
部屋に入ってきたのは、桃色の髪と空色の瞳を持つ、小さな女の子だった。
「今日はお前の好物を作ってみた。スペアリブだったか? まぁいい……ほら、冷めないうちに食え」
彼女は錆び果てたトレーを持っていて、その上には香ばしい匂いを放つ沢山の料理と薄いココア色の液体が満ちたグラスが載っていた。
分厚いスペアリブ。茶碗蒸し。板チョコ。アーモンドミルク。
「……いら、ない」
「折角丹精込めて作ったんだ。ちゃんと食え」
「……こ、こわいんだ。それを、たべるの」
「怖い? なぜだ?」
「……あ、ああ、あらがえ、ないか、ら」
顔を動かすのすら億劫で、俺はヒビ割れた唇だけを動かして言葉を紡いだ。
その両端から涎が滝のように溢れ出ているのを自覚しながら。
「……それ、は、おまえの、ちにく、なんだ、ろう? おれ、は、しって、る、んだ。おまえ、が、ちからを、つか、って、じぶんのからだ、の、いちぶ、を、りょうりにへんかん、してるっ、てこと……」
「あぁ、そういえば昔そんなことを言った記憶があるな……ん、本当に言ったか? そんなこと言ってないような……んん?」
「……しる、かよ」
奇妙なことを口走る彼女から目を逸らしながら、悪態を吐き捨てる。
この部屋に閉じ込めた張本人であり、俺の生殺与奪権を握っている彼女に口答えするなど半ば自殺行為だ。頭では理解している。だが、もうこの苛立ちを――虚しさを止めることは出来なかった。
「またそんなことを言って……ほら、このチョコレート、好きだっただろう? 味も外見も可能な限り寄せてみた」
彼女は部屋の中央に置いてあるテーブルにトレーを置くと、その上から板チョコを手に取った。
ご丁寧に一欠片ずつ切り分けられていて、小さな皿に盛られている。
それはかつて、俺がコヨミと一緒に立ち寄った深夜のコンビニで買った物と同じ銘柄だった。
「……おい、口を開けろ」
そしてそのまま俺の傍まで歩み寄ってくると、壁に背中を預けていた俺の身体を抱きかかえてきた。
「口を開けろ」
「……」
瘦せ細った両腕では、迫りくる彼女の手を払い除けることもできない。
それでも萎びた意思はささやかな抵抗を行うことを選んだ。唇をぐっと絞り、頑なに口を塞ぐ。
「抵抗のつもりか?」
非難めいた声が寒々しく響く。俺は何も返さなかった。
「はぁ……」
彼女は溜め息を一つ吐くと、キッと目の色を変えて。
「このっ、愚図がッ!!」
「っ、ぐぅっ……!」
渾身の力で頬を引っ叩いてきた。
衝撃と激痛で一瞬視界がチカチカと明滅する。口の中に血の味が広がった。
ジャリ、と硬い感触。歯が砕けたのが確認せずとも分かった。
俺が素直に言う事を聞かなかったり、無理矢理自殺しようと舌を嚙み切ったりすると、決まって彼女は『お仕置き』と称して暴力を振るった。
今のようにビンタや拳は日常茶飯事。今では回数は減ったが、激しく抵抗していた頃は指の爪を剝がされることもあった。
痛いのはもう慣れた。どうせもう逃げられる訳がないと悟ったからだ。
代わりに心が死んだ。もうビンタ程度ではあまり心的ショックを受けなくなっていた。
「……っ、いった……」
「今更拒もうと無駄だ。既にお前の身体はほとんど神力に変換されている。これが何を意味するか分かるか?」
痛みに悶えていると、がしり、と彼女は片手で俺の頬を掴んでくる。そして人間の所業とは思えないほど凄まじい力で、簡単に口をこじ開けられてしまった。
「ん、ん……! ぅんぅ……!」
「つまりだ。お前はもう人間ではないんだ。神と人間の中間体。現人神、というやつだ」
彼女は淡々した口調で説明しながら、ぱっかりと開いた俺の口にチョコレートを放り込んできた。
口の中に芳醇で鮮烈な甘さが広がる。久し振りの甘露。涙が出そうになった。
どこまでも絶望に浸る心とは裏腹に、身体は彼女への服従と隷属を叫んでいた。
「分かるか? もうお前は人間じゃないんだ」
「……っ」
思わず顔を苦悶に歪めると、彼女は恍惚とした笑みを浮かべた。
「普通の人間なら、とっくに寿命で死んでしまうほどの時間が過ぎている。だのにお前の姿はあの時のままだ」
「……」
「それに、分からないか?」
彼女は俺の頬にそっと手を触れた。まるで脆い陶磁器に触れるかのような手付きだ。
「さっきの張り手。私はお前の首を飛ばすつもりでやった。だがお前は頬に赤い跡が残ってるだけだ。……いや、口の中も切れたのか」
俺の口から溢れ出す、赤が混じった涎を眺めながら彼女は言う。
「普通の人間なら首が三回転はしていた威力だ。それでも無事ということは……順調だな」
満足そうに頷くと、彼女は俺の頭を撫でた。
「……神格が自我を保つためには、誰かから覚えられている必要がある。誰かから向けられている感情——たとえば敬意や畏敬が、我々を生かすんだ」
「…………」
「私は人間たちの恐怖や畏敬で、あと数百万年は存在を維持できるだろう。そして悠久の時を経ても、私は片時たりともお前を忘れない」
つまり。
「お前は私がいるからこそ、存在を保てているんだ。お前は私がいなければ生きていけないんだ」
眼前に突き付けられた事実に、目の前が真っ暗になった。
俺の心は、一瞬にして絶望的な気持ちに覆い尽くされた。
とうの昔に枯れたはずの涙腺が熱を帯びてくる。
バラバラに打ち砕かれた心が、更に細かく粉砕されていくのが分かる。
俺はもう人間じゃない。俺はもう人間じゃない。
俺はもう、コイツの同類なんだ。
その事実に、俺の心は軋み、悲鳴を上げた。
「……………この、化け物が」
怨嗟が詰まった悪態が溢れ出る。マズイと思ったが、抑え切れなかった。限界だった。
目の前の女は最早コヨミではない。化け物だ。人間に上手く擬態しただけの、血も涙もない怪物。
俺をこの薄暗い部屋に閉じ込め、あらゆる自由を奪った悪魔。
数え切れない程の人質の命を盾に、俺を自らの奴隷に貶めた身勝手な悪党。
それが今、俺の目の前にいる少女の正体だ。
こんなのが神だなんて――片腹痛い。
「……化け物。化け物。化け物。どんなに可愛い姿で取り繕っても、醜い本性が透けて見えるんだよ。薄汚い怪物ごときがよ……」
頭に浮かんだ罵倒をそのまま口にしていく。この瘦せ細った肉体では最早こうすることしか出来ない。
「……」
ぴくり、とコヨミの眉が少しだけ動いたのを見逃さなかった。
「あ、キレたな? あんまりにも図星だったんで頭に来たな? ほら、殴れよ。いつもみたいに暴力を振って黙らせてみろよ? ビンタでも右ストレートでも腹パンでも、なんでもいい。ほらほら、俺を黙らせてみろよ……なぁ!?」
畳み掛けるように挑発を繰り返すと、次第に彼女の細い身体が震えていくのが分かった。拳が固く握り締められ、瞳孔が開き、耳が真っ赤に紅潮していく。
そうだ。そのまま怒れ。怒り狂え。憤怒で我を忘れてしまえ。
そして、どうか一思いに殺してくれ。
頼む。お願いだ。どうかお願いします。
もう辛いんです。もう嫌なんです。暗いのも痛いのも怖いのも。もう限界なんです。
だから、本当に、お願いします。
この長い長い悪夢のような監禁生活に終止符を――。
「……アハハッ」
「…………え?」
「まったく、酷いこと言うじゃん颯太。アタシがなんか悪いことした?」
もう俺は何も言えなかった。
ただただ、彼女の顔を呆然と見つめることしか出来なかった。
「アタシはさ、本当に颯太のことが心配なだけなんだよ?」
不気味なほどに引き攣った口角を。
「あの変な上位存在にばっかり言い寄られててさ、本当に不安だったんだ。アタシの颯太が、アタシだけのものなのに、横から掠め取られるんじゃないかって」
眼球が零れ落ちそうになるほど見開かれた双眸を。
「だから颯太をこんな部屋に押し込めたんだ。もうこれ以上、颯太のことをモルモットか何かとしか思ってない奴らに触らせたくなかったから。でも……でも……うぐぅぁ……」
突然激しい頭痛に襲われたかのように歪んだ表情を。
「……ナメた口を利くな。ぶち殺すぞ、人間」
顔をぐしゃぐしゃに濡らす、滝のような涙の軌跡を。
ひゅるる、と乾いた風が甲高い音を鳴らす。
その冷たさと何かが焼ける匂いでハッ、とコヨミは我に返った。
周囲を見渡すと、どうやらそこは古い教会跡らしい。壁は崩れ、板張りの床は腐り抜け落ちている。
ボロボロに風化し、砂に環りつつあるカーペットの上には黒焦げた奇妙な物体と——朽ち果てた十字架が落ちていた。
鉄製らしいそれは、まるで高熱に炙られたかのようにぐにゃぐにゃに変形している。まさに神に見捨てられた、という言葉が相応しい光景だった。
見覚えのない景色だ。この古い聖堂も、抜け落ちた天井の穴から覗く灰色の空も、地平を埋め尽くす廃墟の街並みも。どれも知らない光景だった。
コヨミは何故かズキズキと痛む頭で、どうやってここまで来たのかを思い出そうとして――。
「……っ」
突然鼻腔に流れ込んできた、あの悪臭に思考が断ち切られた。
その臭いだけは、嗅いだ瞬間に思い出すことが出来た。
まるで魂そのものに、その臭いに関する情報が深く刻み込まれているかのように。
「……はぁ、匂い立つな」
コヨミは眉間に皺を寄せると、溜め息を吐いた。
「いい加減、諦めたらどうだ。アレはもう、お前のことなどとうの昔に忘れている」
言いながら、焼け落ちた門の奥に視線を投げる。
黒焦げになった扉を吹っ飛ばして現れたのは、予想通りの姿をしたモノだった。
「最近、鏡で自分の顔を見たか? 酷い有り様だな。燼滅の炎に魂ごと肉体を焼かれながらも蘇生と回復を続けた姿……アハハッ、醜悪な怪物に相応しい見た目だなぁ?」
――かえせ。かえせ。はまぐりく、を、かえせ。
最早原型を留めていない口から溢れ出すのは、駄々っ子のような言葉。あるいはうわ言。
きっとそれを言っている本人はその言葉の意味すら忘れてしまっているのだろう。
哀れだと思った。心の底から。愛を求め続けるというのは、ここまで醜く厄介な行為なのか。
あんな姿になってもなお、あの化け物は愛を求めて彷徨い続けている。
あんな身勝手な愛を受け止めてくれる存在など、この世に一人たりとも存在しないというのに。
「……私はあんなモノに心底震え上がっていたのか」
右手には神力の剣を、左手には炎を滾らせ、ゆっくりと扉へ向かって歩き出す。
その足取りはなぜか無性に軽かった。
――わたしの、わたしのもの、は、はは。
「その口では愛を囁くことも出来まい。その腕ではアレを抱き締めることも出来まい。……いや、それ以上にアレを前に食欲を抑え切れるのか? どうせ見境の無いケダモノのように、アレを自らの血肉としようとするだろう? ……痴れ者が」
ずしん、ずしんと大きな歩幅で近寄ってくる。
その歩調にはまるで理性を感じない。
獣。いや、機械だ。ただただ無意識のままに愛を求める、哀しい機械。
「でもまぁ、お前の気持ちは理解できる。そのような姿になっても、アレは愛しいものだ」
そう言って、コヨミは薄く笑った。
遥か遠い昔、顔も名前も忘れた化け物から『お前は同類』だと言われたことがあった。
激しく憤ったものだが、今思えばその通りかもしれない。
人の姿を保っている自分も、たった一人の人間のために地球を丸ごと焼却してしまったのだから。
同じ化け物だからこそ、同類としてこの化け物を弔ってやりたくなった。
「……来い。一度は同じ人間を奪い合った仲だ。何度でも何度でも、気が済むまで燃やし尽くしてやろう」
そして、コヨミは炎を滾らせた。
たったの数ヶ月で人類を、惑星を、そこに根差した46億年の歴史ごと焼き捨てた地獄の業火を。
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