END2『どうか神の御慈悲を給え』前編



「さあ、早く答えろ」

「……ッ」


 コヨミから迸る威圧感に俺は思わず面喰ってしまう。言葉を失った。

 呼吸が落ち着かない。心臓が凄まじい勢いで脈打つのを感じる。


 今俺の目の前に立っているコヨミは、もう俺の知るコヨミではない。


 理屈は分からない。

 だが、直感が、俺の本能がそう叫んでいる。


 戸惑い、躊躇い、それでもなんとか長い時間を掛けて言葉を絞り出す。


「もし……」


 掠れた声は、情けなくなるほど震えていた。


「……その要求を断ったら、どうなる?」


 恐る恐る尋ねると、コヨミは心底つまらなさそうに鼻を鳴らした。


「人の子とはいえ、お前なら分かるだろう?」


 コヨミは仏頂面のまま人差し指を振る。するとその指先が眩い炎に包まれた。


「手始めにこの病院を焼こう。医者から看護師、患者まで全員皆殺しだ。設備も建物も灰すら残さない。ただ一人……お前だけを除いてな」

「それ以外の人間は……?」

「殺す」

「……子どもや老人でも、か?」

「当たり前だ」


 淡々とした口調で語るのは、残酷な決意。それは炎のような熱を帯びていて、氷のように冷たかった。

 冷酷。どころではない。無慈悲を通り越して理不尽ですらある。


 俺はゆっくりとコヨミの目を見た。

 空色の瞳は真っ直ぐ、俺を捉えて離さない。

 やはりコヨミは本気だ。本気でこの病院内の人間を鏖殺するつもりだ。


 思わず目を覆い隠したくなった。

 目の前に広がる残酷な現実から目を逸らしたくなったのだ。


「……クソッ」


 俺はどうにもならなくなって、視線を足元に落とした。

 細く青白い足。大学に入ってから運動する機会ががくんと減った。高校時代よりも体力も筋肉量も削れているだろう。全力疾走出来ても、精々数十秒が限界だ。


 果たしてそれだけの身体能力で、この場から逃げ出せるだろうか?


 以前、コヨミとふざけて腕相撲をしたことがある。

 当然俺の圧勝だった。コヨミが不健康な生活を送っていたこともあるだろうが、コヨミの腕力や体力は同年齢帯の女子と比較してもかなり低い方だと思う。


 あの炎を産み出す能力を使う前。

 気が緩んでいる瞬間、不意を突いて力任せに押し倒せば、ある程度隙が生まれるはずだ。

 一か八か。分の悪い賭け。

 だが、最早この場を切り抜ける術はこれしかない。


 一縷の可能性。それに全てを懸ける。


(やるしかないんだ……今、ここで……!)


 ゴクリと生唾を飲み込む。拳をギュッと力強く握り締めて、なけなしの勇気を搾り出す。

 そして足を踏み込み、余裕ぶった表情のコヨミ目掛けて体当たりしようと身を縮めた。


 その時だった。


「ああ、悪い。遅くなったな、颯太」


 がらがら、と音を立てて病室の引き戸が開いた。

 その向こうにいたのは、ビニール袋を手に提げた父さんだった。中からアーモンドミルクとゼリー飲料が顔を覗かせている。


「……………あ……?」


 声が出た。一瞬、呼吸することすらも忘れていた。

 何も考えられなかった。思考が息絶えていた。時の流れが止まったかのように感じた。


 そんな沈黙の中、コヨミは少しだけ首を回す。

 そして、扉の前に立つ父さんの顔を確認すると。



「へぇ、そうか」



 喜色を滲ませた声に、びくっと身体が自然に縮こまった。



「父親もいたのか」



 ぱりん、と。



 頭の片隅で何か大切な物が砕け散った音がした。



 全身に漲っていた渾身の力が霧散に、身体を取り巻いていた熱が急激に冷めていく。

 胸にぽっかりと大穴が空いたような気分になり、その隙間を虚しさと悲しみが埋め尽くしていく。


 涙すら出ない。心が急速に枯れ果てていくのを感じる。

 まるで得体の知れない何かに魂を吸い取られているような気分だ。


 ……もう、俺には選択肢などなかった。


「……父さん、ごめん。実は今、友達と凄く大事な話をしてるんだ」

「え……?」

「少しの間、部屋の外で待っててくれないかな?」

「あ、あぁ。分かった」

「多分10分くらいで終わると思うから」

「別に父さんのことは気にしなくていいから。終わったらまた声を掛けてくれ」

「……うん、ありがとう」


 父さんは困惑しながらも納得してくれたようで、不思議そうな表情のまま部屋を出ていく。


 そして、ぱたん、と扉が閉まった瞬間。



「頼む」



 俺はコヨミの方を真っ直ぐ向いて深々と頭を下げた。



「父さんにだけは手を出さないでくれ」


 

 コヨミがにたり、と気味が悪いほどの満面の笑みを浮かべたのが手に取るように分かった。


「なら、分かってるな?」

「……あぁ」

 

 取るべき行動など最初から分かり切っていた。

 多分、この部屋にコヨミが現れた瞬間から、運命は定められていたのだ。


 俺は最初から、皿に盛り付けられた供物だったのだと、今更気が付いた。


 俺は頭を上げると、膝から床に崩れ落ち、両膝をぺたんと着けてゆっくりと両手を挙げる。

 まるで銃口を突き付けられた逃亡犯のような格好だ。


「もう、好きにしてくれ」


 それは、敗北宣言だった。自らの屈服を、運命への隷属を他の誰でもない、自分自身で認める言葉だ。


「クフフ……アハハハハハ……!」


 俺の宣告を聞き届けたコヨミは、また狂ったような笑い声を上げる。


「そうだ、こうすればよかったのか……最初から……!」


 コヨミは俺の前髪を掴み取ると、そのまま強引に顔を引っ張り上げてくる。そして俺の目を覗き込んできた。

 至近距離で見つめた彼女の空色の瞳は、まるで曇天のように曇り果てていた。


「いいか、お前の命はこの瞬間から私のモノだ。所有物だ」




「お、おい……? 大丈夫か、颯太……?」


 颯太の父親は恐る恐る病室を覗き込んだ。扉の向こう側から何も聞こえてこなくなってから、かれこれ10分以上は経っていたのだ。


「あれ、いない……?」


 病室はもぬけの殻だった。颯太は勿論、彼が対峙していた奇妙な格好の少女もいない。


 がらんとした病室。

 そこにあるのは開け放たれた窓と。


「っ、これ、火だ! し、消防に連絡を――!」


 床に。壁に。天井に。

 その空間の酸素を喰らい尽くすように広がった業火だけだった。



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