名無しの化け物


「やっほー、浜九里くん」

「い、一体今のは……」


 いつもと何ら変わらない様子のナニガシさんに、震える声で問い掛ける。


 胸がざわめいている。呼吸が落ち着かない。


 どうしてこの場所にいるのか。今まで何をしていたんだ。どうして俺を助けてくれたんだ。

 

 訊きたいことは山ほどある。何か一つでも回答を得て、この状況を少しだけでも理解したい。

 でも、それ以上に俺の中で膨れ上がっていく感情があった。


 それは奇妙な納得だった。

 

 間違いない。今のはいつか感じた、時間が『圧縮』した感覚。



――まさか。



「アナタ、だったんですか?」



 ぽつり、と言葉が滑り出る。



「今まで、時間を『圧縮』させていたのは」



 辛うじて搾り出した声は掠れ、震えていた。


 確かにナニガシさんは普通の人間にはない、独特の雰囲気を纏っている。

 今まで見たことのないタイプの人間だ。だからこそ俺は心のどこかで苦手意識を抱いていた。


 とはいえ、ナニガシさんだってただの人間だ。コヨミみたいに奇妙な格好をしている訳ではない。周囲を圧倒するような絶対的な存在感を放っている訳でもない。ただただ普通だ。

 現に今だって見慣れた白いワンピースとジャケット姿で、ほんわかとした雰囲気を纏っている。

 

 だからナニガシさんがあんな奇妙な現象を引き起こしているだなんて、とてもではないが――。



「うん。そうだよー」



「――」


 あっけらかんとした声。俺は思わず言葉を失った。

 ずしん、と重い感触が臓物の奥に響く。


「今のが300倍かな? つまり、今の1秒で300秒――5分もの時間が経過したんだよ。そして、その瞬間的に加速した時間の中で動けたのは私だけ。どう、凄いでしょ?」


 心臓が痛い。胃がヒクヒクと痙攣しているのが分かる。今にでも胃の内容物を全部吐き出してしまいそうだ。


 瞼を固く閉じて、開く。また閉じて、開く。それを何度か繰り返す。そして俺は改めてナニガシさんの顔を見た。


 いつもと同じ、綺麗な顔。透き通るような声。心の底から見透かされそうな澄んだ視線。


 それが怖い。どうしようもなく。


「アナタも……同じなんですか……?」


 枯れた喉が、潰れた声を奏でる。


「コヨミと同じ、化け物だったんですか……!?」

「うん」

「――ッ」


 はっと飲み込んだ吐息。息が詰まり、その苦しさでこれが紛れもない現実だと悟る。


 何の臆面も無く、ハッキリと言い放ったナニガシさん――その穏やかな表情が、彼女の言葉が決して冗談でも何でもないことを証明していた。


 頭が無性に痛い。見えざる何かの手で脳を直接握り潰されているかのようだ。


「まぁ、別にいいじゃん。同じ形なんだし、私も人間ってことにならない? 駄目?」


 何もできずにいる俺を前に、ナニガシさんはゆっくりとベンチから腰を上げて歩み寄ってくる。


「ほら、大丈夫だよ? 落ち着いて?」

「…………あ」


 抱き締められている。そう気付いたのは一瞬遅れてからだった。

 ふわり、と甘い香りが漂ってくる。柑橘のような、お菓子のような、詳しくは分からないが、とても良い匂いだ。柔らかい芳香が身体を取り巻いて、不思議と気分が落ち着いてくる。


「ナニガシ、さん」

「ほら、深呼吸。吸って……吐いて……吸って………吐いて………」


 ナニガシの言葉に従って深く息を吸い込み、肺が空になるまで吐き出す。それを何度か繰り返していると、俺の心は完全に冷静さを取り戻していた。


「ほら、落ち着いた?」

「……はい」


 俺から腕を離したナニガシさんと至近距離で見つめ合い、深く頷く。


 彼女の瞳は吸い込まれそうになるほど透き通っていて、その奥には何の感情も読み取れなかった。宝石をそのまま埋め込んだかのような輝きだ。


 俺はもう一度だけ深呼吸をすると、ナニガシさんの瞳を覗き込みながら静かに口を開いた。


「……アナタは一体何なんですか?」

「うーん、あー、一応言っておこうかな?」

「……お願いします」

「いいよー。あ、でも、その前に」


 彼女は俺の腕を優しい手付きで掴むと、そのまま細く息を吐いた。


「――ッ」


 パッ、と景色が変わる。

 気付いた頃にはもうそこは病院の屋上ではなく、見覚えのない路地裏だった。

 一瞬戸惑ったが、その直後脳内に流れ込んできた記憶の断片を読み取って状況を理解する。

 

 どうやらナニガシさんはまた時間を『圧縮』した瞬間移動を行ったようだ。

 先程のように俺を脇に抱えると、屋上から非常階段を使って地上へ。

 そのまま病院から1キロほど離れたこの路地に逃げ込んだ……というのがこの一瞬で起こった出来事らしい。


 なんだか奇妙な感覚だ。一瞬の出来事なのに、その全てを最初から最後まで知覚し、既に情報として脳内で処理している。まるで脳内に直接情報を注ぎ込まれたような気分だ。


 違和感、どころではない。今までの人生で体験したことがない感覚に頭がズキズキと痛む。


「大丈夫? 具合悪いの?」

「い、いえ、大丈夫です……」

「そう? ならいいや」

「……あの、この現象ってナニガシさんの……えっと、能力、ですよね?」

「うん、そうだね」

「…………ナニガシさんって、本当にばけ――っ、人間じゃないんですね」

「まぁね」

「……貴女は一体、何なんですか?」


 その時、どこか遠くでガラスが木っ端微塵に吹き飛ぶ音が聞こえてきた。狭い路地裏にぱぁぁん……という残響が木霊する。


「うーん、あんまり時間が無いようだから手短に話すね。まず私の正体は――」


 その言葉は最後までは続かなかった。



「また邪魔をするのか……お前は……!」



 全身の細胞が一瞬にして凍てつくような殺意。


 怒りに震えた声に、俺はぴしりと固まってしまう。だが、ナニガシさんは溜め息を吐くと至って涼しい顔で声のした方角を向いた。

 

 裏路地の入り口に、その人影は立っていた。

 ゆらゆら、と陽炎に包まれているかのように輪郭が揺れている。空色の虹彩を持つ眼は限界まで見開かれ、その丹精な顔立ちは怒りに満ち満ちているようだった。

 

「…………」


 コヨミは灼熱の炎を纏い、静かにその場に佇んでいた。

 

「ふふっ、正体現したね? もう取り繕うのも止めたんだー?」

「颯太を返せ。そうすればせめてもの恩情として苦しまずに一瞬で焼き捨ててやる」

「へっへっへっ、血気盛んだねぇ、随分と。ついに本性を隠さなくて羽根を伸ばしたくなったのかな?」


 へらへらと笑いながら、ナニガシさんは俺の前に歩み出て、コヨミと真っ向から対峙する。どうやら俺を守ってくれるようだ。


「ねえ、浜九里くん」

「はい?」

「本当は今すぐやるつもりだったけど……もしこの馬鹿を殺せたら、私の故郷に連れていくからね?」

「こ、故郷に?」

「とても素敵な所だから、きっと気に入ってくれると思うよ」

「へ、へぇ……」


 俺とナニガシさんは背中越しに囁き声で会話する。

 ナニガシさんの故郷に関する話は何度か聞いていた。それこそ少なからず苦手意識を持っている相手の話でも漠然とした興味を持つほどには。


 ……故郷。故郷か。

 つまり、ナニガシさん――時間を『圧縮』する能力を持つ、正体不明のナニカが産まれた場所。

 考えずとも分かる。絶対にろくでもない所だ。


 咄嗟に断ろうとした。だがナニガシさんの正体がどうであれ、彼女は俺の命の恩人だ。

 そして今も、暴走するコヨミから俺を守ろうと自分の身体を盾にしてくれている。

 そんな彼女からの提案を軽率に断ってもいいのだろうか……。


「何をコソコソと話している?」

「別にいいでしょ? 内緒話くらい」

「また時間を狭めて逃げる算段でも立てているのか? 無駄なことを」

「……もしそうだ、って言ったらどうする?」

「……なんだと?」


 コヨミが首を傾げる。それと同時。

 


「ふふっ、もうちょっとだけ付き合ってね?」



 いつの間にか俺の背後に回り込んでいたナニガシさんが、ぽん、と俺の肩を叩いて。



「体感速度500倍! 音速越えの超特急の旅へとごあんなーい!」



 時が再び『圧縮』した――。



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