人はそれを愛と呼ぶんだぜ
これは一体なんだ?
俺は今、何を見ているんだ?
違う。俺は全てを見て、感じ、知り、理解している。
超高速で流れ、一瞬で彼方へと消えていく景色。
コンビニ、タバコ屋、フランス料理店、雑居ビル、高層マンション、散歩途中の老婦人、信号待ちをしている軽自動車……目に映るもの、その全てを認識している。
奇妙な感覚だった。頭がどうにかなりそうだった。
「アハハッ、たっのしー!」
ぐわんぐわんと揺れる頭の中、甲高い声が響く。
「いやぁ、こういうのが『ゾーン』に入ってるってやつかな!? なんかはちゃめちゃに気分がいいんだ! こんなに爽快な気分になるのは生まれて初めてだよ!」
身体を抱きかかえられたまま眼だけを動かしてナニガシさんの顔を――。
「あっ、どうしたのかな浜九里くん! なんか忘れ物でもした!?」
ゾッとした。どころではない。
全身の毛が逆立ったような心地だった。
丹精な顔を滝のような汗で濡らし、鼻からはおびただしい量のドス黒い血が垂れ流れている。
限界まで見開かれた目は血走り、狂気と興奮でギラギラと輝いていた。
あぁ、やっぱりこの人は人間じゃないんだと。
頭の片隅で、ぼんやりと考えた。
「な、ナニガシさん……鼻血が……!」
「あぁ、これ? ふふっ、ちょっと限界を超えて能力を使っちゃってるからね。その代償だよー」
「だ、代償って……! だ、大丈夫なんですか!?」
「心配してくれてるんだ? ふふっ、ありがとねー」
ナニガシさんは口元を汚す鮮血を舌で舐め取った。妖艶な仕草に一瞬見とれてしまう。
彼女は見れば見るほど美しい容姿をしていた。
「まあ、一応は大丈夫だよー。能力の使い過ぎで疲れてきてはいるけど、脳が焼き切れるほどじゃないし。まだまだ走れるよー」
「は、走れるって……一体どこに向かってるんですか?」
「ここではないどこか、って言ったら?」
「……え?」
何を言ってるんだ、とポカンとした顔をしたらナニガシさんは笑って。
「ふふっ、ごめんね。冗談だよじょーだん。……今向かってるのは三橋大学目黒キャンパス。そこのメイングラウンドがランデブーポイントなんだ。そこで同胞と待ち合わせしてるんだよー」
三橋大学。俺の通っている大学だ。いや、今はそんなことよりも。
「同胞って、ひょっとして……」
「そうだよー。私と同じ、地球外生命体」
「っ、そうですか……」
「地球の各都市で散らばって実地調査をしてたんだけど、この危機に駆け付けてくれるらしくってさー」
どうやらいつの間にか、地球は宇宙人に侵略される一歩手前だったらしい。
『宇宙人はもしかしたら存在するかもしれませんけど、宇宙は広いので地球には来れないと思いますよ?』などと大層な態度で喧伝していた専門家の顔が脳裏をよぎった。
「ところで、コヨミは?」
「うーん、まだ付いて来れてないかな? 攪乱と牽制を兼ねて裏路地と大通りをジグザグに進んでるし、多分このスピードに慣れてないんだろうね」
コヨミの名が聞こえた瞬間、どぐんと心臓が跳ねたのを自覚した。
そうだ、コヨミ。
「……あの、ナニガシさん」
「どうしたのかな、浜九里くん」
「……貴女はコヨミについて何か知ってるんですよね? さっきコヨミと対峙した時、あの子――アイツと一度会ったことがあるような口振りでしたし」
「……」
「教えてください。コヨミは一体何なんですか?」
「あ、そこ気になるんだねー。やっぱり知りたい?」
ゆっくりと頷いてみせると、彼女は少しだけ微笑んだ。
「あれはね、この地球で産まれた最初の神なんだよ」
「…………は?」
一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「神って、えっと、ゴッドの方……ですか?」
「そーだよ。この惑星に意思を、心を、思考を持った生物が生まれ落ちたと同時に誕生した、正体不明の上位存在――それがコヨミ」
何を馬鹿な、とは言えなかった。反論の言葉も抗議の言葉も見当たらなかった。
俺はコヨミの能力を――あらゆる物質を灰燼に帰す神秘の炎を目の当たりにしている。
今更、あの光景が何かのトリックだなんて思えなかった。
『コヨミちゃんって、本当に人間なのかな?』
田淵の言葉が脳裏をよぎる。
そうだ。あの時、既に田淵はコヨミの異常性に気付いていたのだ。
普通の『人間』ではない。
つまり、彼女が神という既知の生物の範疇から大きく逸脱したナニカであることを悟っていたのだ。
「私ね、一度アレと戦ったことがあるんだ」
「戦ったって、一体いつ?」
「まぁ最近とだけ。その時は小競り合い程度だったけど……強かったよ、すっごくね。でも多分あの時、向こうはかなり手加減してた。色々と事情があったみたいだからねー」
そこまで言うと、ナニガシさんはすぅっと目を細めて。
「もしそんな化け物が、本気で襲い掛かってくるとしたら……最高にワクワクしない? ほら、ちょうど今みたいにさー」
「……っ」
「アッハハ! ごめんねぇ、イジワル言っちゃった。でもね、アレが馬鹿みたいに強いっていうのは本当だよ。だって、追跡を撒くだけなのに限界以上の力を使わせられてるからねー」
軽快に動く唇は、鼻から流れ出る血で真っ赤に染まり切っている。俺の身体を抱えている腕も産まれたての小鹿の足のように震えている。
もう動くべきではない。ここで俺を手放すべきだ。
「よし、ここまでやれば安心かな?」
それでもナニガシさんは朝焼けの街を駆け抜ける。
満身創痍の身体を突き動かすのは、一体どんな感情なのだろう。
いつもの白いワンピースは汗と鮮血に濡れていた。
「うん、攪乱はここで一端終わり。今からぐるっと回り込むようにしてランデブーポイントに向かうよ」
その姿は痛々しくて、健気で、愛おしくて。
俺の胸の中に、今までナニガシさんに感じていた漠然とした嫌悪感など、もうどこにもなかった。
ただただ、俺は彼女の熱心な献身に心を打たれていた。
胸の奥に火が点いたかのように熱くなり、涙が溢れそうになった。
「どうして……貴女はそこまでして、俺のために……?」
「どうしてって……決まってるじゃん」
いつも通り、彼女はどこか飄々とした口調で答えた。
「私が浜九里くんのことを愛してるからだよー」
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