END1『キャトルミューティレーション』
「お疲れ様で――あれ?」
勝手口からゴールデンスランバーに足を踏み入れた途端、俺は違和感に気付いた。
店内にマスターの姿がなかったのだ。
「マスター? どこですかー?」
裏手にもキッチンにもいない。店内を粗方探してみたが、痕跡すら発見できなかった。
普段なら食材の仕込みをしている時間帯なのだが……タバコでも買いに行ったのだろうか?
いや、それなら俺にスマホやら書き置きやらでその旨を連絡してくれるはずだ。
スマホには何も連絡は入っていないし、書き置きも見当たらない。
それに、外出するならしっかりと戸締りをするはずだ。
マスターは几帳面な人だ、そんな初歩的な確認を忘れるはずがない。
一体どうして――。
「浜九里くん」
その時、聞こえるはずのない声が、聞こえた。
「…………え?」
振り返った先には、スツールに腰掛けた女。
「ナニ、ガシさん……」
「こんばんは。また来ちゃったー」
カウンター席のど真ん中。
いつもの定位置に座った彼女――ナニガシさんは、にへらと気の抜けた笑顔と共に手を挙げた。
一瞬遅れて我に返った俺は、しどろもどろになりながら彼女に注意する。
「あ、あの、まだ営業時間前なので……」
「え? 確かここ、6時開店でしょ?」
ナニガシさんは店内の壁に掛けられた時計を指差すと。
「もう6時だよ?」
「…………は?」
視線を動かして――絶句する。
何度目をこすっても、正気を疑っても。
時計の短針は真っ直ぐ6を指し示していた。
ナニガシさんは呆然としている俺を見て微笑んだ。
「ね?」
「え、これ、えっと……」
「ほーら、早くお水とミックスナッツ出さないと」
「っ、は、はい」
俺は混乱しながらも、何とかナニガシさんにお冷とミックスナッツを差し出す。
「どうしたの? そんなに慌てて?」
「いえ、その……思ったより、時間の流れが早くて」
「……ふーん?」
「最近、なんかこういうことが多いんです。ふとした瞬間に、こう、時間が飛ぶんですよ。俺からしたら二、三分くらいしか経ってないのに、実は一時間以上過ぎてた、みたいなことがここ最近増えてて……」
「……へぇ」
彼女はふぅ、と細い息を吐くと、グラスを傾けて、一口だけ水を口に含んだ。
惚れ惚れするほど洗練された、美しい動作だった。
「……ねえ、カクテル作ってくれない?」
「あの、お言葉ですが……前も言ったようにマスターからお客様に対しカクテルは提供するなと」
「……じゃあさ、その
「ええ、そうですね。まあ、そんなことは余程のことがない限り無いとは思いますが」
「ふーん。その人の許可さえあれば、どんなカクテルでも作れる?」
「あー、材料と道具さえあれば、おそらく」
「材料というと、お酒?」
「はい。それとトニックウォーターやジュース類といった割材などですね。実は俺、ここでバイトを始めてから色々と勉強してるんです。もし酒が飲めるようになってマスターから認められたら、カクテルを作ってみようと思って」
「…………」
店内に静寂が降りてくる。まるで世界から、このゴールデンスランバーという空間だけが隔絶されたような、完璧な沈黙。
耳鳴りすらも聴こえない空間に、俺は未だにオーディオすら動かしていないことに気付いた。
なんかいい感じの音楽でも掛けようかな。
そんなことを思い立ち、店の奥に行こうと踵を返した。
その時。
「ねえ、浜九里くん」
心の隙間に流れ込むような声で。
「私の故郷に来て」
彼女はそう言い放った。
「……故郷、ですか?」
「うん。浜九里くんなら、きっと気に入ると思うよー」
「はは、ナニガシさんの故郷ですか。きっと素敵な所なんでしょうね」
唐突な話題に度肝を抜かれながら、一応は社交辞令を言っておく。
ナニガシさんは心底嬉しそうに微笑んだ。美しい。可愛い。だからこそ、恐ろしい。
「ちなみに、故郷ってどこなんですか?」
「えーっとね、隨ャ�暦シ假シ厄シ醍分繧ウ繝ュ繝九�」
「……………………はい?」
一瞬、俺は聞こえてきた言葉を理解できなかった。
いや、今のは本当に言葉なのか?
獣の咆哮のように聞こえた。赤子の夜泣きにも聞こえた。祈りの呪言にも聞こえた。
だが、何も聞き取れなかった。鼓膜に流れ込んできた音声を言語として、文章として書き起こすことができない。
何も分からず、言葉を失っていると。
「あっ、ごめんねー。電気信号をそのまま言語野と声帯に落とし込んでも分からないよね」
「げ、え……?」
「ちょっと待ってね? あー、この概念に一番近い単語はなんだろうな……『異星』『ポータル』『勝手口』……どれもしっくり来ないな。まぁ、いっか」
そう言うと、ナニガシさんは立ち上がって、ゆっくりと歩き出した。
「私はね、この地球を調査するために外宇宙から来たんだ別次元の生命体なんだ。いや、生命体ですらない。概念そのもの、と言っていいかなー。まぁ、そんな話はこの際どうでもいいや」
カウンターを指先で撫でながら、目だけを俺に向けて、足を動かしている。
いつもと同じ、優しい声色。
だがどこか酷薄で、人間味が薄い。
「私の種族は時間を操作できるんだ。時の流れを早くしたり、遅くしたりね。でも三次元領域の生命体は変化する時間の中でも普段通りにしか動けないから、一瞬で何時間も経っていたり、逆に何時間も経ったと思ったら一瞬だったりっていうことが起こるんだよね」
やがて、カウンターを横切り、俺の立っている側まで来る。
「浜九里くんが感じてた違和感は多分それのせいかな? 昨日は色々あって、時間圧縮を連発してたからねー」
今すぐにでも逃げ出したかった。
悲鳴を上げたかった。
泣き出したかった。
だが、出来ない。
身体が動かない。
まるで時間が止まったように。
「安心してよ、絶対浜九里くんは大歓迎されるから。あの星にいるのはね、全部私なんだ。私の種族は自己増殖と分裂によって無限に自己複製ができるから、実施調査の時は調査員を増殖させて惑星に潜入させるんだよー。今地球にいる『私』は1578体かな? 世界中に潜伏して、人間社会の中で色々と文化とか慣習を調査してるんだよねー」
脳が破裂しそうだ。
「どうしたの、そんな怖い顔して? ……あっ、そっか。ひょっとして寿命が心配なのかな? ふふっ、大丈夫だよー? 隨ャ�暦シ假シ厄シ醍分繧ウ繝ュ繝九�までは大体一千光年くらいはあるけど、私たちの宇宙船なら一瞬で行けるし、何より、船内で浜九里くんの肉体を『改造』してあげるから、もう寿命とか生命とか超越した存在になれるんだよ! ね! これで安心でしょ!」
眩暈がする。吐き気が止まらない。
今にも胃の内容物を床にぶちまけてしまいそうだ。
「ほーらね、これで心配する要素は何もないでしょ?」
ひたり、ひたり。
歓迎するように両手を広げたまま、ナニガシさんは鷹揚に近付いてきて。
そこで、俺は限界を迎えた。
「っ、来るなぁ!」
咄嗟に身体を動かして、力任せにナニガシさんを突き飛ばした。
彼女は予想外の反撃に驚いたのか、吹っ飛んで床に倒れ込む。受け身を取ったらしく怪我はないようだが、姿勢を大きく崩して隙を晒している。
——今しかない。
その一瞬の隙を突いた俺はカウンターを飛び越えて、店を飛び出した。
「はぁ……はぁ……!」
走る。走る。走る。
地面を蹴り、ただひたすら走り続ける。
どこに、なんてのは分からない。とにかく、この場から逃げるしかない。
夕暮れの空を覆い隠す、
俺に迫り、故郷へ連れて行こうと言ってきたナニガシさんの目は本気だった。
恍惚とした、満足げな微笑。
引き込まれてしまった。心が惹かれてしまった。
それが何よりも恐ろしい。
自分の心が致命的に変容してしまい、既に自分のものではなくなってしまったような気がする。
だから俺は逃げなければならない。
あの災害から身を守るために。迫り来る甘美な地獄から目を背けるために。
もう、何もかもが手遅れだと。心のどこかでそう分かっていながら。
「クソッ、一体どこに逃げれば……!」
毛細血管のように張り巡らされた路地を駆け回り、夕暮れに沈みつつある街並みを走り抜けていく。
ナニガシさんから、あの得体の知れない怪物から逃げなくては。
胸の中で絶望と共に膨らんでいく恐怖心に背中を押され、俺は駆けていく。
足が痺れ出し、肺が痙攣し始め、息苦しさが限界を迎えてもなお、足を止めなかった。
振り返った先にナニガシさんの姿が見えなくても、決して止まらなかった。
足を止めた瞬間、あの人智を超えた化け物に捕まってしまうのではないかという妄想で発狂してしまいそうだったからだ。
やがて繁華街を横断し切った俺は、大通りに飛び出した。
人が少しでも多い場所なら、あの化け物も姿を現すのを躊躇するだろうという一縷の希望があった。
「っ、うわっ……!」
転げ落ちるような勢いで駆け込んだ通りに、俺は勢い余って倒れ込んでしまう。
そこで、違和感。
「……?」
音が、聞こえない。
街を震わせる喧騒も。
店の中から漏れ出てくる流行りの音楽も。
車道を駆け回る自動車の駆動音も。
何も聞こえない。何も感じない。
「…………」
どくどく、と心臓の鼓動が高鳴って煩わしい。全身から噴き出す汗の中に変なものが混じり出す。息苦しさが段々増えていく。
辛うじて立ち上がったが、顔は俯いたままだった。
今は土曜日、週末の午後6時だ。平日の深夜ではない。
この時間帯なら、普段であれば足の踏み場もないほど人で溢れ返っているはずだ。
ゾンビアポカリプスでもない限り、こんな静寂とはほとんど無縁の場所のはずだ。
恐る恐る顔を上げると。
「…………は?」
往来が、止まっている。
楽しそうに腕を組み合ったカップルも。
最近流行りのスイーツを片手に歩く女子高生たちも。
疲れた顔で足を引き摺ったサラリーマン。
みんな、止まっている。
時間が、止まっている。
「やはり全員で能力を発動すると、完全に時が静止するのか。いや、違うか。時が極端に遅くなり、相対的に超高速で行動しているからこそ、このように感じるのか。これが相対性理論というものか?」
背後から足音が、底冷えするほど冷酷な声と共に近付いてくる。
もう、足は動かなかった。
「これではコヨミも動けないだろう。アレがどれだけ強靭な肉体を有していても、まさかこの時の流れには対応できまい」
普段と違う口調に一瞬違和感を覚えた。が、そんなことはどうでもいい。
多分今までの口調は全部擬態だったのだ。
本性を隠すための、巧妙な偽装工作。
今更になって気が付いた。
だが、もう遅い。
「さて」
背中で感じていた空気が変わった。
冷たい空気。一切の容赦や妥協も許さない、緊迫した雰囲気。
ゆっくり、ゆっくりと振り返ると、そこには。
「それじゃ、一緒に行こっか」
化け物がいた。
「あ」
すとん、と腰が抜けた。
力が入らない足を引きずり、両腕だけで身体を引っ張るという不恰好なクモ歩きのような格好で必死に這いずる。
「ごめ、ごめ………」
口だけが、一人でに動く。
「……ごめんなさい」
それは。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
それは本能の絶叫だった。
「許してっ、許して、お願いだから許してぇぇ!!」
何が悪いのか分からない。
何が駄目なのか分からない。
何に怒られているのかすら分からない。
だが、謝る。とにかく頭を下げる。
顔を滝のような涙で濡らし、口の端から涎を垂らしながら、ばたばたと溺れているかのように滅茶苦茶に四肢を動かす。
ぼやけた視線の中で、佇んだまま静かに俺を見下ろしていたナニガシさんはーー
「許して? なんで?」
きょとんとした顔で、首を傾げた。
「浜九里くんは何も悪いことしてないでしょ? あっ、さっき私を押し倒したこと? ふふっ、ちょっと痛かったけど全然気にしてないよー。だから安心して、ね?」
「ひ、ひぃっ……」
言葉が通じない。
同じ姿なのに。同じ言葉なのに。
住む世界が違う。
産まれた種族が違う。
次元が違う。
もう、何が怖いのかすら分からなくなっていた。
同時、辛うじて形を留めていた精神が限界を迎えた。
「やだ、だれか、だれかたすけてっ!!」
駄々をこねる子供のように咽び泣きながら、必死に逃走を図る。
この全てが止まった世界では、自分を助けてくれる存在など、どこにもいないというのに。
「た、たすけっ、たすけてぇぇ!!」
「ふふっ、鬼ごっこかなー?」
「おねがい、おねがいだから、お、おかねはらうからっ、だれか、だれかぁっ!」
「ほーら、頑張れ頑張れー? 早く逃げないと怖い鬼さんが捕まえに来ちゃうぞー?」
「やだ、やだ、やだやだやだぁぁ!!」
「じゃあカウントダウンしちゃうねー?」
「お、おれをどこにつれてくんだよぉぉ!」
「故郷だよー。はい、さーん」
「こきょうって、うぐっ、ひぅっ、なんだよぉ……!」
「にー」
「ひっ、ひっ、ひっ、ひぃぃぃ……!」
「いーち」
「た、たっ、たた、たすけ……!」
「はい、つーかまーえたっ!」
太陽系の遥か遠く。
人類の理解が及ばない世界の片隅に、『タスケテくん』や『ユルシテちゃん』、『コロシテ』と呼ばれて愛される存在がいる。
ソレはバーと呼ばれる場所で、いつも謎の液体が詰まった容器を振り回している。
真っ赤に腫れた目と青ざめた顔で、必死に働いている姿が可愛いと評判なのだ。
今日もソレは、独特の鳴き声を上げながら、訪れる客に素敵な姿を晒し続けている。
「ころして。だれか、ころして」
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