冷たくなってんだ
「…………っ!!」
目が覚めた瞬間、俺は弾かれるようにベッドから飛び起きた。
「……あー、夢か」
全力疾走した直後のようにどくどくと高鳴る胸をさすりながら、ぽつりと呟く。
なんだかとても嫌な、奇妙な夢を見た、ような気がする。
確信が持てないのは、夢の内容をあまり鮮明には覚えていないからだ。
何か夢を見たのは覚えている。だが、その中身だけはすっかり記憶から抜け落ちているのだ。
まるで夢の世界に、俺の記憶だけが置き去りにされたみたいに。
だが、一つだけ覚えていることがある。
恐怖だ。
胃から酸が逆流し、気が狂いそうになるほどの、鮮烈な恐怖。
悪夢を見るのはこれが初めてではない。
が、今感じている恐怖は――それまでのものと比較して、あまりにも鮮明で、あまりにも強烈だった。
「…………クソ」
全身汗でびしょ濡れだ。早くシャワーを浴びたい。
頭を抱えながらスマホのロック画面を見ると、時刻は午後1時。
いつもより少し早い起床。
だが、この時間に起きれてよかった。
今日はバイト。開店前の5時までにはゴールデンスランバーに行かないといけないのだが、これくらい時間の余裕があれば、ゆとりを持って身支度が出来るだろう。
「…………はぁ」
悪夢を見て気分が悪いから、と言って休めるはずがない。
多分真剣に掛け合えば許されるかもしれないが、それは駄目だ。
数年後には社会人になるのだ。この程度の体調不良、我慢できなくて何になる。
その後、冷蔵庫にあった冷凍チャーハンを適当にかき込むと、最低限の身だしなみを整えて家を出た。
「お疲れ様で――あれ?」
勝手口からゴールデンスランバーに足を踏み入れた途端、俺は違和感に気付いた。
店内にマスターの姿がなかったのだ。
「マスター? どこですかー?」
裏手にもキッチンにもいない。店内を粗方探してみたが、痕跡すら発見できなかった。
普段なら食材の仕込みをしている時間帯なのだが……タバコでも買いに行ったのだろうか?
いや、それなら俺にスマホやら書き置きやらでその旨を連絡してくれるはずだ。
スマホには何も連絡は入っていないし、書き置きも見当たらない。
それに、外出するならしっかりと戸締りをするはずだ。
マスターは几帳面な人だ、そんな初歩的な確認を忘れるはずがない。
一体どうして――。
首を捻りながら、俺はもう一度店の中を確認しようと、再びキッチンに足を踏み入れた。
ゴールデンスランバーのキッチンは狭い。提供する料理のほとんどは調理に手間取らないつまみや簡単な軽食で、仮に火を使うにしてもガスバーナーで炙る程度で済むからだ。
冷蔵庫とシンクがあるだけの、小さなキッチン。やはりマスターの姿はない。
「はぁ……一体どこに行ったんだよぉ……」
ため息と共に俯くと、足元に赤い模様が目に入った。
血だった。
まっさらな床に、血が垂れ落ちているのだ。
「なっ」
反射的に足をどける。そこで気付く。
少し離れた場所に、また血痕が残っている。
先ほどマスターを探した時、足元への注意は疎かになっていたような気がする。
多分、焦りと不安で視野が狭窄していて、目下の異変を見落としていたのだろう。
視線を動かすと、キッチンを横断するように血痕があり、まるで一条の直線のようになっている。
後を追ってみる。血痕はぽつぽつと10センチ感覚くらいで落ちている。決して少なくはない出血量だ。
そして俺は、キッチンの奥にある業務用冷蔵庫の前に辿り着いた。
血痕はそこで止まっている。
「…………」
嫌な予感がする。
この中に、何かが詰まっている。
普段ならチーズやレバーパテの缶詰が入ってるだけの、細長い冷蔵庫の中に。
「開けるしか、ない、のかよ……」
まるでゴキブリが逃げ込んだ戸棚を開ける時のような。そんな心境。
だが、このまま怯えたままではいられない。
意を決して、恐る恐る冷蔵庫の扉を開けると。
「は……?」
そこには、人が入っていた。
両目を半開きにしたままの、寝ぼけたような顔を鼻血の赤で染め上げた、中年男性。
狭いスペースへ強引に敷き詰められたのか、両腕は変な方向に折れ曲がっている。
その男の顔に、俺は見覚えがあった。
「ま、マスター……?」
扉を開けたことでバランスが崩れたのか、冷蔵庫に詰められていた男――マスターがこちらに倒れ込んでくる。
退く余裕もなく、俺は倒れ掛かってくるマスターを真正面から抱き留めた。
その身体は、ぞっとするほど冷たかった。
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