一千光年先で



 午後10時。


 夜も更けてきた繫華街は活気に満ち溢れていた。

 通りに面した居酒屋や料亭はほとんど満席で、街には眩いネオンの光輝と喧騒が絶え間なく漲っている。こ

 れから深夜にかけて、この賑わいはより一層増していくだろう。


 いつもと同じ街並み。いつもと同じ光景。いつもと同じ雑踏。


 だが、何かがおかしい。


 ゆっくりなのだ。何もかもが。

 酒の席で乱痴気騒ぎを楽しむ酔っ払いたちの声が。唐揚げをつまむ箸の動きが。酒を口へ運ぶ腕が。


 全て遅くなっている。


 スロー再生で流れる映画のワンシーンのように、時の流れ自体がスローモーションになっているのだ。


 まるでそう、時間が間延び――拡張されているような。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 そんな不可思議な光景が広がる中。ただ一人だけ普通に動いている者がいた。


 大きく切り裂かれたワンピースの胸元を隠すように、己の肩を抱きながら歩く少女。


 緩慢な動きしか取れない雑踏の隙間を、まるで風のようにするりとすり抜けていく。

 その手には大きく膨らんだビニール袋が垂れ下がっていた。


 やがて少女は吸い込まれるように狭い路地へと入っていくと、壁に背中を預けて腰を下ろした。埃とカビが混じった独特の臭気が弾けた。

 ちょうどその場所は小高く積み上げられた段ボールの影になっている。余程のことがない限り誰かに見つかることもないだろう。


「……念のために50倍まで出力を上げておくか」


 少女がそう呟くと同時、更に時間の流れが遅くなる。


 その現象は彼女の種族が持つ能力によって引き起こされる、一種の超常現象だった。


 これで世界にとっての50秒は少女にとっての1秒になる。

 つまり通常の時間感覚で生きる人間にとって、彼女の1秒は0.02秒――簡単な所作でさえ、人間の反射速度を遥かに凌駕した神速の早業になるのだ。

 普通の人間には、残像すら見えない。


「よし、これでひとまずは安心だな……」


 少女はどこか安心したように息を吐くと、ビニール袋をひっくり返して、その中身を全て地面にぶちまけた。


 それは全て、パックに梱包された新鮮な生肉だった。

 牛肉や鶏肉、豚肉、合いびき肉と種類や部位はバラバラで、統一性はない。

 唯一の共通点といえば、それが先ほど少女が近場のスーパーマーケットで手当たり次第に買ってきたものということだけだ。


 少女は静かに目を閉じると、やがて意を決したようにパックを破り捨て、その中身を掴み取ると一気に貪り喰らった。


「…………っ」


 一瞬顔が苦悶に歪んだが、少女は黙々と食事――いや、摂取を続ける。


 食べる。

 食べる。

 食べる。


 パックから引き剥がした生肉を、ただひたすら口へと運んでいく。

 まるで飢えた獣のように。


 調味料も何もない、ただの肉。

 冷たい粘土のような質感で、決して食えたものではない。

 嚙めば嚙むほど、何とも言えない風味が口の中に広がる。


「……やはり、完全に肉体と同化したことによって味覚が鋭敏になったな。いや、少し違うな。変わったのはむしろ……捉え方か。以前までは、食事など肉体を維持するための栄養補給としてしか考えていなかったが……これからは調理方法なども徹底しよう。このような、欠損部位の補充のための応急処置でも」


 体内に摂取した肉の塩基配列と細胞を最適化。拒絶反応が出ないよう『改造』を施す。

 分解し、ペースト状になった肉塊を傷口に移動。表皮の質感を改変。人皮を再現する。


 痛みが消える訳ではないが、これで出血と感染症の心配はなくなる。外見もある程度は取り繕える。

 胸元とは視線を集めやすい部位だ。特にこのように美しい容姿らしい肉体なら、尚更だ。

 人間の視線は敏感で、油断ならない。

 用心するに越したことはないだろう。


 その後も買い込んだ肉を全て喰らい尽くす。

 摂取した肉を材料とすることで、筋肉や脂肪、神経や毛細血管に至るまで、その全てを完璧に復元する。

 同時に、失った分と同じ量の血液を補充すれば完璧だ。

 

 これで治療は完了。


「さて、行くか」

 

 少女は空になったパックをビニール袋に突っ込むと、大通りの方を向いた。


 

 やがて時間の流れが元に戻った頃、少女の姿は煙のように消えていた。







「……まさか、彼に上位存在が付き従っているとは」


 私は繫華街の外れ、人通りの少ない裏路地を歩いていた。

 不夜の喧騒も光り輝く摩天楼も、どこか遠く離れているように思える。


 青白い街灯が浮かび上がる路地の雰囲気はどこか艶めかしくて、とても好きだ。

 いつもなら鼻歌を歌っているところだが、生憎そんな気分にはなれなかった。


「治療こそできたが、あの想像を絶する痛みは……二度とごめんだ」


 私の脳内は、あの上位存在のことでいっぱいになっていた。


 浜九里颯太を守護するために、私に立ち向かってきた地球の土着生命体――神。コヨミ。

 数千年前、我々の先祖が初めてこの地球に降り立った時、調査隊を壊滅に追い込み撃退するに至った上位存在。


 アレ自身には特別な能力はない。

 我々の種族に備わった、時間を圧縮、拡張させる力のように、三次元領域に影響をおよぼすような能力などない。


 ただ、強い。とてつもなく。


 人類に似た姿でありながら、その身体能力や膂力は彼らの数百倍。時間圧縮による瞬間移動にも対応できる、優れた動体視力も有している。肉弾戦ならまず勝ち目はない。

 なるほど、手強い。

 おそらく私程度の若輩者では太刀打ちすることすら叶わないだろう。


 だが。


「未熟だな。精神が」


 あれほどの力を有しておきながら、心が弱い。弱すぎる。

 あの程度の弁論にも翻弄され、動揺し、私に対し逃走する隙を与えてしまった。


 本当にあんなのが、かつて地球を守った特記戦力なのか?

 そんな疑問が止めどなく湧き上がってくる。

  

 衰えか?

 いや、違う。コヨミは私たちと同類。思念体を核として肉を纏ったに過ぎない。

 寿命や加齢による能力の劣化など起こるはずがない。


 つまり、導き出される結論はただ一つ。


「浜九里颯太か」


 コヨミは彼にかなり執着しているようだった。

 先ほどの戦闘。その直前でも、アレは私たちが地球に再訪した理由よりも、私が何故彼に接近したのか――その理由を先に問うてきた。

 かつて地球に降り立った私たちから、発展途上の人類と地球を守り抜いた英雄が私情を優先したのだ。


 地球よりも、他の人類よりも、他の何よりも。


 心を奪われているのだ。


 ただの人間――浜九里颯太に。


「彼の前では、上位存在ですらあそこまで脆弱になってしまうのか」


 思わず笑みがこぼれてしまう。


「コヨミも私も、まさしく首ったけ、か」


 やはり、浜九里颯太は面白い。


 彼から放たれる『ニオイ』。あれは甘露だ。

 一度鼻腔に流れ込んで、脳髄に届いてきたのなら、脳が蕩けそうなほど甘美な痺れが全身を駆け巡るのだ。

 残り香を嗅いだだけで四肢が疼き、彼の身体が接近してきた時には肉体が絶頂を迎えそうになる。


 それほどまでに彼の『ニオイ』は蠱惑的なのだ。


 正直言って、コヨミが執着するのも分かる。

 上位存在にとって、あの『ニオイ』は劇物だ。ある意味、麻薬に近いだろう。

 一度その甘美な芳香に触れてしまえば最後、もう二度と抜け出せなくなる。


 彼を、永遠に手元に置いておきたくなってしまう。

 他の上位存在に目を付けられているのなら、尚更だ。

 

「……うん、決めた」


 私は胸元をさすりながら、夜空を仰いだ。

 都会の夜空に見える星は少ない。

 街を覆い尽くす眩い輝きが、地表に星の光が届くのを阻害するからだ。


 だが、私には――その星が見える。

 

 一千光年先。

 遥か遠くに見える、我が故郷を。


 隨ャ�暦シ假シ厄シ醍分繧ウ繝ュ繝九�。


 外宇宙から三次元世界の解明と研究のために降り立った、上位存在が開拓した前線基地。

 遠く離れた、地球という惑星に派遣された私の生まれ故郷。




「浜九里颯太を連れて帰ろう」




 人間は異世界や異星といった、まったく根本から異なる環境に興味を持つという。

 きっと彼も喜んでくれるはずだ。目をキラキラ輝かせて、私の誘いに乗ってくれるに違いない。


「向こうでバーを作ろう。彼にはそこで店員として働いてもらおう」


 仲間たちもみな、彼を気に入ってくれるはずだ。

 私たちの威信に懸けて、遠い惑星から遥々来てくれる彼を盛大に歓迎してくれるだろう。

 文句や不満を口にする者だなんて、誰一人いない。


 そんな確信がある。


「しかし、問題は酒だな。私が弱いんだ。きっと皆もアルコールは苦手なはずだ。そうするとどうしたものか……シーシャバーのように、喫浜九里・・・・を中心とした経営形態にするか」


 だって。


「ああ、楽しみだ。同胞たちに彼を知ってもらうのが」




 私たちは皆、『私』なのだから。



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