最初の炎
原始――人類史にも一切残されていない時代。
言葉を持たず、文明を持たなかった原始人たちは度重なる発見によって歴史を進めていった。
雷の中に、火を。
豊かな土壌の中に、農耕を。
強靭な野生生物の中に、自然を。
強大な自然災害の中に、畏怖を。
そして、自身の心の中に信仰を。
人類は自身では想像も付かない超常現象に、神の名を付けた。
無知とは暗闇だ。
一寸先すら見えない漆黒の中、手探りで進み続けるのは何よりも恐ろしいものだ。
だから人類は不可解な現象に神の名前を授け、無理矢理溜飲を下げることにしたのだ。
原因が辛うじて分かっているのなら、無知に怯えるよりもずっと気が楽だろうから。
だから、それは産まれたのだ。
人類が持つ集合的無意識の世界から、その奥底から浮かび上がってきた泡のように。
『人間を守る』という本質に、肉体という実存が追いかけてくるように。
「イエティは実在する」。そんな誰かの思い込みが世界を駆け巡り、根も葉もない妄言だというのに、世界中で数多くの目撃例を生み出したように。
人間の信仰と忠誠を糧に生きる肉体。
永久にも思える寿命。
人智を越えた膂力。
人類はそれを、最初の神――コヨミと呼んだ。
「……というのが我々が伝え聞いている地球土着の上位存在、神の情報だ。誤りはないはずだが?」
「ああ、正解、だっ!」
コヨミが、得物を振り下ろす。
片手とは思えない超高速の斬撃を、ナニガシは咄嗟に飛びのいて回避した。
「その剣は……ああ、そうだ。確かお前自身が体内に有するエネルギーを超高圧で放出しているんだったか」
ナニガシはコヨミの得物――光が細長い棒状に固まったような物体に目を向けながら鼻を鳴らした。
一見ただのおもちゃにしか見えないが、その実、地球上に存在するどんな刃物よりも鋭利な業物だ。
実際、その切っ先が振り下ろされた床はコンクリート製にも関わらず、豆腐のようにスッパリと切れている。
もし一瞬でも避けるのが遅れていたら、今頃切り裂かれていただろう。
ナニガシはごくん、と生唾を飲んだ。
「これには化け物を魂ごと切り裂く力はないが、お前の依代を破壊して本体を引っ張り出すくらいならできる」
「やれるものならやってみるといい。最初の神の実力、是非とも見てみた――」
言い終わるよりも早く、コヨミの一撃がナニガシの頭目掛けて襲いくる。
ほとんど砲弾に近い速度の一撃を、ナニガシは身を翻して辛うじて紙一重で避ける。
「……随分と血気盛んだな?」
「うおおおおおおおおっ!!」
切る。薙ぎ払う。突く。切り上げる。
目にも留まらぬ絨毯爆撃のような連撃。
だがナニガシには当たらない。まるで柳の葉を切るように、ひらりと華麗に身を躱していく。
「うおらぁっ!」
コヨミが繰り出した渾身の袈裟懸け。だがこれも当たらない。ナニガシは一旦距離を取ると、得意顔を浮かべた。
「凄まじい威力だ……少々肝が冷えた」
「お前……やはり妙な業を使うな? 今の連撃、人間の反射速度なら避けるどころか一瞬でみじん切りだ。そういうつもりでやった」
「でも、全部避けられた」
「……ああ、やっぱりそうか」
コヨミは端正な顔を苦悶に歪め、吐き捨てるように言い放った。
「
「……よく分かったね?」
挑戦的な嘲笑を顔に貼り付けたナニガシを睨みながら、コヨミは細く息を吐いた。
謎が溶けたことで、少しは心に余裕が生まれたのだろう。
「昔散々やられたからな。当時は分からなかったが……この時代に復活して、様々なSF小説やマンガを読んでいく中で、なんとなく理解した」
「……そういうのも読むんだ」
「颯太に勧められてな。彼に紹介されたものを読んだり、食べたり……あれはいいぞぉ? 自分と颯太が同じものを鑑賞し、楽しんでいる……そう思うだけで神経が昂るんだ。高揚が止まらないんだ。ははは、お前みたいなゴミクズにはそういう経験なんてないだろう?」
「いや、普通にあるけど」
「は?」
「酒をオススメされた」
「…………そうか。殺す」
「口で言うだけじゃなくてやってみせろよ、ん?」
両者二度目の対峙。
コヨミは剣を正中線上に真っ直ぐ構えて、ナニガシは何も持っていない両腕をだらんと垂れ下げる。
「……まあ、仕掛けが分かれば簡単だ。つまりお前らは『時を圧縮・拡張し、その中を自由に移動する能力』を持っているんだろう? お前らは高次元生命体――四次元空間、つまりは時空間の中に生きる生物だからな」
「そこまで分かってるんだね。すごいじゃん」
余裕ができつつあるのか、ナニガシの口調が戻ってきている。
どこか軽薄で、飄々とした態度。
それが擬態だということをコヨミは知っている。
相手を油断させ、可能な限り敵意を抱かせないよう計算され尽くした口調。
今、コヨミの目に映っているナニガシの姿は――全てウソだ。
その誰が見ても美人と言わしめる容姿も。
しっとりとした聞き心地のよい声も。
ほわほわした、掴みどころのない雰囲気も。
その全てが、人間社会に溶け込むために用意された擬態だ。
だからその脳天を叩き割るのは造作もないことだ。
目の前に佇む怪物がその程度では死なないことを――コヨミは誰よりも知っている。
コヨミは屋上の床材が抜け落ちんばかりの踏み込みで一瞬で間合いを喰らい、ナニガシの胸元を切り払う。
ナニガシは半歩退いて回避。だが遅い。切っ先がナニガシの胸元をえぐる。
「ぐっ!」
ナニガシは舌打ちと共に後退する。勢い余って手摺にガシャンとぶつかり、そのまま膝から崩れ落ちる。
最早彼女にとって、この狭い屋上のどこにも逃げ場はなかった。
「噓、でしょ……? 時間を30倍に圧縮したっていうのに、避けられない、だなんて……!」
苦痛に歪んだ顔で絶叫するナニガシ。
白いワンピースの胸元は大きく切り裂かれていて。
ドス黒い、およそ人間のそれとは思えない色彩の鮮血が溢れ出していた。
「はは、無様だな」
「はぁ……はぁ……」
ナニガシは激しく息を切らしながら両手で胸元を抑え付けるが、出血は止まらない。
とめどなく流れ続ける墨汁のような色の血液が、白い生地を染め上げていく。
「外見は人間には似せられても、血の色だけは誤魔化せないな?」
「ははっ、そう、だね……」
そう言って、ナニガシは力なく微笑んでくる。
その余裕を崩さない態度にピクリと眉間を痙攣させたコヨミは、剣を構えたままゆっくりとした歩調で、床に崩れ落ちたナニガシへと歩み寄る。
手応えは充分。『普通の』人間であれば、肋骨や脊髄ごと肺や心臓を切り裂いていたはずだが、こいつには多分効いてない。
この怪物の化けの皮を剝がすにはこれじゃあ足りない。最低でも首の切断。四肢を切り落として輪切りにすれば確実だろう。
本当なら今すぐにでも首を切り落としてしまいたいが、今は我慢だ。
そしてナニガシのすぐ目の前まで来ると、彼女の青ざめた顔を覗き込むようにその場に屈み込んだ。
ふわり、と風に乗ってニオイが鼻腔に流れ込んでくる。
「……っ」
……臭い。
臭い、臭い、臭い!!
神格としての本能が警鐘を鳴らし、過去の血濡れた記憶が拒絶する、正体不明の臭気。
肉が腐った臭いでも、汚物の臭いでもない。多分悪臭ではない。
花の臭いでも、美味しい食べ物の臭いでもない。多分芳香でもない。
無色透明。
どんな刺激も毒性も伴わない、透き通るほどの無臭。
だが、確かに臭うのだ。
記憶にこびり付いた、獰猛で、悪辣な怪物の臭いが。
「…………お前に、聞きたいことがある」
「……なぁに……?」
「何故お前は颯太に執着するんだ」
「だから……さっき言ったじゃ――」
何かを言いかけて、言葉が途切れる。口を半開きにしたまま、固まっている。
「……言っておくが、本当のことだけを話せ」
コヨミがそう宣告すると、ナニガシは驚いたような顔をした後、「あー」と声を漏らしながら、視線を右往左往と動かし始めた。
少しの間そうしていたが、やがて観念したように息を吐くと。
「……匂い、だよ」
ずしり、と重い何かが胸の奥に響いた。
「匂い、だと……?」
「うん……浜九里くんはね、とってもいい匂いがするんだ……何て言うんだろうね、あの感覚は……人間が持つ語彙の中で一番適切な表現は……『美味しそう』……そう、これだ。『美味しそう』なんだ、浜九里くんの匂いは」
「……は?」
コヨミは一瞬、何を言っているか理解できず呆然としてしまう。
「あ、その顔……分かってないね? まぁ、そうだよね……そういう匂いって私たちじゃなきゃ認識できないと思うから……」
その反応が余程面白いのか、ナニガシはにたりと三日月のような笑みを浮かべる。
「いつか……君にも分かると思うよ? だって、君と私は……同類なんだから」
「……っ!」
「化け物同士、仲良くしなきゃね?」
どぐん、と心臓が跳ね上がった。冷や汗が流れるような感覚を覚える。
同類。
化け物同士。
ナニガシが愉悦交じりに吐き捨てた単語を咀嚼し、意味を考え。
やがてそれに隠された侮蔑のニュアンスを理解して――。
「死ね」
――憤怒が燃え上がった。
「あ」
唇の隙間からこぼれた吐息交じりの声。
それはコヨミが剣を携えた右腕を横に振り払ったのを目撃したナニガシのものだった。
驚愕に染まったままの顔が、滑り、やがて、床にごろんと転げ落ちた。
「…………」
最後の一撃は呆気ないものだった。『時の圧縮・拡張』という能力を使用する隙すら与えない、神速の一撃。
ごろりと冷たい床に転がるナニガシの首を、コヨミは冷たい目で見下ろしていた。
その表情に安堵や達成感はない。むしろその逆。
緊張。
張り詰めた殺気が、端正な顔立ちからにじみ出している。
「……おい、いつまで寝てるんだ?」
生き物は頭を切り倒されたら死ぬ。
子供でも知っている、自然の摂理。世界の常識。
だが。
「あーあ……この肉体気に入ってるんだけどなぁ。動きやすいし、健康的だしー」
コヨミの目の前に立つそれは、ただの生物ではないのだ。
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