コヨミ


 午前二時。ゴールデンスランバーでのバイトを終えた俺は深夜の街を歩いていた。 

 こつこつ、と控えめな足音を鳴らしながら疲れ切った肉体に鞭打って、なんとか足を前へ投げ出していく。

 なんだか頭が痛い。まるで脳髄の奥に熱した釘が突き刺さったみたいだ。


「クソッ、マジでなんなんだよあの人……」


 先ほどから、脳裏にナニガシさんの顔がこびり付いて離れない。

 笑うような、嘲るような。陳腐な表現では到底言語化できそうにない、曖昧な表情。


 あのぼんやりとした顔が思考に挟まる度に、何故か身体がぶるりと震えてしまう。

 決して威圧的な外見や態度でもないのに。

 何も分からないのに、恐怖を抱いてしまう自分が怖い。


 いっそのこと、ナニガシさんの正体が全部明るみになったら、この恐怖心も綺麗さっぱり消えてしまうのだろうか?


 そんなことを考えてながら歩いていると、いつの間にか見慣れた住宅街に差し掛かっていた。あと五分くらいでアパートに辿り着けるはずだ。


 住宅街はやはり静まり返っていて、物音一つ聞こえやしない。

 学生街ということもあり、この時間帯になってもカーテンの隙間から光が漏れている部屋があるアパートもちらほら見える。

 だが、人の気配は希薄だ。本当にこの街に人が住んでいるのかと疑いたくなってくる。


(あぁ、眠くなってきたな……)


 こんなに静かだと、歩いている最中だというのに段々眠くなってくる。思わず大きなあくびが漏れた。


 家に帰ったら速攻でベッドに倒れ込もう。そうだ、それがいい。

 明日はどうせ大学も三限からだし、急いで提出しないといけない課題もない。バイトも明日は休みだ。


 折角だし、久々に徹夜でゲームでもやってみるか? それも楽しそうだ。

 確かこの前、田渕から一緒にやろうと言われてオススメされていたアクションRPGがあった。

 最近は金も貯まってきたし、多少値は張るが奮発してデラックス版を買ってみるのもいいかもしれない。


 そんなことをぼんやりと考えながら、角を回ろうとして――。


「やっほー、こんばんはー」

「っ、うおぁっ!?」


 情けない絶叫と共に、俺はその場から飛び上がった。

 勢い余ってよろけてしまい、硬いコンクリートの上に倒れ込んでしまう。


「あははっ、そんなに驚かなくていいじゃん。ねぇ?」


 曲がり角のすぐ先に立っていた少女は頭上高くで輝く街灯の光を背に、けらけらと楽しそうに笑っている。

 逆光で影に包まれた彼女の顔――そこで輝く、透き通るような藍色の瞳を、俺は呆然と見上げていた。


「まったく、驚き過ぎだよ。どう、立てる?」


 そう言って、少女はニヤニヤとしながら手を差し伸べてくる。

 その手を取ったら、なんだか今度こそ負けを認めてしまいそうな気がして、俺は自力で立ち上がろうと両腕に力を込めた。


「いいよ、別に自分で立てる」

「ふーん? まったく、強情なんだから」

「うるせえ」


 なんとか立ち上がってみせると、少女の背丈が俺よりも遥かに低いことを実感する。

 それによく見ると、その顔立ちがかなり幼いことに気付く。精々高く見積もっても、14歳程度だろうか。

 それに何よりも、綺麗な顔をしていた。

 透き通る海原のような藍色の瞳にきめ細かな柔肌。桜の花びらのような色彩の、淡い桃色の髪は夜風に揺れてキラキラと輝いていた。

 きっともう少し年齢を重ねれば、冗談抜きで国を傾けかねない絶世の美女となってしまうだろう。

 その常人離れした美貌に思わず声を失いかけるが、なんとか言葉を搾り出した、


「……お前、こんな時間に外ほっつき回ってていいのかよ?」

「別にいいよ。明日は何も予定ないし」

「でもさぁ、年頃の女の子がこんな夜更けに外歩き回ってるのはさぁ……その、色々とマズイだろ?」

「へぇ、心配してくれてんの?」

「当ったり前だろ」

「ふふん、優しいんだね」


 それに、最悪俺が子どもを連れ回してると誤解されて通報される可能性もある。

 この年で社会にすら出てないのに早速前科者になるのは、流石にマズイ。下手したら父さんに殺されかねない。


「……で、なんでまたこんな時間に? まさか、また俺が来るのを待ってた、とか?」

「せーかい!」

「…………はぁ」


 思わずため息が漏れる。

 こちらの事情も知らないで、彼女はいつも好き勝手に行動する。

 時間も常識も倫理も関係ない。

 まるで風任せに生きる風来坊のように、彼女はいつだって誰よりも自由に生きているのだ。


「へへっ、でも、颯太もアタシと会えて嬉しいんじゃないの? こんなに可愛い美少女と深夜の密会ができてさ?」


 そう言って心底嬉しそうに笑う少女。


 彼女の名はコヨミ――この近所に住む不登校の中学生、らしい。


 らしい、というのは俺がまだコヨミの身の上話を聞き出せていないからだ。







 俺がコヨミと出会ったのは入学当初。つまりちょうど一年前だ。


 新入生向けのガイダンスも終わり、周囲の地形の確認がてら、ちょうどこの時間帯に大学の周りをぶらぶら歩き回っていた時に、偶然コヨミに声を掛けられたのだ。

『話し相手が欲しかった』、と言って笑う彼女を、最初は美人局か何かだと疑っていた。しかし、そうした不安は彼女と話していく中でさっぱり消え去っていた。

 何故かコヨミの話に耳を傾けていると、そうした緊張や不安が雪解けのように段々と無くなっていくのだ。

 まるで、コヨミの声色に話し相手の心を解きほぐす魔法が掛けられているみたいに。


 それからというもの、俺とコヨミは週に二、三回ほどの頻度で会い、話すようになっていた。

 時間帯は決まって深夜。しかも誰もが寝静まるような真夜中だ。

 

 コヨミは不登校で中学校に行けていないらしく、生活リズムも乱れに乱れ切っている。だがそれでも、俺の前だと普通の少女のように明るく振る舞ってくれる。

 きっとそれは、俺との会話の中で少しだけでも青春を補填したいという気持ちの現れなのだと、俺は解釈している。


 自分がどうして不登校になったのか。

 自分がどうしてこんな深夜に散歩するようになったのか。

 そうした身の上相談をしないのも、そうした心理から来ているのかもしれない。


 ……俺は不登校になってしまった子どもの気持ちなんて分からない。

 だから共感なんでできないし、月並みなアドバイスを提案することしかできない。

 だがきっとそれは、コヨミにとって何よりも鋭利で残虐な刃だろう。

 コヨミはコヨミなりに自分の心と戦っている。

 あの天真爛漫な笑顔の下には、俺の理解では決して及ばないような感情が渦巻いているのだろう。


 だから俺は、彼女に寄り添うことしかできないのだ。




 俺たちは肩を並べ、夜の住宅街をゆったりとした歩調で歩いていた。

 目的地も順路も何もない。ただただ直感が囁いた通りの道へと進んでいくという逍遥。

 その最中で俺たちは言葉を交わし、何気ない話題やニュースを種に会話の花を咲かせるのだ。


 今日だって普段通り、他愛もない話を繰り広げていた。

 昔流行ったゲームのこと。最近SNSで見かけるようになったミーム。ついさっき必死こいて終わらせたレポートのこと。この前バイト先でグラスを落として割ってしまったこと。

 取り留めのない、雑多な話題の数々。

 きっと家に帰って寝て起きた頃には話したことすら忘れてしまうようなこと。


 それでも、コヨミと一緒に楽しみや辛さを共有できるのは――とても幸せだった。


 一体どれくらい話しただろうか。

 いつしか俺たちは街外れにある神社の境内に来ていた。

 俺たちの散歩の終着点は決まってここだ。どこから歩き始めても、どんな道を選んでも、いつの間にかこの神社に辿り着いてしまうのだ。


 深夜の境内は静まり返っていて、どこか物々しい雰囲気が漂ってしまう。

 もし一人だけなら、間違いなく来ないだろう場所だ。

 どんなに噓だのまやかしだのと言われても、やっぱり幽霊やら怪異やらは怖いものだ。


 だが、コヨミと一緒で来る時は別だ。どんなに真っ暗で静かでも、なぜか恐怖は湧いてこない。

 コヨミの輝かんばかりの満面の笑みが、そういう邪念を吹き飛ばしてくれるはず――。

そんな馬鹿げた思考が、頭の片隅にあるのだ。


 だからこんな風に深夜の神社に忍び込んで、立派な石の灯篭の台座に座って足を投げ出していても、決して怖くはないのだ。


「どうしたの颯太?」


 ふと、俺の隣に座っていたコヨミが不思議そうに俺の顔を覗き込んでいるのに気付いた。


「いや、なんでもないよ」

「うっそだー? だってその顔、いかにも『自分悩んでますよー』って感じだもん」

「えぇ……? そうか?」


 思わずペタペタと顔を触ってみるが、いまいち実感がない。

 確かに、今日は大学で感じた不穏な視線やナニガシさんの奇行で心身共に疲弊しているが、顔に出るほどではないと思う。


 自分でも気付かないほど、小さな小さな表情の機微。

 それを目ざとく見つけてしまうのが、コヨミという少女だった。


「……あー……別に気にしなくていいよ。これは俺自身の問題だから」

「そう? ならいいけど……」

「心配してくれてありがとな、コヨミ」


 真っ直ぐ視線を向けてコヨミと目を合わせながら、感謝の言葉を口にする。

 すると彼女は少しだけ頬を赤く染めて、嬉しそうにはにかんだ。


「ふふっ、別にお礼なんて言わなくたって……あっ、そうだ」

「ん?」


 ふと、コヨミが思い付いたように声を上げたので、俺は首を傾げた。

 すると――。


「はい、どーん」


 ぽすん、という衝撃が膝の上に走る。

 コヨミが俺の膝に顔を埋めている。

 その状況を理解するまで、数秒はかかった。


「はっ、お前何して――!?」

「前から膝枕っていうシチュエーションに憧れててね? 折角だし、颯太で実験してみようかなーって」


 彼女は器用に寝返りを打つと、少しだけ顔を覗かせながら、悪戯っぽく微笑んだ。

 その年端も行かない少女のものだとは思えないほど蠱惑的な表情を見ると、何も言えなくなってしまう。


「っ、ぅぅ……」


 鼓動が早くなっていくのを感じる。顔がなんだか熱い。

 身動きしようにも、コヨミは力を抜いて完全に俺に身体を預けている。無暗に動けば、コヨミが怪我するかもしれない。


「……分かる? アタシね、本当に楽しいんだよ。颯太と一緒に過ごすのが」

「…………」


 俺はもう何も言えなかった。黙ってコヨミの声に耳を傾けることしかできない。


「……今までずっとずっと、長い夢を見てきたんだ。永遠に覚めない夢。どれだけ眠っても絶対に抜け出せない悪夢。夢を見ることに疲れても、現実を直視することを決意しても、ついに覚めることがなかった」

「…………」

「こうやって外に出れるようになったのもごく最近でね? だから、だから……えっと、楽しいんだよ。本当に。颯太と一緒に歩けるの」


 途切れ途切れの言葉。

 まるで深海に沈んだ真珠を一つ一つ拾い集めてきて、繋ぎ合わせているかのような。


 それはきっと吐露。

 

 俺の頭では到底理解できそうにないが、それがきっと彼女の本心なのだろう。


「……コヨミ」


 コヨミの言葉を咀嚼してみる。

 が、やっぱり分からない。

 何か、精神安定剤のような薬の影響で支離滅裂になっているのか? 

 

 いや、違う。妄言にしては、あまりにも口調も声色も明瞭すぎる。

 寝言にしては、呂律もきちんと回っている。

 ということは……何かの比喩か? 

 そんな可能性に行き当たる。

『悪夢』という語句はそのままの意味ではない。何かしら、別の事象に対する比喩表現。


「……あー」


 必死に思考を巡らせてみるが、答えは分かりそうにない。


「ねぇーえ、颯太」


 脳髄が蕩けるような、甘い声。

 今まで一度たりとも聞いたことのないコヨミの声色に、俺の心拍数は跳ね上がる。頭がクラリと揺らいだ。

 俺が微塵たりとも動けないのを横目遣いで確かめると、コヨミはにやりと笑って俺の腹に顔を埋めて、そのまま頬擦りをしてくる。

 その飼い主を前にした子犬のような甘えた態度に、俺の理性はガラガラと音を立てて崩れていく。なんだか身体が熱い。


 片手で俺の腰に手を回し、そのままぎゅっと顔を押し付けると、深く息を吸って――。




「っ!?」




 バッ!と弾き飛ぶような勢いで顔を離すコヨミ。その勢いで手が離れ、俺の膝から転げ落ちる。

 そのままもがき苦しむように両手をバタバタと動かして慌ただしく上体を起こす。


「う、ぅぁ、んぐぁ、っぁぁ!!」

「こ、コヨミ!?」

「はっ……はっ……う、おえぇ……!!」


 声にもならない絶叫を上げ、激しくえずくコヨミ。

 息を切らし、小石が敷き詰められた地面に爪痕がしっかりと残るほど土を握り締め、髪を振り回す。


「はぁ……はぁ……っ、はぁ……!」


 やがて辛うじて正気を取り戻したコヨミは、焦点の合わない瞳で俺を睨みながら、額に汗を滲ませて。




「っ、なんで!? なんで颯太からアレの臭いがするの!?」


 


 一瞬、コヨミが何を訴えているか分からなかった。


「え、は……?」

「なんでっ、颯太にその臭いが付いてるのかって聞いてんの! 答えてよっ!! 早くっ!!」


 困惑する俺に、コヨミは恐ろしい剣幕で迫ってくる。

 その鬼気迫る表情に一瞬度肝を抜かれたが、俺には何のことかまるで分からない。

 臭い? 悪臭という意味だろうか?

 風呂には毎日入っている。香水も付けていない。そもそも体質的にあまり体臭はしない方だ。

 だからどうしてその臭いが、だなんて訊かれても、俺には答えようもない。


 俺にはその臭いの正体さえ分からないのだから。


「に、臭いって言われても……何のこと言ってるか分からねえよ」

「っ、あぁ、そっか……」


 素直にそう答えると、コヨミは大きく目を見開いた後、がくりと脱力するように俯いた。


「な、なぁ。大丈夫か? なんかお前、さっきから変だぞ?」

「……」

「に、臭いって言ったって、そんな劇薬みたいな臭いじゃないだろ? 大袈裟なんだって、なぁ?」

「…………まさか、アイツらがもう一度外宇宙から……?」


 ぽつり、と風に乗って聞こえてきた呟き。

 普段のコヨミからは想像も付かないほど弱々しく、消え入りそうな掠れた声。

 辛うじてそれが意味を持った言葉だと認識することはできたが、内容までは聞き取れなかった。


 どういうことだ――と尋ねようとして、口を開いた瞬間。


「ご、ごめん。アタシ、もう帰る」

「え?」

「こんな時間まで付き合ってくれてありがと。じゃ、また今度ね!」


 無理矢理絞り出したかのような明るい声を最後に、コヨミは踵を返して走り去っていった。


「あ、ちょ、おい!」


 思わず手を伸ばして呼び掛けた時にはもう遅く、コヨミの背中は黒洞々たる闇へと消えていた。暗闇の中で遠ざかっていく足音だけが虚しく響き、やがて聞こえなくなった。


「……行っちゃった、のか?」


 中途半端に伸ばしたままだった右手が虚空を掴む。


 しばしの間、俺はそのまま呆然としていた。

 事態が理解できず、コヨミの心境に共感できず、俺の頭はシャットダウンしたかのように動かなくなっていた。


 やがて境内に降り積もった夜闇の冷たさに自分の孤独を思い出すと、途端に恐ろしくなり。


「……クソッ、一体どういうことなんだよ……!?」


 俺は状況を飲み込むことすら忘れて、脱兎の如き勢いで神社から逃げ出した。







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