這いよるナニカ

 

 人間社会において、最も重要なものはなんだろうか?


 そんな疑問が投げ掛けられたのなら、私は一瞬の迷いもなく愛と答えるだろう。


 他人と他人。

 血縁関係など何もない人間同士が繋がり、協力し、やがて愛し合う。

 とても素晴らしいことだ。


 かつて名前も顔も出自も知らない他人同然だったはずの人同士が、やがて家族以上の絆で結ばれる。

 とても尊いことだ。


 愛とは、人間同士の間を繋ぐ最もしたたかな紐帯だ。

 愛に結ばれた者が互いに力を合わせることで、人間社会はより高度かつ急速に発展してきた。

 人間の歴史とは、愛そのものの歴史なのである。


 友愛。親愛。恋愛。隣人愛。

 人はそうした人間同士の繋がりの中に、愛を見出した。


 人間の愛。

 とても興味深いものだ。

 



「……あぁ、ちゃんとしないとなぁ、私……」


 あの男が立ち去った後、女は机に突っ伏したままそんなことを呟いている。


「こんなんじゃ一生気の合う友達程度だ……もっと積極的に行かなくちゃ……」


 ああ、なるほど。

 今は友人同士という関係性に留まっているが、いつかはそれを超えた関係性……つまり恋人同士になりたいと考えているのか。

 しかし自分自身に自信が持てないのか、いまいち積極的にアプローチできていないらしい。


 逡巡。躊躇。いや、恐怖? 

 

 そうだ。間違いない。

 あの女は現在の関係性が崩壊することを極端に恐れている。


 それはきっと、愛ゆえだ。

 女は男に対し、恋愛を感じている。つまり婚姻関係を、あるいは恋人関係を結びたいという情動だ。


 だが男は違う。あの男が女に対する感情は恐らく友愛、あるいは親愛だ。

 別に恋人関係を結ぼうと思っている訳ではない。万が一恋愛感情を表明する儀式……そう、告白を受けても決して応じたりはしないだろう。

 いや、大学生という社会的階級に位置する人間たちは、その階級ゆえに享楽的かつ奔放な個体が多いと聞く。

 予想するに、性的衝動にも比較的脆弱なのだろう。


 ひょっとしたら持て余した性的欲求から、恋愛感情はなくとも肉体関係には発展するかもしれない。

 いや、あの男の顔はそんなことをする人間のそれじゃない。多分きっと……。


「はぁ……帰ろっかな」


 ふと、女が顔を上げて立ち上がった。どうやら帰宅するつもりらしい。

 

……ん?


 椅子から腰を上げたことで、初めて女の全貌が露わになった。

 その姿に、思わず目を奪われる。


 年は二十歳前後。おそらく十九。顔に化粧気はなく、ピアスやネックレスなどの装飾品は着けていない。服装も相まって、地味で目立たない印象を受ける。

 顔立ちは意外と整っている。姿勢も歩く姿も綺麗だ。

 体幹も正中線も安定しており、運動もある程度しているのだろう。分厚くだぼついた服の裏には健康的な肢体が隠れているのが分かる。自己肯定感の低さに釣り合うようなプロポーションだとは思えない。

 多分過去のトラウマか何かで、自分に自信を持てなくなってしまったタイプの人間だ。


 そういう人間は意外と多い。

 幼少期の衝撃的な出来事が原因で、それ以降の人格形成に大きな影響が生じる。

 それはまるで巨大なジェンガかプラモデルのように、たった一つの部品の小さな歪みだけで全体像が大きく変容してしまうのだ。


 なんと繊細で、なんと緻密な。


 人間の精神構造の美しさに改めて感嘆しながら、急いで女の後を追う。


……やはり綺麗だ。見惚れてしまうほどに。


 そんな感動が思考を満たす。

 甘美な感情のスープは煮詰まることなく、どんどん膨れ上がっていき、やがて溢れ出す。


……ああ、もう我慢できない。


 慎重に、慎重に女との距離を詰める。

 幸い女の歩幅は小さく、歩調も遅いため私の足でも追い付けた。


……いや、足じゃあないな。


 頭の片隅によぎった思考を振り払う。

 そうだ。今の身体に足なんてものは存在しない。いつまで前回の感覚を引き摺ったままでいるんだ。心の中で自分を 責する。

 今の――に地を踏み鳴らし、野山を駆け回る必要などないのだから。


……さてと、入るか。


 この女なら。


 この視界なら。


 この精神なら。


 この魂なら。


 きっと、望んでやまなかったソレを見ることができる。


 人間社会の基盤に根差す、集合的無意識の完成形。

 機械的な暴虐と無意識的な理不尽の最中で、それでも朽ち果てず脈々と受け継がれてきたもの。

 人間が人間である理由。


……ああ、是非見せてほしい。




 精神寄生体たる私が、一体どのような愛を成し得るかを。



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