カラの玉座とヒトマニア


『おお、神よ! 我らが守護神よ!』


『我らに慈悲を与えたもう!』


 頭の片隅で、懐かしい声が響く。


 周囲には動物の革で作った、粗雑な服を身に付けた男たちが頭を下げている。

 彼らの毛深い背中を、自分は少し高い位置から見下ろしている。


 そこは祭壇だ。


 薄暗い洞窟の中に作られた、簡素な台座。

 石を集め、削って、積み上げただけの不格好なものだったが、不思議と座り心地はよかった。


 でも、多分もうその残骸は残っていない。

 それを築き上げて奉納してくれた彼らも、もういない。


 機械的で、ぞっとするほど冷酷な時の流れの中で消えてしまった。


『わ、我らが神! 空からっ、空から黒い星が降ってきました!』


『アレは煙です! 我々には触るどころか見ることさえできない、煙の精霊なのです! 既に何人もの女と子どもたちが連れていかれました!』


 ……。


『あー、あー、ふむ、この惑星に住む生物の言語はこれだな。ふふっ、まだ未発達だな。少し勉強するだけですぐマスターできた。文明レベルもまだまだだな。遥か外宇宙に我々と同じ知的生命体が出現したと報告を受けて調査に来たが……ふぅん、お前は別種だな? あの生物たちはお前の奴隷か?』


『素晴らしい、素晴らしいぞこのニオイは!! 時空を超え、四次元領域にまで伝わってくる、この濃厚な芳香!! おお、おお、おお!! これが生命の真髄かっ!!』


『我々はお前が欲しい。お前は庇護するべき対象を喪えば、自由になるのだろう? だからこの惑星に住む生物を鏖殺する!!』


 …………。


『……くはは、やはりお前は素晴らしい。我々の能力を用いても、調査隊全員で襲い掛かっても、まだ倒れないとは。やはり欲しい……だが、もう駄目だ。時間切れだ。この星の調査は次に任せるとしよう』


『お前も、もう限界だな? はは、ニオイが薄まってきているぞ? ……さらばだ、遠い外宇宙の同類よ。またいずれ会おう!』


 ………………そこから先の記憶は、あまりない。


 奴らを撃退するので力をほとんど使い果たして、肉体を維持できなかったのだ。


 アタシの肉体は消滅し、やがてアタシが創り出した功績と伝説だけが残った。


 遥か古来から、世界各地で脈々と受け継がれてきた、神に関する伝説やおとぎ話。


 原始時代から、人々の心の拠り所となっていた。

 ぶどう酒を万物の霊薬へと変えた。

 光の剣を振り、闇に包まれつつあった世界をあまねく照らした。

 燃えない炎を操り、侵略者どもを撃ち滅ぼした。

 世界を救い、人類を守り切った。


 そんな数々の伝説を伝え聞いた子どもたちが、アタシの功績に驚き、感動し、憧れ、敬う。

 そんな純粋な信仰心によって、アタシという霊体は辛うじて意識と自我を維持していたのだ。


 だが。


『邪教徒め、地獄に落ちろ!』


『改宗せねば、その命、ないものと思え!』


 人々は、新たな神を生み出した。

 文明が進み、社会の雛形が築き上げられる中で、実体も力も失った旧時代の唯一神はお役御免となったのだ。


 新たな神の教えは増え、地に満ちて、海を超え。



 やがて、アタシへの信仰すら焼き尽くした。



 伝説という唯一の信仰心の供給口を失ったアタシは、ほとんど地縛霊のような存在――。


 言うなれば、生物と空気の中間のような思念体になって、世界の狭間を漂い続けていた。


 ……長い長い、終わらない夢を見ていたような気がした。

 

 生きているのかも、死んでいるのかも分からない。

 ただただ、まどろみの中にいた。


 何も見えなかった。神に顔があることは忘れられた。


 悲鳴も出なかった。神に声があることは忘れられた。


 少しも動けなかった。神に肉体があることは忘れられた。


 死ねなかった。神にも命があるということすら忘れられたのだ。







 ……何百年、何千年。どれくらいの間、そうしていたのだろう。



 ふと、声が聞こえた。



『なあ、颯太。この前裏山で自然薯堀りをしてたらさ、崖の中から変な石版が出てきたんだ。掠れて見えないけど、何か変な模様が浮かび上がってるんだ。父さんにはこれが何なのか分からなくってさ、颯太なら分かるかなーって思ったんだが……』


『……これ、えなんじゃないの?』


『絵?』


 ああ、子供の声だ。

 聞くだけで心の奥底から勇気が湧き上がるような、とても優しい声。


『なんか、へんなだいざのうえに女の人がすわってて……ほら、ここ。それで、そのまわりにいる人たちがあたまをさげてる……みたいなかんじじゃない?』


『はは、確かにそれもありそうだなぁ? …………でも、父さんは違うと思うな。これは絵じゃあない。多分、地面の中の赤土が染み込んだだけだろう。それにあの辺の地層はかなり古いからな。もしこれが絵なら、旧石器時代か縄文時代くらいに描かれたものっていうことになる』


『そ、そっかぁ……』


 そうだ。

 ここで一回父親に諭されて、あの子は引き下がったんだ。

 でも、やっぱり自分の仮説をねじ曲げることができなかった。


『おとうさんはあんなふうに言ってたけど、ぜったいちがう! これはえ、むかしの人たちがかいたえなんだ! じゃあこのだいざにすわってて、あたまをさげられてる人は……なんだろう? うーん……あっ、ひょっとしてかみさまかな! そうだ、ぜったいそう! これはかみさまだ!』


 ……ああ、そうだ。この瞬間だ。

 この時、少年はアタシの実在を信じてくれた。アタシに憧れてくれた。アタシを敬ってくれた。アタシを信仰してくれた。


――だから、アタシは復活することが出来たんだ。


 この少年はアタシの救世主。

 命の恩人であり、この広大な地球に残された最後の信者。


 冗談みたいな話だが、神とはそういう存在だ。

 誰かに必要とされ、信仰されることで、初めてこの世界に降り立つことができるのだ。


『すごいなぁ、かみさま! かみさまだ! かっこいいなぁ!』


 無邪気な表情。明るい声。今にも躍り出してしまいそうな四肢。


 その瞬間、私はその人間に――浜九里颯太に、どうしようもなく心を奪われてしまったのだ。

 そう、愛してしまったのだ。


 数千年の時を経て。


 何も知らない人の子に――抱いてしまった。


 無償の愛アガペーでも性愛エロスでも友人愛フィリアでも家族愛フィラウティアでもない。


 何よりも激しく、身を焦がさんばかりに燃え上がる熱狂的な感情。



――狂愛マニアを。



 アタシはどうしようもない情動に、浜九里颯太という人間に、狂ってしまったのだ。



「俺が傍にいるから……大丈夫」


 頭上で、颯太の声が聞こえる。

 何千回何万回聞いても飽きない、極上のオーケストラの如き美声。


 アタシの心は……もう駄目だった。

 彼の胸に抱かれていると、神としての威厳やしがらみを忘れてしまいそうになる。


 威光と権威に満ち溢れ、この地球を守護する神としてではなく。

 深夜、誰もが寝静まった時間にふらりと現れる少女としてではなく。



 臆病で、不安症で、誰かに信じてくれなければ死んでしまう、脆い『コヨミ』として。



 そんな本性を、包み隠さず、曝け出すことができていた。


 先ほどまであれこれと悩んでいたのが、途端に馬鹿らしく思えてくる。

 胸にのしかかっていた重圧が、まるで噓のように綺麗さっぱり消えていた。



 すっかりアタシは颯太の虜になってしまったのだ。



(……ああ、温かい。本当に……溶けてしまいそうだ……)


 柔らかな体温に。どく、どくと微かに感じる颯太の鼓動に。全てを奪われる。



 多分、アタシはこの瞬間のために生きてきたのだ。




 心の中で渦巻く烈火のごとき愛情――狂愛マニアを発散するために。

 



「…………浜九里くん?」


 ふと、知らない誰かの声が聞こえた。


 颯太を呼ぶ声。

 女だ。


 途端に嫉妬心が湧き上がる。


 邪魔だ。

 この蜜月の時に割り込むな、人間ごときが。


「……た、田淵?」


 颯太も颯太だ。そんな声に反応しないでよ。

 一生、いや、命が尽き果てて魂だけになってもアタシに対する愛だけを囁き続けてよ。


「えっと、これはその……あっ、もう家から出ても平気なのかよ? い、今からお前の家まで行こうと思ってたんだ。食べ物とか飲み物を届けるために。ほらっ、スマホにも連絡を入れてただろ?」


 うるさい。ベラベラと喋るな。

 いいから、黙ってアタシの言うことだけを聞いてろ。



 幸福で満ち満ちていた心の片隅に、ほんの小さな苛立ちが芽生え始めたその時。





 無色透明の『悪臭』が、鼻腔に入り込んできた。



 

 

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