壊れた誰かの通り道



「なんか……今日は、色々と変だな。疲れてんのかな?」


 俺は夕暮れに染まった住宅街をとぼとぼと歩いていた。


 道端の電柱に取り付けられた街灯が、ぽつぽつと灯り始めている。

 黄昏と無機質な光が混じって、斜陽の中に溶け出している。


 なんだか歩いているだけで、目が眩んでしまいそうだ。


 スマホを取り出し、何度時刻を確認しても――午後6時。

 やはり、何というか、実感がない。体感はまだ午後3時くらいだというのに。


 もう6時か、という違和感が胸の中で渦巻いていて、なんだか気持ち悪い。


 今日はずっとこんな調子だ。

 意識だけが置いてけぼりで、時間だけが一瞬で過ぎていく。世界が上滑りしているような感覚。


 上手く言葉にはできないが――ひどく不愉快だ。


「……はぁ」


 俺は今、大学近くのドラッグストアで買ったスポーツドリンクやゼリー飲料などを詰め込んだビニール袋を持って、田淵の家へと向かっていた。


 先ほど送っておいたメッセージにはまだ既読は付いていない。


 高熱か何かで寝込んでいるのだろうか。

 とはいえ、別に構わない。田淵に恩を売りたい訳でも、自分の気配りの良さを喧伝したい訳でもない。

 ただ体調不良の友達を心配する――という、ごく単純で当たり前な意思に従っているに過ぎないからだ。


 直接手渡すことができなくても、ビニール袋ごと玄関のドアノブに掛けておけば、後でメッセージに気付いた時にでも受け取ってくれるはずだ。


 田淵の住むアパートは、家からも駅からもかなり離れた住宅街の外れにある。


 正直言って不便な場所だが、その分家賃も安く、親元を離れて上京してきている田淵にとってはとにかくありがたい立地なのだ。

 大学への移動も自転車さえあれば事足りるし、バスに乗れば都内であればどこへでも行ける。田舎とは交通の便の太さが違う。

 自動車がなくても生きていけるというのは、俺にとってはあまりにも不思議な環境だった。やはり、都会は便利だ。


 今思うと、田淵の家に行くのはかなり久しぶりだ。

 俺が田淵と会って話すのは大学構内だし、どこかへ遊びに行く時も大抵は都心の遊興施設や街などで、お互いの家に行くことはほとんどない。

 一人で異性の家に立ち入るというのは俺にとっても、田淵にとってもかなりハードルの高い行為だからだろう。


 唯一田淵の家に入ったのは、確か半年前くらいだったか。


 期末レポートの締切間近。しかも難易度がシャレにならないくらい高いレポート課題を数多く抱えていた際、半ば泣きそうになりながら田淵の家に駆け込んだ時以来だ。


 あの時は田淵のアドバイスや協力の甲斐あって、なんとか提出期限に間に合うことができた。

 もし田淵がいなければ、今頃俺は進級できず、二度目の一年生生活を謳歌していただろう。

 劣等感や無力感で押し潰されて、そのまま学業にも身が入らなくなり中途退学……そんな未来もあったかもしれない。


 そう考えたら、俺の大学生生活は田淵のお陰で成り立っていると言えなくもない。


 この恩は多分、返そうとしても返し切れないくらい大きいものだ。


「…………田淵、大丈夫かな」


 俯きつつ、そんなことを口の中で呟いた。


 その時だった。



 ずっ、ずっ、と重苦しい足音が前から近づいてくる。



「やっほー、颯太」


 聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。


「こ、コヨミ?」


 視線の先。そこにはコヨミが立っていた。

 だが――なんだかいつもと様子が違う。

 桃色の髪は荒れ放題で艶もなく、藍色の瞳には拭い切れない疲労の色が浮かんでいる。

 目元には薄っすらと隈が滲んでいて、焦点もどこか合っていないようにも見えた。

 

 それに、あのコヨミがこんな時間に外出しているなんて――。



「よかったぁ、やっぱり居てくれたぁ」



 ――ひゅっ、と音が鳴った。


 それは俺の喉奥から空気が漏れる音だった。



 この子は、誰だ?



 声も顔も身体も、コヨミだ。間違いない、この子はコヨミだ。

 だが、何かが違う。


 雰囲気? 

 それもある。

 いつも明るく、素直で元気いっぱい。陰鬱とした深夜の闇にも負けない、輝かんばかりの笑顔で振る舞ってくれる。

 それが俺の知る、コヨミの姿。


 だが、今俺の目の前にいる少女は、どこか違う。


「アタシね、ちょっと色々大変なことが立て込んじゃっててさぁ」

 

 ふらふらとした、頼りない足取りも。


「颯太に会ったら慰めてもらおうって思って、ずっと探してたんだぁ」


 整った顔に貼り付いた、力の抜けた笑顔も。


「……ねぇ、聞いてるの?」


 どこか間延びした、聞いているだけで脳髄がとろけてしまいそうな甘い声も。


 何かがおかしい。


 首をもたげた違和感。

 その正体すら分からないのに、胸の奥から冷たい感覚だけがせり上がってくる。

 怖い。


 それが何に対する恐怖なのかも、分からない。

 そう感じる自分が何よりも恐ろしくて、背筋がぞくりと震えるのを感じた。


 まるで足が地面に縫い止められたかのように、ピクリとも動かない。


 俺は、頭の片隅で顔も知らない『神』に命乞いをした。


 すると、少しだけ身体が動かせるようになった気がした。

 火事場の馬鹿力というやつか。それとも思い込みの力か。


「……ぅ、ぁ」


 ほんの少し、自由を取り戻した身体で。

 思わず、思わず半歩だけ退いてしまいそうになって。




「――やめてっ!!」




 鋭い断末魔のような声が、狭い路地に響いた。


「……え?」


 思わず我に返った俺の、狭い視野に飛び込んできたのは。


「やめて……お願いだから、行かないで……」


 今にも泣き出しそうな顔をしたコヨミの姿だった。


「あ、アタシには……もう、颯太しかいないんだよ……」


「も、もう他に頼れる人もいなくて……アタシが守ってやって、尊敬してくれたみんなもいなくなってて……ほ、骨すら残ってなくて! だからアタシはみ、みんなに忘れ去られてて……! えっと、えっと、だからっ! その……信じてくれないと、アタシは……!」


「今までせっ、世界中に散らばってたアタシの分裂体が、いや、伝説がっ、アタシの意識だけを生かしてくれてたけど……こ、この、身体はっ、維持できなくて!」



 どもりながら、詰まりながら、それでも懸命に何かを伝えようとしてくるコヨミ。

 夜の眩い光源に吸い寄せられる羽虫のように、ふらふらと危うい足取りで歩み寄ってきたコヨミ。


 やがて彼女は倒れ込むようにして俺に抱き着いてきた。

 呆然と佇んでいた俺の胸に、コヨミの顔がぽすんと埋まる。


「だから、ね……? お願いだから、私を……一人にしないで」


 そう言って、コヨミは俺の背中に手を回し、胸板に頬ずりをしてくる。


「………………ぇ?」


 掠れ、消え入りそうな声が漏れた。


 何も理解できなかった。

 支離滅裂で、荒唐無稽。


 聞いてるだけで頭が痛くなるような、奇妙な言葉の吐露。

 多分話してるコヨミにすら、その内容は分かっていないのだろう。


 これは夢なんじゃないか。

 そう思った。


 だが、違う。


 胸元に感じるコヨミの感触も。

 服越しに感じる吐息の生暖かさも。


 本物だ。

 紛れもない現実。


(……ああ、そういうことか)


 ふと、一つの可能性に思い当たる。


(多分……これがコヨミの本性なんだな……)


 俺の心には、奇妙な納得があった。


 いつも深夜に会う時にコヨミが見せる、年相応の無邪気で明るい顔。

 そして――今のコヨミが見せる、不安定で、今にも崩れ落ちてしまいそうな顔。


――ひどく、脆いのだ。コヨミの心は。


 薬の中には、副作用として悪夢やパニックを起こしてしまうものもあるという話を聞いたことがある。

 コヨミがそういう類の薬を服用しているなんて、聞いたことがない。疑ったことも無かった。


 なぜなら、あの子はあんなにも明るい子だったから。


 今更、後悔と納得が湧き上がってくる。


……多分あれは、自分の心を守るための鎧だ。


 自分とは真逆の性格を持つ、もう一つの自分像を築き上げて、その役を必死に演じる。

 演者という存在であることに徹するのだ。

 気丈で、活発で、明るい少女という役で、自分の本性を覆い隠す。


 自分が置かれた状況も。


 自分を苛む悩みも。


 自分が感じている、将来に対する絶望も。


 演じる役に与えられた舞台設定だと考えれば、少しは楽になるだろうから。


「…………コヨミ」


 渇いた喉を動かして、無理矢理声を出す。

 情けないほどに震えていて、笑ってしまいそうになるほど掠れている。


 それでも。


 なんとか声を搾り出す。


「大丈夫」


 きっと、俺がここで支えてあげなければ、コヨミは二度と立ち上がれなくなる。


「大丈夫、だから」


 俺は、胸の中で小さく震えるコヨミの背中に、やや控えめで遠慮がちにだが、手を回した。


「俺が傍にいるから……大丈夫」


 多分、年齢差を考えれば明らかに条例に反する行為だ。

 もし周りに人がいれば、白い眼を向けられるに違いない。


 それでもいい。

 本気でそう思った。


 俺が恥をかいたり、警察にしょっ引かれる程度のことで彼女の気が休まるなら――俺は、何を投げ出してもいい。


 もし俺の知るコヨミの姿が全部まやかしでも、噓まみれの虚像でも、構わない。


 だって、コヨミと過ごした時間は……俺にとって、大切な宝物だから。





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