脳を振り絞ることなかれ




 繫華街の外れ。裏路地に面したバー、ゴールデンスランバーの扉が開く。


 その中から清潔なダークスーツを身にまとった中年男性が出てきた。

 男は扉に鍵を締めると、そのままどこかへ向かって歩き出した。


「……よし」


 それを確認した私は、電柱の陰から這い出した。


 つま先立ちで歩いて足音を抑え、息を殺し、気配を消し。

 細心の注意を払いながら、男の背中。5メートルほど離れた位置に付く。


 まさか自分が尾行されているとは夢にも思っていないのだろう。

 警戒する素振りすら見せない。


 好都合だ。思わずほくそ笑んでしまう。


 だが、油断は禁物だ。あの上位存在のように、私が『普通ではないこと』を察知できる者がいるかもしれない。

 私はキョロキョロと辺りを見渡し、周囲に誰もいないことを確認する。


 ぎりぎり帰宅ラッシュ前の時間帯だろうか。入り組んだ裏路地はひっそりとしている。

 またまた好都合だ。どうやら運は私に味方してくれているらしい。


 私は小さく息を吸うと、それ・・を出した。


 目には見えない、触れもしない、知覚すらできない、蜃気楼のような物体。

 だがそれは確かに存在する。

 形はなくても、まるで『ニオイ』のように、確かにそこにあるものだ。


 それの実存を認識できるのは私と同じ精神寄生体か、それに準する存在――人の理を超えた、上位存在だけだ。


 これは私の分体だ。

 精神そのものが命を宿した、幽霊のような存在である私の片割れ。あるいは破片。

 言ってしまえば、私と同じ記憶や意識を持った花粉のようなものだ。


 これを使って、私は今からあの男の脳を支配する。


 とはいっても、田淵怜にやったような、意識や記憶をそのまま乗っ取るような手法ではない。

 脳機能全体を奪取するには、分体はあまりにも小さすぎるのだ。

 力も弱く、欲張れば宿主の自我に塗り潰されて消滅してしまう。


 人間の脳構造はあまりにも複雑で、分体程度では全ての機能を奪うことはできない。

 肉体の主導権の奪取や記憶の改竄といった、高度な操作などは不可能だ。


 だが、思考に取り付けば、ある程度のことはできるようになる。


 例えば。

 思考に私の意志を割り込ませることによる、行動方針の変容。

 視覚や聴覚の伝達プロセスへの介入による、視覚の盗み見、盗み聞き。

 宿主が持つ記憶の読み取り。


 精神に寄生するのだから、ほぼ全ての精神活動に干渉できるのは当然だ。


 私があの男を狙った理由は単純明快。

 浜九里颯太を監視するためだ。


 この男は、浜九里颯太と一種の師弟関係を築いている。

 きっと彼はこの男に対して、私に見せるそれとはまた違う顔を見せてくれるに違いないと踏んだのだ。

 誰かを愛するためには、まず相手のことを誰よりも深く知らなければならない。

 家族や友人、そして当の本人よりも詳しくなければならないのだ。そう考えている。


 だから、私はあの男を『監視カメラ』にしようと画策しているのだ。

 浜九里颯太が勤務中に見せる、私の知らない顔。声。表情。


 その全てを、あの男の五感を通して知りたいと思い立ったのだ。

 

 とはいえ、完全に脳の支配権を奪う訳ではない。

 あの男の自我や意識はそのまま残るだろうし、浜九里颯太が違和感を覚えることはまずないはずだ。


 私は男と一定の距離を保ったまま、慎重に分体を伸ばしていく。


 3メートル。2メートル。1メートル。


 0。



「うぁ、あっ、あっ」



 入った。


 両耳から外耳道に侵入した分体は、即座に鼓膜を透過すると、うずまき管に到達。

 そしてそのまま聴神経を支配下に置くと、その根元まで遡って――。


「んぷぇぁ」


 よし、脳への侵入に成功。

 これで分体を植え付けることに成功した。

 この男は最早、私の傀儡だ。視覚や聴覚の盗み見、盗み聞き、思考への介入まで自由自在だ。


「……しばらく遠隔操作で様子を見るか」

 

 私はそこで足を止め、尾行を中断する。

 男は最後まで私の存在どころか、自分の脳内に尋常ならざるモノが紛れ込んだことに気付いていない様子だった。そのままコンビニの自動ドアへと消えていく。

 それを確認すると、私は踵を返して駅がある方角へと歩いていった。







「さて、あの男はどうだ?」


 帰宅途中の学生で溢れ返った夕方の駅前。その一角にあるベンチに、私は腰掛けていた。

 背もたれにだらんと身体を預け、目を閉じている。

 瞼の裏に広がる暗闇に浮かぶのは、あの男の視界だ。


 どうやらコンビニでタバコを買ってきたらしい、店の勝手口の前でタバコを吸っている。


「……浜九里颯太は喫煙者なのだろうか。彼はまだ公的にタバコを購入できる年齢ではないが、未成年でもタバコを入手する方法はいくらでもある。今度聞いてみるか」


 男は吸殻を灰皿代わりのブリキ缶に突っ込むと、そのまま店内に戻っていく。

 その間、私はこの男の記憶を読み取っていた。


「田代吾一48歳。大学時代のアルバイトを契機にバーテンダーを志し、独立と同時に『ゴールデンスランバー』を開店。しばらく一人で店を回していたが、一年ほど前、幼少期から親交のあった友人の息子……浜九里颯太をアルバイトとして迎え入れて現在に至る……か」


 思ったより凡庸な人間だ。

 ある意味想像通りだが、心のどこかで期待していた分、どこか拍子抜けしてしまう。

 こんな男の、一体どこに浜九里颯太は惹かれたのだろうか?


「まぁ、それも愛か」


 愛とは多種多様だ。この地球上に存在する生物と同等、いやそれ以上の、それこそ星の数ほどの形がある。

 その中には傍から見れば歪で、意味不明な物も多い。


 一方的な愛。愛のない愛。惑星そのものを焼き尽くさんばかりに強烈な愛。

 その対象も、熱量も、裏に潜む思惑も、何もかもが違う。

 まるで同じ姿形を持つ人間がこの世に二人として存在しないかのように。


 だからこそ面白いのだ。


 この愛、という概念は。


「……っ」


 その時、傍受している映像にノイズが走った。

 ぴしり、と軋むような頭痛がして、思わず額に手を伸ばしてしまう。


「……接続不良、か」


 呻くような声が喉奥から漏れ出した。

 恐らくあの男――田代吾一に寄生させた分体が小さすぎたのだろう。


 自分以外の人間に分体を寄生させるという、その行為自体が久し振りだったからだろうか。どうやらコツを忘れてしまっているらしい。

 それに、聴覚の傍受が上手く行っていない。耳を澄ましても、砂嵐のような音しか聞こえないのだ。


 手応えは完璧だったのだが、今更泣き声を言っても仕方ない。

 失敗は失敗だ。私がミスをしたという事実は覆らない。


 少々リスキーだが、もう一度田代吾一の元へ行き、分体を追加するしかない。


 私はパーカーのポケットからスマホを取り出して、時刻を確認する。午後4時半。

 確か浜九里颯太のシフトは午後5時からだったと記憶している。


『基本的に、シフトは開店から一時間前から入ってるんだよね』


 以前、浜九里颯太は田淵怜にそう語っていた。

 あの言葉が噓偽りでなければ、今日のシフトも例に漏れず午後5時からだろう。


 彼は学業に関してはずぼらで無頓着だが、その実時間にはとことん厳しい。

 私との待ち合わせには絶対に遅れないし、講義で出される課題だって、どんなに複雑で難しい内容でも、内容はどうであれ、必ず期限までには提出する。

 口では色々言っているが、根は真面目で誠実な人間なのだ。


 だからこそ、私は浜九里颯太という人間を気に入っているのだが。


「……さて。どうしたものか」


 私は額に手を当てた。

 今から田代吾一をここまで移動させるとなると、往復で30分以上掛かる。分体の植え付けは一瞬で済むとはいえ、この移動時間は長すぎる。

 仮に田代吾一を全力疾走させても、中年男性の身体能力や信号待ちの時間なども加味すれば、最低でも20分近くは必要だ。


 浜九里颯太は多分、5分あるいは10分前に来るはずだ。

 意気揚々と店に来た時、肝心のマスターが不在だという状況は不自然だ。

 それにタバコも買ってしまった今、わざわざ外出する理由もない。


「……こっちから行くしかないか」


 弾き出した結論はそれだった。

 この運動不足で体力のない肉体を酷使するのは少々気が引けるが、仕方ない。


 私はゆっくりとベンチから立ち上がると、ゴールデンスランバーへ向けて歩き出した。


「流石に姿を見られると面倒だ。到着する前に、監視カメラの映像を停止させておくか」


 そう思い立った私は田代吾一の思考に介入し、【監視カメラを停止】という『思いつき』を植え付けた。


 人間の思考において、最も突発的で不自然な情動。それは思いつきだ。

 それは前触れもなく、まるで暗雲の最中に駆け巡る稲妻のように唐突に訪れるものだ。

 そして、それは人間の思考回路の中で凄まじい効力を発揮する。


 ある時、突然部屋の掃除をやりたくなった。だから満足の行くまで掃除をした。

 ある時、突然散歩をしたくなった。目的も何もないまま、とりあえず家を出た。

 ある時、突然旅行に行きたくなった。その日から、旅行の計画を立て始めた。

 

 ……このように、人間の思いつきというのは、強烈な瞬間風速によって人間の思考や行動を支配するのだ。


 そして私は、そんな思いつきを意図的に発生させることができる。

 そうして私は宿主の思考ルーチンに影響を与えるのだ。


『あ、そうだ。【監視カメラを切らないと】……ん、切る? どうして? あ……いや、いいか。えーっと、どうやって操作するんだっけか』


 目論見通り、田代吾一は私が植え付けた『思いつき』によって動き始めた。

 田代吾一はキッチンで軽食やつまみの仕込み作業をしていたが、ふらふらとした足取りで店のバックヤードへと歩いていく。


 どうやらそこは物置らしく、その一番奥に置かれた机の上にデスクトップパソコンがあった。

 画面には、店内に設けられた監視カメラの映像が映し出されている。その端には録画中と表示されていた。


「そうそう、【その監視カメラを止める】んだ」

『【その監視カメラを止める】……ああ、そうだった。きちんと電源を落とさないと』


 田代吾一は私の思惑通り、パソコンの前に座ってキーボードを叩き始める。

 だが。


『えー……っと。マズイな。どうやって電源を落とすんだったか』

「は?」


 それは想定外の反応だった。思わず足が止まってしまう。


『こういう操作は業者や浜九里くんに任せっきりだったからな……駄目だ。さっぱり分からない』

「ちょ、ちょっと……それはないだろう……?」

『うーん……ん?』


 唸りながら、首を傾げる田代吾一。その能天気な態度に、少しだけ腹が立った。


 分体で思考を操作されているとはいえ、私から一方的に知識や記憶を付与することはできない。

 Wi-Fiルーターの通信速度が上りと下りの二種類に分かれているように、情報の発信と受信とでは明確に違いがあるのだ。


 分体は情報の発信には優れているが、その反面本体である私からの情報受信は不得意なのだ。

 

 だから私は田代吾一の視界の覗き見はできても、その逆は不可能。

 今まで不便だとは微塵たりとも思っていなかった特性が、まさかこんな形で露見するとは。


「……いいから、【監視カメラを止めろ】」


 私はもう一度田代吾一に指令を送る。

 だが、駄目だ。田代吾一は私からの指令を理解こそするが、実行することはできない。

 最初から彼の頭脳には、監視カメラの操作に関する知識も経験も備わっていないからだ。

 小学生が学校で習ってすらいない線形代数の問題を解けないのと道理は同じだ。

 人間は、知らないことは実行できないのだ。


 それは理解している。


 だが。


「…………クソッ、この愚図が」


 理解と納得は別だ。

 段々とどうしようもない苛立ちと怒りが降り積もっていくのが分かる。


 人間は所詮短命種だ。

 たんぱく質で構成された肉体という名の牢獄に折檻された、矮小で即物的な生物。


 愛という特異な精神活動がなければ、塵芥に等しい生命体だと早々に見切っていたに違いない。

 

「……『出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!』……」


 口を突いて出たそれは、果たして誰が遺した言葉だったか。

 確か、浜九里颯太が好きな本の一節だ。

『人間の本質を、とことん悪い言葉で表現しきっている』……浜九里颯太はそのような言葉でこの一文を評価していた。そんな記憶がある。


「……浜九里くん。浜九里くん。浜九里くん」


 田淵怜の肉体に宿り、彼女の恋心を理解した瞬間から、彼の名前は私にとって最も短く、効果的な祈りになった。

 彼の名前を口の中で呟くだけで、心の底から暖かい感情がこみ上げてくる。


 きっとこれが恋、という感情なのだろう。


 だが、これは愛ではない。

 愛とは互いの理解と合意の上で結び合うものなのだ。


 私だけが浜九里颯太に恋情を向けていても、どうにもならない。

 一方的な恋情は時に歪み、猛毒のように互いの心身を蝕む事態になりえるのだ。

 あのコヨミと名乗った、奇妙な上位存在のように。


 独善的な愛は、最早呪いだ。


 だから私は浜九里颯太の意志を尊重するのだ。

 私はあんな上位存在とは違う。浜九里颯太と対等で、清潔で、何よりも尊い関係性を築くために。

 

『……あれ、これ、一体どうやって』


 ふと、耳の奥で響いた声で我に返った。

 どうやら田代吾一はまだ監視カメラの操作に手こずっているらしい。いい加減堪忍袋の緒が切れそうだ。


「はぁ……まったく……」

『あれ、あれ、あれ、あれ』

「……ん?」


 違和感が脳裏をかすめた。


 何かがおかしい。奇妙だ。


 田代吾一の視界が赤い。

 まるで臓物が撒き散らされた血の海に顔を沈めているかのように、綺麗な紅に染まっている。

 それに、聴覚も変だ。鼓動が早い。早すぎる。

 どくどくと高鳴る心臓は、まるでドラムか何かのように凄まじい速度で鈍い音を奏でている。


 今にも心臓が破裂してしまいそうだ。


「…………これは、一体?」


 今まで経験したことのない不可解な現象に、思わず疑問符が浮かぶ。



 その時だった。



『あれれれれれれれれれれれれ』



 突然、耳の奥で壊れたテープレコーダーのような音が鳴り始めた。

 調子の外れた、まるで銃機関砲の銃声のような音。


 それが田代吾一の声だと認識した瞬間。



『おぷぇ』



 ぶちり。


 何かが千切れるような音がした。



『あああああ!!!!分かるよ浜九里お前の息子があの変な石の模様を絵だって言ったんだろううんうんうんうん分かるよあれは絵にも見えなくもないなあははははははは!!!!!!』



 絶叫。


 否、発狂。


『はははははは浜九里くんにはいつかこの店を継いでほしいと思ってるんですよ彼ならきっといいバーテンダーになれるでしょうからららららら』


 彼は笑っていた。

 限界まで口角を吊り上げ、眼球がこぼれ落ちそうになるほど目を見開いている。

 

「…………え?」


 私は分体から送られてくる情報を理解できなかった。


 異様な臭いがする。血だ。血管が千切れて、鼻血が出ているのだ。

 咄嗟に鼻に手を伸ばすが、指先は綺麗なままだった。


 鼻血を出しているのは、田代吾一だ。


『そうそうそうそうそうそうそうそうチーズを出さなきゃソースを作らなきゃなうんうんうんうんこれがなきゃ客に出せないからなよしよしよしよし』


 鼻血を垂れ流したまま、田代吾一はゆっくりと席から立ち上がる。


「は……!? ちょっ、【止まれ】!【止まれ】!」


 慌てて指令を出すが、田代吾一はそのままふらふらと覚束ない足取りでキッチンへと歩き出す。

 

「まさか、もう意識が……!?」


 最悪の想定に辿り着いて、思わず愕然としてしまう。

 私の指令が通らないはずがない。人間は咄嗟の思いつきに、否が応でも反射的に反応せざるを得ない生物なのだ。


 だから、これはおかしい。


 何か、異常なことが起きている。


『あーあああー』


 最早、田代吾一は言葉すら話せなくなっていた。

 両腕を前に突き出した、ゾンビのような体勢で足だけを前へ投げ出していく。


 やがてキッチンの一番奥にある冷蔵庫の前に辿り着くと、震える手で扉を開けた。


 皮膚の触覚も受信しているはずなのだが、不思議と冷たさは感じない。


『…………』


 田代吾一は言葉もなく、その中に身体をねじ込ませた。

 細長い冷蔵庫へ強引に身体を詰め込んでいるからか、どこかでパキパキと何かが砕ける音が鳴る。

 それでも田代吾一は止まらず、ついに両腕が変な方向へ折れ曲がった。


 だが、もう痛みも感じない。


 やがて田代吾一はすっぽりと冷蔵庫の中に収まり――。






 ぱたん。







 ……どれだけ時間が経ったのだろう。


 それまで呆然と佇んでいた私は、途端に恐ろしくなって。


「……!!」


 声もあげず、ただただ必死に走ってその場から逃げ出した。



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