加速した秒針
草一本すら生えていない、地平線まで続く荒野。吹きすさぶ風は渇いていて、砂塵を巻き上げながら空の彼方へと消えていく。
空は薄暗く、無数の星々が散りばめられている。その中で一際強い輝きを持つ星が一つ。
黒い星。
まるで暗闇を凝縮したような色彩で、どす黒い光を放つ星。
巨大な球体が、まるで夜空そのものを押しのけるようにして地上を見下ろしている。
奇妙な光景だった。異様な雰囲気だった。
だからこそ、俺は自分が夢を見ているということに気付けた。
あまりにも鮮明で、だからこそ突拍子のない夢。
「……」
荒野に、ぽつんと誰かが立っている。
少女だった。瘦せこけて骨が浮かび上がった肢体にボロ布を纏っただけという貧相な姿の、美しい少女。
擦り切れて、艶を失った桃色の髪を風になびかせ、蒼い瞳は虚空を睨んでいる。
「……来たよ、きちんとね」
吐き捨てるような声音。
仇敵に対する殺意を微塵たりとも隠そうとはしない声が、だだっ広い荒野に響く。
――その視線の先で、陽炎が揺らめいた。
まるで空間全体が歪んでいるかのように、殺風景な荒野の景色がねじ曲がっている。
目を凝らすと、何かがそこにいるのが分かった。
――目には見えない。不可視の怪物が。
少女は息を大きく吸い込むと、拳をぎゅっと握って笑う。
「やっぱり単独なんだ。お仲間は上で見物?」
おどけた口調だが、その裏には強烈な敵意が渦巻いている。
少女は空中に浮かぶ陽炎をじっと見つめると、少しだけ視線を動かした。
上から下へ、左から右へ、と。それはまるで陽炎に溶け込んで姿を消している何かを観察するように。
少女には、きっとそれが見えているのだろう。
俺の網膜には捉え切れない――いや、そもそも俺の脳が認識すらしない化け物の全貌を。
「悪いけど、地球から消え去ってもらうよ。アンタたちと人間たちを接触させる訳にはいかない」
凛然とした声だった。
まるでそれは宣戦布告の文言のように、決意を漲らせていた。
「この地球をアンタたちみたいな、外宇宙の奴らに渡す訳にはいかないからね」
ピコリン、という携帯の着信音で目が覚めた。
「ん、んぁ……」
おぼろげな意識のまま瞼を開け、机に置きっ放しにしていたスマホを手に取った。
『ごめん』
『今日は講義出ない』
ロック画面に浮かび上がる文章。それは田淵からのメッセージだった。
その上に表示された時刻は午前11時。
今から身支度をして家を出ても、三限の開始時間には充分間に合う。少し混んでいるかもしれないが、学食を食べにカフェテリアに寄ってみてもいいかもしれない。
多分一日過ぎれば、昨日感じた奇妙な視線も感じないはずだ。
ベッドから這い出ようと上体を起こそうとしたが、寝起きだからか力が入らなかった。
ベッドの上で両手両足をだらんと伸ばしたまま、カーテンの隙間から差し込んでくる透き通るような日差しを眺めてみる。
「……なんか、すっげえ変な夢見ちゃったな」
荒野に佇んだ少女と奇妙な陽炎。そんな両者の対峙を遠巻きに眺めている自分。
まるで映画かアニメのワンシーンのような、どこか神秘さすら感じたあの光景。
普段なら夢なんて目が覚めて少し経てば簡単に忘れてしまうはずなのに、あの時瞼の裏で見た景色だけは脳に張り付いて離れそうにない。
「……なんで、コヨミが」
夢の中で陽炎と対峙していた、ボロ布の少女。彼女は確かにコヨミと同じ顔をしていた。
かつて何かのネット小説で読んだことがあるが、夢というのは人間が持つ無意識の思考や情動が具現化したものらしい。
だから夢の内容を分析することで、本人が知らず知らずのうちに抱え込んでしまっている悩みや欲望を突き止めることができるというのだ。
つまり、俺は無意識のうちにコヨミに対して何かしら、強い感情を抱いているということになるのだが――。
「まぁ、昨日のあれだよなぁ……」
昨晩の出来事が鮮明にフラッシュバックする。
昨日――いや、今日の深夜か。あの真っ暗な神社の境内で、コヨミは俺の膝に頭を乗せてきた。
そして俺の腹に顔を埋めて臭いを嗅いだ瞬間……突然、血相を変えて怯え始めたのだ。
あれは一体どういう意味だったのだろうか?
単に俺の身体が臭かった、という訳ではなさそうだ。どうして俺に『何か』の臭いがこびり付いているのか。そういう疑問、恐怖、錯乱……色々な感情が渦巻いて、普段の余裕が消し飛んだ。そんな感じの態度だった。
俺の体臭といえば……酒やタバコくらいだ。別に俺が飲んだり吸う訳ではないが、『ゴールデンスランバー』は喫煙可能店なので常連客などはワインやビールを片手に、スパスパと美味そうにタバコを燻らせる。何本も何本も、それこそ店内の景色が少しだけ白くなってしまうほどに。
その紫煙が店員である俺にこびり付いて……という可能性が一番高い。
だが、それはいつものことだ。普段から距離の近いコヨミなら嗅ぎ慣れているだろうし、今更驚くようなことではないはずだ。
それじゃあ一体どうしてコヨミは……。
「…………あ」
ふと、気付く。
昨日俺の周りで起こった、奇妙な出来事の連続。
もしかしたら、あれが原因なのではないか?
「……あの視線と、ナニガシさん」
夕方、大学のカフェテリアで田淵と一緒にレポートを執筆していたら奇妙な視線を感じた。
深夜、ナニガシさんと話した。普段から他愛のない話ばかりしているが、何故か昨日はやけに話題の毛色が違った。雑談とも違う。まるで尋問か何かのような……。
確かに、いつもとは違う一日だった。
だが、臭い?
奇妙な化け物と遭遇した訳でもないし、ナニガシさんと直接触れ合った訳でもない。普段と違う臭いなんて付くはずがない一日だった。
「……まぁ、考えても仕方ない、か」
このまま頭を悩ませても、きっと答えは出ないはずだ。
今度のバイトは日曜日。その帰りにでも、またコヨミと会えるはずだ。詳しい事情はその時に聞いてみるとしよう。
「えー、つまり日本語における終助詞が持つ役割というのは……」
教授が発する、抑揚のない平坦な声が講義室に響き渡る。
俺は授業の冒頭で配られた、テキストのスキャンデータを組み合わせただけのレジュメを横目で読んでみる。
授業内容自体は面白そうだが……いかんせん教授がこれだ。明らかにやる気がなさそうな態度。きっと研究員としての仕事や職務で最優先で、わざわざ丁寧に教鞭を取るつもりなんて一切ないのだろう。教員として学籍を置き、研究設備や文献を好きに使うために仕方なく講義をしている……そういうタイプの教授だ。
俺が通っている大学はそういうタイプの教員が多い。「教え授ける」と書いて教授と言うが、やはり教育者としての本分よりも学者としての知的好奇心が勝ってしまうのだろう。
生徒たちも、そんな教授の心境に勘付いているのか、あまり熱心に耳を傾けてはいないらしい。
席に座っていてもスマホやノートパソコンを触っていたり、舟を漕いで睡魔と格闘している者などが少なからず見受けられる。無論真面目に講義を聞いている者も多いが。
そんな講義室の一番後ろ。しかも左端という、一番授業への関心が薄い学生が座るような席に、俺は座っていた。
もちろん、別に俺が講義への意欲関心が低いという訳ではない。きちんと単位を取ろうと思っているし、何なら可能な限りいい成績を維持したまま大学を出たいとも思っている。
だが、今日だけは講義に身が入らなかった。
「…………」
ぼんやりと窓の外に視線を投げ出す。
風に揺られてさわさわと心地良い音を奏でる無数の葉が、午後の日差しを浴びて淡く輝いている。遠くに見える無数の高層ビルの上には青い空が広がり、真っ白な曇がなだらかに漂い滑っていく。
なんてことのない日常。どこにでもありふれた午後の光景。
故郷の田舎でも、遠く離れた大都会でも、こののどかな景色だけは変わらない。
(……結局田淵、本当に大学来なかったな)
連絡があった通り、田淵は今日大学に顔を出さなかった。
彼女が講義をサボるとは思えない。きっと体調不良か何かだろう。
田淵は俺なんかと比べるのがおこがましく思えるほどの優等生だ。
どんな講義や演習でも決して手を緩めないし、キチンと予習・復習を忘れない。
まぁもちろん、昨日の課題レポートのように題材が難しい課題には頭を悩ませたり、適当に済ませたりはするものの、何故かそういう時に限って教授から謎の高評価を受けたりする。
何が言いたいのかというと、田淵は「持ってる人」なのだ。
努力や自己研鑽を欠かさない実直さと勤勉さ、それに加えて元来の運のよさも合わせ持っている。
高い実力に幸運も合わされば、それはもう天下無双、地上最強だ。
きっと田淵なら今後の人生でどんな進路に進もうと、必ず大成功を収めてしまうだろう。根拠はないが、そんな確信がある。
この大学に入り、彼女と友達になれたのは、俺の人生の中でもトップクラスに幸運な出来事なのかもしれない。
どうせ今日は四限までで終わりだ。
バイトも予定も入っていないし、適当な軽食や飲み物を持ってお見舞いに行ってみるのもいいだろう。
「おや……もうこんな時間ですか。はい、では今日の授業はこれまで。お疲れ様でした」
ふと、思考の狭間に教授の声が滑り込んできた。
視線を教室内に引き戻すと、どうやら講義が終わったらしい。教授は黒板に書き込んだ申し訳程度の板書を消し、学生たちは続々と椅子から立ち始めていた。
それと同時に、授業時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。俺の通う大学では毎回授業開始と終了に合わせてチャイムが鳴る仕組みになっている。
(あれ、もうこんな時間?)
体感、授業が始まってからまだ十分くらいしか経っていない。
授業時間は九十分だ。それ以上でもそれ以下でもなく、テストなどを除けばこの時間で講義が行われるように設定されている。
スマホの時刻表示を確認してみるが、やはり授業開始から九十分近く経っている。教授の勘違いでも、チャイムの間違いでもないようだ。
「あれ、今日なんか終わるの早くない?」
「あ、分かる。まだ体感十分くらいしか経ってないよね?」
周りの学生たちの話し声を盗み聞きしてみると、どうやら皆違和感を感じているらしい。
互いに顔を合わせて首を傾げたり、不思議そうな顔で色々と話し込んでいる。
教授だけは講義を早く終わらせることができて、どこか嬉しそうな表情をしていたが。
「でもまあ、早く授業終わったみたいな感じでラッキーじゃね?」
「確かに!」
それでもほとんどの学生は違和感を振り払うと、明るい顔で次々に講義室から出ていく。
きっと深く考え込んでも仕方ないということを理解したのだろう。
どうせ何も分からないのなら、気のせいだと決め付けて結論を下した方がずっと楽だ。
やがて学生や教授も出ていき、誰もいなくなっただだっ広い講義室。
俺は一人、動けずにいた。
(今の……今の感覚は……なんだ?)
奇妙な感覚だった。
別に居眠りをしていたのではない。それどころか講義中に眠気を感じるようなタイミングもなかった。
意識はずっとハッキリしていた――はずだ。
講義が退屈過ぎて、思わずボーッとしていた?
いや、違う。確かに窓の外を眺めながら放心していたが、それもたった数十秒、長くて数分程度のはずだ。丸々九十分の講義を聞き逃してしまうほどではない。
「……時間が、圧縮された、か」
思わず呟いてしまう。
自分で言ってしまうのもなんだが、その表現が一番合っているような気がする。
全部感じている。
全部聞いている。
全部覚えている。
なのに、全ての出来事が一瞬で過ぎ去った事象のように感じてしまう。
ああ、こうだ。この表現だ。
まるで九十分という講義時間がたったの十分に『圧縮』されたような感覚。
間違いない。これだ。
体感時間はものの一瞬なのに、実は何百倍、何千倍という時間が過ぎていた。
その間に体験した出来事は全部覚えているし、それが実際に起きたことだということも認識している。
まるで膨大な量の情報が感覚と共に、脳に直接注ぎ込まれたような――そういう感覚。
気分はさながら浦島太郎だ。
「……ああ、クソッ」
頭が痛い。気分も悪い。喉が渇いて、口内に舌が貼り付いているのが分かった。
頭痛に加えて吐き気もこみ上げてきた。これは本格的にまずいかもしれない。
(……四限、出ずに帰るか)
どうせ四限の出席は足りているし、一週くらい休んでも簡単に追い付けるはずだ。
俺はそう判断して乱暴に荷物を纏めると、立ち上がって講義室を後にした。
立入禁止の封鎖が張り巡らされた大型遊興施設――その廃墟。
かつてボウリング場やゲームセンターが入り、非常に賑わっていたのだろう。利用客も多く、週末になれば家族連れやカップルなどで溢れ返り、活気に満ちていたはずだ。
だが売上の低迷か、建物の老朽化か。過去に事件でも起こったのか、今や廃墟となっている。
売地やテナント募集という看板も見当たらないのを見るに、そう遠くないうちに解体されるのだろう。
立派な城のような外見も、今となっては物悲しさを醸し出していた。
そんな建物の屋上。床に赤錆が浮いて、朽ち果てつつある無数の室外機で埋め尽くされたその場所に、一人の少女の姿があった。
赤錆びた手すりに体重を預け、廃墟の足元に広がる大通りを眺めている。
正確には、大通りを忙しなく往来する無数の人間たちを。
真昼の陽光に照らされて鈍く輝く、ガラス細工のような高いビルの隙間を、黒い豆粒のような人間がバラバラな動きで這い回る姿はさながら蟻の巣だ。
それを眺めているのが余程楽しいのか、少女はにやにやと笑いながら陽気に鼻歌を歌っていた。クラシック。アルルの女だ。
心底面白そうに人間観察を続けている少女――その耳に、小さな足音が聞こえてきた。
「ようやく、見つけた……!」
威圧的で、警戒するような声。
まるで長年の仇敵に向けるような、殺意に満ち溢れた声色。
少女はめんどくさそうに溜め息をつくと、ゆっくりと振り返った。
そこには――。
「ああ、君は……報告書にあった『神』ってやつかなー?」
幼い容姿。桜色の髪。蒼穹の瞳。
かつて少女が報告書で見た通りの外見をした『神』が、鬼のような形相で立っていた。
血と殺戮に飢えた野獣のような顔は、見る者全てに全身が凍り付くような恐怖を与えるだろう。
きっと普段の彼女を知っている人が、今の彼女の姿を見れば一瞬で絶句するだろう。
天真爛漫で好奇心に満ちた、年頃の少女らしい姿。
それとは真逆の、視線だけで人間を殺せてしまいそうな鬼子母神の如き姿。
まるでそう、人格が変わってしまったかのような変貌に、誰もが目を疑ってしまうに違いない。
だが、それも相対する少女には無意味らしい。射殺さんばかりに鋭い視線を向けられても、どこか涼しい顔をしている。
「名前は確か……そう、コヨミ、だっけな? 人間からの信仰心と忠誠心から誕生し、それを糧に存在する地球の上位種『神』……。そして君は原始時代、最初に生まれた神であり――私たちの先祖を瀕死になりながらも地球から撃退した英雄。そう聞いているよ?」
少女は立板に水といった調子で滔々と神――コヨミの素性を語る。
「三日三晩にも渡る決闘の後、ちょっと可哀想になるくらいズタボロにリンチされて肉体を失って霊体になったっていう話だったけど……ちゃんと肉体を取り戻せたんだね。ふふっ、よかったじゃ――」
「おいゴミ、どうして浜九里颯太に接触した?」
有無を許さぬ口調。
その凄まじい威圧感に、饒舌に語っていた少女も思わず口を閉ざす。
「昨晩、颯太と抱き合った時、お前らゴミクズの臭いがこびり付いていた。この際お前らがまた地球に姿を現しているのかはどうでもいい。一番訊きたいのは、どうしてお前如きが颯太に触れられたかっていうことだ」
その詰問に少女は暫しの間呆然としていたが、やがて我に返ると少しだけ震える声で話す。
「……か、かつて地球を一人で救った英雄が、たった一人の人間に随分とご執心じゃん? それに、私たちのことをゴミクズ呼ばわりなんてひどくなぁい? 私は人間社会じゃ『ナニガシ』っていう名前で通ってるし、そもそも私たちの種族にもきちんとした名前が――」
「いいからさっさと答えろ」
「っ、分かったってー。あー、浜九里くんが働いてるバーによく行くんだけど、そこでよく彼と話すんだ。私、酒なんてただの毒だし飲む価値なんてないって思ってるけど、浜九里くんと話すのが楽しいから、通ってるんだよね」
「…………そう」
その弁明に一応は納得したのか、少しだけコヨミの殺気が弱まる。
「……二度と颯太と接触するな。その汚い作り物の顔で彼の目を穢すな。彼はただの人間だ。お前らみたいなゴミクズが触れていい存在じゃない」
「……は? 何様のつもり?」
「何って、分からないの? お前らみたいな外来種が人間に手を出していい訳がないでしょ。地球は私のものだ。今の酸素と有害物質で溢れた地球の大気圏内では人間の肉体を乗っ取っていなけりゃ自我を保つことすらできない害獣が、幅利かせていい道理なんてないってことだ」
「……うるさいな、人間の手助けがなければ生きることもできない下等生物ごときが」
ぐにゃり、と空間が歪む。
傍から見れば、二人の少女がただ向き合っているだけだ。
だがその実、場の空気は破裂寸前まで張り詰めていた。
異様と異様。
二つの異形が放つ殺気が中空で衝突し、鮮烈な火花を散らし、殺し合っている。
普通の人間であれば、一秒と持たず失神してしまうような、異常な空気。
その最中で。
「害虫は駆除しなきゃねぇ?」
「失せろ。下等生物が」
二つの上位存在が、激突した。
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