夜。実地調査45日目。
「ただいま戻りました。いやぁ、ひどい雨でしたよ……って、どうしたんですか?」
気が付くと、ナニガシさんはいなくなっていた。
彼女が座っていたはずのスツールは、丁寧にカウンターの下に収められている。俺以外誰もいなくなった店内には名前も知らないジャズバンドの、陰鬱としたトランペットの音色だけが静かに流れていた。
「おや、お客様がいらっしゃったのですか? 精々コンビニに行って帰ってくるまで十分もかかってないのに」
マスターの声が、遠くに聞こえる。
まるで分厚い窓ガラスを一枚隔てた向こう側で喋っているかのように、その声はどこか不明瞭だ。
だから、俺にはマスターが何を言っているかよく分からない。
「……どうしましたか、颯太くん? 顔色が悪いようですが」
心臓がどくどくと高鳴っていてうるさい。頭がボーっとしている。
まるで悪夢から飛び起きた直後のように、全身が汗ばんでいるのが分かった。冷や汗とは少し違う、奇妙な汗だ。
俺は……夢を見ていたのだろうか。
いや、多分違う。
これは現実だ。
どこまでも不可解で、掴みどころのない現実。
俺は口を半開きにしたまま、ゆっくり、ゆっくりと視線を下に落とす。
空になったグラスの中では氷が解けて水になっていて。
コースターの下には、しわくちゃになった千円札が二枚挟まっていた。
「実地調査45日目。今日は朝から高校という教育機関に潜入し、日本の教育制度と若年層間で構成されるコミュニティの性質について学習した」
廃墟となったビルの屋上。
今や使われていない室外機の残骸の上に腰掛けて、少女が一人滔々と喋っていた。
口元に小さなボイスレコーダーのマイクを引き寄せ、分厚い雲に覆われた大都会の夜空を見上げている。
「日本人の18歳の間では、自分が踊っている様子を録画して、SNSにアップロードしているのが流行しているらしい。私はやっていないが、同じクラスの女生徒のグループがしているのを目撃した。どうやら、あれが現代日本の若者のスタンダードらしい」
少女は淡々とした口調で、小さな機械に肉声を吹き込んでいく。
それは通話などではない。
自分自身が後で聞き返すための、記録のようなものだ。
「それと、今日も『ゴールデンスランバー』に立ち寄った」
だが、その話題に入った途端、ほんの少しだけ声色が柔らかくなった。
「やはりあのバーという営業形態は魅力的だ。酒を飲みながら、店員との会話を楽しむ。我が故郷にはああいった形式の飲食店は存在しない。今度の定期報告会の際、また色々と話してみるのもいいだろう。前回の報告会に引き続いて、きっと好評を博するに違いない……ふふっ、楽しみだ」
そう言うと、彼女はごろりと室外機の上に寝転んだ。
朽ち果てて錆の浮いた外装は見るからに薄汚れていたが、彼女の服や髪はそんなことで汚れはしない。
「……私は、この地球という惑星の文化に心底魅入られてしまった。そして――そこに生きるヒトにも」
真っ暗な曇天では星の瞬きどころか、月の明かりさえ地上には届かない。まるで墨汁を塗りたくったような夜空だ。
だが、彼女の目は分厚い雲の先――遥か頭上に広がる星空を見ている。
その片隅。
一千光年先に見える、懐かしき星の鼓動を。
「一体何故だろうか。彼は私とは人種どころか生命という概念の根底から異なる存在なのに、彼に魅了されている。どうしても彼と一緒にいたいと願ってしまう。これが……人間の言う『愛』――なのだろうか」
ふと。
作り物の顔に、紅が差す。
実地調査に合わせて遺伝子レベルの改変を施して擬態した人類の肉体が、熱を帯びる。
「もしそうなら…………とても素敵だ」
姿形や声、表情に至るまで全てがニセモノであろうと。
きっとこの想いは。
胸の奥で渦巻いている熱い奔流は、間違いないホンモノだ。
「私はこれからも調査を続けていくつもりだ。この惑星に満ちる人類という生命体は、我々が想像している以上に複雑で……興味深い。きっと他地域に潜入している同胞たちも同じことを考えているだろう。今度の報告会が楽しみだ」
「記録終了」
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