第41話 愛情の印

「トーカ様、もうよろしいですよ」


メグの声に力を緩めると魔力がほろりと霧散するのを感じる。同時に倦怠感がのしかかるが、何度も体験したものなので慣れたものだ。

さっと立ち上がって何でもないように振舞うが、すぐにフィルから阻止されてしまう。


「トーカ、無理をしてはいけないと言っているのに……」


いつもの笑みではなく、不満そうな顔で手を差し出される。

最初の頃に足元をふらつかせてしまったせいで、訓練の後は一人で歩かせてもらえなくなった。過剰に心配するフィルから何度か抱き上げられることもあったので、これでも自重しているらしい。


大人しくエスコートしてもらえば、安心したように微笑むフィルを直視できずに、透花は目を逸らした。

ただの介助なのだと思おうとしても、時折垣間見える甘やかな瞳や、手の温もりを意識してしまうのだ。



「好意は一つではないんだよ」


透花がフィルの執務室を訪問した日の午後、お菓子の山を手にしながらフィルは説明してくれた。


「ミレーはトーカに母親のような愛情を傾けているし、ロッティ子爵令嬢は敬愛の念を抱いている。友人に対する親愛の気持ちや、唯一の相手に向ける愛情もあるよね」


フィルは一旦言葉を切ると、意味ありげな視線を透花に向けた。フィルの透花に対する愛情のことを言っているのだと分かれば、自然と頬が熱くなる。思わず頬に手を当てるとその反応に満足したのか、フィルは再び話し始めた。


「トーカは好意が無くなってしまうことを恐れているけど、色んな形の愛情を向けられていることが分かればきっと不安は減るんじゃないかな?」


フィルの言い分は何となく分かるが、透花にとってそれは希少な宝物のようなものなのだ。

だがフィルはにっこりと微笑んだかと思うと、一枚のクッキーを手に取り透花の口元に差し出した。反射的に口を開けて、もう怪我をしているわけでもないのに恥ずかしくなるが、既にクッキーは口の中だ。


「ほら、食べなければ美味しさは分からないよね?食べてしまえばクッキーはなくなってしまうけど、トーカは食べたことを後悔する?」


フィルの言葉はあっけないほど簡単に腑に落ちた。あんなに怖がって遠ざけようとしていたのに、クッキーと同じだと考えた途端に大丈夫なように思えたのだ。


「僕はクッキーを欠かすつもりはないけど、僕がいないときや別のクッキーが欲しくなったら他の人からもらったっていい。増えすぎて困ったら自分の分を人にあげてもいいしね。まったく同じものを味わえなくても、無くなった事を嘆くよりも良い方法だと思わない?」


口の中に残る甘さに何故か鼻の奥がツンとして、母のことを思い出す。母から愛情を向けられなくなった時の痛みにばかり気を取られていたが、記憶はおぼろげでも愛されていた頃に感じた喜びは覚えている。


(心がほかほかしてとても……幸せな気持ちだった)


母から愛されなくなったから、他人から愛してもらえなくても仕方がないと思っていた。だけど透花が希少な宝物だと思っていたものをクッキーに例えられたことで、何だかありふれたもののように感じてしまうではないか。


「だからトーカはまず愛されることに慣れないといけないね」


さらりと告げたフィルの言葉の意味を、自分の思考に気を取られていた透花はよく理解していなかったのだ。



「トーカ様の魔力もかなり安定してきましたね」


微笑みとともに告げられたメグの言葉に頬を緩めると、隣から伸びてきた腕に頭を撫でられる。


「トーカは努力家だからね。ただでさえ可愛いのに、一生懸命なところが本当にいと……愛らしい」


愛しいを愛らしいに変えたとしても、あまり変わらない気がするのは透花だけだろうか。熱くなった頬を押さえながら目を逸らした透花にメグは温かい眼差しを向けている。


最初の頃は、フィルと同じテーブルに付くだけで緊張していたのに、いつの間にか穏やかな表情でフィルと透花を見守るようになった。何でもフィルは透花しか目に入っていないので気にならなくなったらしい。


「トーカ」


口に入れられたミルクプリンはとても美味しい。怪我をしている時とは状況が違うので断ったのだが、これも愛情表現の一つだから慣れようねと笑顔で言われて、いつの間にか食べさせてもらうことが当たり前になってしまった。


初めて同席した際にメグが二度見どころか何度も見ていたので、それが一般的でないことに気づいた。フィルに同意を求められ強張った表情で小刻みに頷いたメグの様子に口にしなかったが、それが良くなかったのかもしれない。


(愛されることに慣れるというより甘やかされ過ぎている気がするんだけど……)


嬉しさの中に一抹の不安が混じるのは、向けられる好意に透花が慣れていないせいだろうか。フィルは当然のように透花を褒めたり気遣ったりする上に、手や髪に触れてくる。

それがどれだけ透花を落ち着かせなくするか、きっとフィルは知らないのだ。


どろりとした欲を感じさせない、ただ甘やかすだけの行為は心地よくもあるが、本当にフィルは自分のことを好きなのだろうかと疑問に思ってしまう。

そんな風に考えては、フィルとの関係を曖昧にしている自分が訝しく思っていいことではないと打ち消す。


(いつか慣れるのかな……)


あの日から必ずと言っていいほど用意されているクッキーをフィルから食べさせてもらう。愛情の印なのだと言葉や行動で示すフィルに、透花の小皿に載ったクッキーを差し出すと、幸せそうに口元を綻ばせるのだ。

その顔を見たいと思うのは友達としての好意からか、それとも別の感情なのか透花には判別がつかない。


そわそわする心とは裏腹に穏やかに過ぎていく日常が簡単に壊れてしまうことを、この時の透花は知らなかった。

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