第39話 自己嫌悪

フィルが部屋から出て行ってどれくらい経っただろうか。全てを拒絶するように両手で耳を押さえ膝を抱えていた透花が気づいた時には、いなくなっていた。


これ以上余計なことを言わないようにときつく噛みしめていた唇を緩める。激情が収まってくると押し寄せてきたのは後悔と自己嫌悪だ。


あんなに優しくて素敵な人が、自分なんかに好意を向けてくれたのに、酷い言葉を投げつけてしまった。勝手に怯えて、怒って、傷つけて、子供のように泣き喚く姿はさぞかしみっともなかったに違いない。


(このまま消えてしまえたらいいのに……)


そんな都合の良いことを考える自分にますます嫌悪感が募る。思えば唯一の友達から拒絶された日から透花はずっと逃げ続けているのだろう。


彼女の姿を目にし、近況を耳にするたびに、透花の心はぎゅっと締め付けられるように苦しくなり、登校しようとするだけで気分が悪くなった結果、透花は引きこもりになった。両親からは責められたが、菜々花は透花の姿を学校で見かけなくなったことを喜んでいたため、最終的には放置されることになったのだ。


成長していないことに自嘲しながら、透花はこれからのことを考える。


御子の役目はハウゼンヒルト神聖国の森に発生する魔物と瘴気を浄化することだ。

本来は神域であるはずの森は数十年に一度、魔物が大量に発生する。まだその兆候は見られないが、森に隣接する領土では厳戒態勢が敷かれていると聞く。


無事に浄化が終了すれば魔物への脅威にさらされることなく、務めを果たした御子は基本的に自由な生活を送ることが出来るため、この国から出て行くことになっても、引き留められることはないだろう。


(早く力を使えるようになるようになって、一人で暮らしていく練習をしないと……。フィーにはもう頼れないんだから)


拒絶したのは自分なのに、フィルのことを考えるだけで溢れてきた涙を透花は乱暴に拭った。

以前は辛いことがあっても、息を潜めてやり過ごすのが常だったのに、今はこんなにも簡単に感情が揺らぐ。

弱虫だった自分はさらに弱くなってしまったのだろうか。


『調子に乗ってたからじゃない。一人では何も出来ないくせに』


嘲るような囁きに否定できない自分がいる。この世界でなら自分のような人間でも普通に暮らしていけるのかもしれないと思っていたからだ。フィルが寄り添ってくれなければ、碌に人と関わることも出来なかっただろう。透花自身は何も変わっていないというのに。


『あんなに献身的に尽くしてくれたのに、可哀そうな王子様』


罪悪感を刺激する声は精神的な自傷行為であり、ただの自己満足に過ぎない。そう分かっていながらも、フィルを傷つけた自分が何も罰を受けないことが辛くて透花はその囁きに耳を傾ける。


だが時間が置かずに聞こえてきた控えめなノックの音に、透花は少し逡巡したあとベールを被ってから返事をした。ぐしゃぐしゃの顔を人目に晒せば、相手も困るだろう。

入ってきたミレーが手にした昼食を目にして、透花ははっとして時計を確認すると授業の時間はとうに過ぎていた。


「メグさんを見ていない?今日は授業のはずなんだけど」

「本日は中止だとフィル殿下から申しつかりましたので、その旨お伝えいたしました。トーカ様はゆっくりとお休みになってください」


こんな時でも気遣いを見せるフィルの対応に感謝すべきなのだろうが、透花の胸はしくしくと痛んだ。このままではいけないという焦燥感と不安のままに、透花はミレーに告げた。


「ミレーさん、メグさんがまだ城内にいるようであれば、授業をお願いできないか聞いてみて欲しいの」

「……かしこまりました」


一瞬気遣うような表情が浮かんだが、ミレーはすぐに承諾して部屋から出て行った。食欲はないが、食べなければミレーが心配するだろう。


時間をかけて昼食を食べ終えたものの、なかなか戻ってこないミレーを気にしていると、ノックの音が聞こえた。

ミレーとは違う音にメグが来たのだと思い込んでいた透花は、入ってきたジョナスの姿に目を丸くする。


「失礼いたします。メグ・ロッティ子爵令嬢の代理で参りましたが、よろしいでしょうか?」


許可を求めるように尋ねられたものの、どことなく拒否できないような雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。


「……ジョナス先生はお忙しいのではありませんか?メグさんの都合が悪ければ明日でも――」

「フィル様が使い物にならない状態ですので、問題ありません」


言い終わる前に断ち切られた言葉に透花は息を呑む。フィルがどこまで説明したか分からないが、主人の好意を無下にしたことで苦言を呈するためにやってきたのかもしれない。


「御子様、授業の前に一つだけお尋ねしたいことがございます」


ひたりと見据えられて、透花は目を逸らすことが出来ない。


「御子様はご自身に愛される価値がないと思っておられませんか?」

「え……」


非難の言葉を覚悟していた透花は、予想外の言葉に思わず声を漏らしてしまった。無言で見つめていると、ジョナスは僅かに眉を下げて淡々とした口調で告げる。


「俺の推察が間違っているのであれば、謝罪いたします。不敬だと言われても仕方がない質問でした」

「いえ……間違いではありません」


家族からも愛されなかった自分が、他人に愛してもらえるなんてどうしても思えなかった。

幼い頃の記憶はぼんやりと霞んでいるのに、その時に感じた喜びと痛みはしっかりと覚えている。最初から嫌われている記憶しかなければ、いっそ楽だったのかもしれない。


いい子にしていれば愛してくれる、そんな期待と落胆を何度繰り返しただろうか。

大切な友達を失って、ようやく透花は現実を受け入れたのだ。

それなのにあっさりと好意を口にするフィルを信じられなくて、怖くてたまらなかった。


「家族云々に関しては俺も御子様に近いので、お気持ちは分かりますけどね。ただフィル様に関して言えば御子様は少々誤解を、いえ認識が甘いと言った方がよいでしょうか。あの方のことで御子様が思い悩む必要はありませんし、正直なところ時間の無駄ですね」


てっきりフィルのためにやってきたのだと思っていたのに、随分な物言いに透花は唖然とする。だが先ほどは使い物にならないと言っていたのだから、やはり透花のせいで傷ついたり落ち込んでいるのではないのだろうか。


「百聞は一見に如かずと申します。御子様が気に病まれる必要がないことをお見せいたしましょう」


そう告げたジョナスは珍しく、口の端を上げて笑っているように見えた。

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